第五章(4) ブランシャール宝石店
ブランシャール宝飾店宛に、一通の手紙が届いた。マルブールから早馬で送られたものである。
差出人の名を見た瞬間、アルベリクの背筋が伸びる。
ナタリー・ルルー。封筒の端に、細字で小さくそう署名されていた。
彼は机の引き出しからペーパーナイフを取り出すと、恋文を開けるがごとく、そっと封を切った。
中の手紙には、端にわずかばかり、黒い指紋がこびりついていた。インクかと思われたが、粘性があり、どうやら松脂の滓のようだった。
松脂は、加工に際して作品を固定するために使われる。これが指についているということは、彼女は手紙を書く直前まで加工の作業をしていたのであろう。
彼女は今も金の卵を産み続けている。アルベリクの口元に自然と笑みが浮かんだ。
だが、手紙の内容を読み進めるうちに、その笑顔は濁り、不快げな表情へと変わっていった。
手紙には、繊細な筆跡で、こう書かれていた。
『拝啓 アルベリク・ブランシャール様。
何度もお伝えした通り、皇都には参りません。
また、貴方様以外の方とお話するつもりもございません。
これ以上の手紙のやりとりも、不要です。
敬具
ナタリー・ルルー』
以上である。驚くほど簡潔な手紙であった。
アルベリクは天を仰いで、短い悪態をつく。
アルノー夫人の品評会に参加するには、技師の存在が不可欠である。しかし、当の本人はマルブールの山小屋から梃子でも動かない心積もりであるらしい。
宿痾を持っているという彼女の言を信じるならば、それも致し方ないことではある。だが、このままでは品評会への参加すら危ぶまれる。
アルベリクは腹の中で毒付きつつ、懐から燐寸を取り出した。そして、今しがた読んだ手紙に火をつけ、塵箱に放り込んだ。
──致し方ない。
アルベリクはかねてより構想していた策を実行に移すことにした。
ナタリーは、アルベリク以外と話す気がない。結構なことではないか。つまり裏を返せば、彼女はそう易々と他店に流れてゆく種類の人間ではないということだ。
だが、それだけを頼みに安寧の椅子に腰掛けているわけにはいかない。念を入れて二重三重の対策を取らねばならなかった。
「ローラン!」
側近の名を呼ぶも、やや待っても返事がないので、アルベリクは舌打ちをして執務室を出た。そして、早足に事務室に向かう。
昼の休憩時間ということもあり、事務室ではローランを中心に事務員たちが世間話に花を咲かせていた。だが、アルベリクが一歩部屋に入った途端、彼らは貝のように口を噤んで黙り込んだ。
もとよりアルベリクは、従業員から恐れられ敬遠される類の男だった。だが、生誕祭での失態以来、従業員らは目に見えてアルベリクを忌避するようになった。それも
むべなるかな。普段から売上を出せと口やかましくせっついてきた当の本人が、一番足を引っ張っているのでは、世話がない。
しんと静まり返る事務室に、アルベリクの冷たい声が響く。
「ローラン、例のリストを執務室に持ってきてくれ。今から検討する」
「『指人形』ですか?」
「そうだ、『指人形』だ」
『指人形』というのはアルベリクと一部の部下との間で取り決めた符丁だった。
ローランはさっと立ち上がり、鍵付き棚から一冊のファイルを引き出した。それを携え、二人は連れ立って事務室を出る。
苦々しげな顔で足早に事務室から離れるアルベリクを、後ろから追うローランが気遣わしげに見やる。
「……アルノー夫人の品評会は、必ず成功させなければなりませんね」
「当然だ」
机の上にファイルを投げ出して、ばら、と開く。ファイルの中に詰められていたのは、経歴書の束だった。すべて、宝飾技師の経歴書である。それを二つの頭が覗き込み、一枚ずつ確認してゆく。
「この男はどうですか。腕は良いですし、十分な知識を持っています。それに、適度に社交性もあります」
「いや、女がいい。作風から性別を推察される」
「ではこの女は」
「悪くはないが、年かさだな。流行を作るのはいつも若い人間だ。できれば二十代が良い」
「そうなると候補は絞られますね」
紙束をめくるアルベリクの指が、一枚の経歴書の上で、ふと、止まった。書類に記載された名前を眼にした瞬間、アルベリクの眼がわずかに見開かれた。
その変化を機敏に察したローランが、先回りして説明を始める。
「この女は貧民街出の娼婦で、内職としてうちの仕事を回しています。オリジナルの作品も作っていて、今も時折持ち込みに来ます。技術はさほどではありませんが、熱心さは評価できます。職業柄か人当たりも良いですし、適役かもしれません」
「ふむ……」
経歴書に記されたサラ・ダリューという名を、アルベリクは長いこと、押し黙って見つめていた。
やがて、彼はおもむろに目を上げ、ローランを見やった。
「よし、この女に連絡を取ってくれ。くれぐれも、競合に気取られないようにな」
承知したと答えて去ろうとするローランを、アルベリクが引き止めた。
「ローラン」
「はい」
──ルイーズと駆け落ちするというのは本当か? 正気かね?
喉元まで出かかった言葉を、アルベリクは飲み込んだ。
「……いや、なんでもない。行ってくれ」
ローランは僅かな当惑を顔に見せつつ、執務室を去ってゆく。その姿を、アルベリクは苦々しげに見送るしかなかった。






