第五章(3) アルノー本邸
明くる日、アルベリクは早速アルノー夫人のサロンに足を伸ばすことにした。
アルノー夫人のサロンは、皇都郊外の本邸で開かれている。この本邸の規模というのが大変なもので、敷地は端から見て向こうの端を目視できぬほど広く、邸宅は宮殿とまごうばかりの巨大さと荘厳さを誇っていた。
夫人のサロンは、その巨大な邸宅の一部を利用して行われていた。サロンという言葉は、元々は応接間を意味するものである。通常の邸宅であれば応接間は一室しかないが、部屋数が二十を超えるアルノー本邸では、応接間も四つ存在した。
夫人のサロンは、その四つある応接間のうち一つないし二つを利用している。品評会のある日は大きめの応接間を二つ使い、それ以外の日は小さな部屋を一つ使うという具合である。
今日は単なる情報交換会であるため、参加者も少なかった。
案内された応接間を見渡すと、小ぶりな(と言っても他の部屋と比較して、だが)部屋の中に、人々が幾人か集って島を作っているのが見えた。彼らはめいめい、デザインカタログを覗き込んで討論したり、試作の蝋細工を手に感想を言い合ったりしている。
アルベリクはこの場の空気の中に、どこか心地の良さを感じていた。欲望と見栄にまみれた社交界とも、賃金のためにやむなく仕事をする者の集う職場とも、明らかに空気が違う。ただ純粋に宝飾を愛し、技倆を高めようとする者たちが集っている。そのためか、人数こそ少なくとも、そこには熱い力が満ち満ちていた。
さて如何にしてこの場に浸透してゆくべきかとアルベリクが思案していたところ、彼の肩を後ろから誰かが叩いた。
「やあ、ブランシャールの。まさか、君のような輩がこのサロンに顔を出す日が来るとはね。まったく驚いたよ。夫人は一体何を考えていらっしゃるのやら……」
聞き覚えのある嫌みたらしい言い回し。顔を見ずとも、声の主が誰で、今どんな表情をしているか、アルベリクには想像がついた。
あまり関わり合いになりたくもない輩だったが、知り合いが誰も居ないこの状況では、ある種渡りに船でもある。
アルベリクは聞えよがしに溜息をつきつつ、振り返って声の主に相対した。
「……リュファス。この間のオークションでは世話になったな。ボーマルシェ宝石店を抵当に入れたと聞いたときは、もう二度と会うこともないと思ったものだが。しぶとく生き残っていてくれて嬉しいよ」
目には目を歯には歯を、皮肉には皮肉を。それが皇都式の挨拶である。
ボーマルシェのリュファスはその端正な貌を歪ませて、苦々しげに笑った。
「ぐ……。で、例のブローチの制作はどうなんだ。進捗のほどは」
「順調だ。貴様にくれてやるのが惜しいほどの出来だよ」
「それはなによりだ。それで? 例の技師はどこかな?」
「今日は来ていない」
仏頂面で言い訳するアルベリクを、リュファスは鬼の首を取ったような面で見下した。彼は「ハッ」と鼻で嘲り笑い、アルベリクを顎から見下した。
「このサロンは技師が主役なんだ。ことに新参者なら、品評会に出す前に挨拶回りをしていた方が審査員の心象も良くなる。それを知らないわけじゃないだろう?」
「言われずとも判っている。今日は単に下見に来ただけだ」
いい加減にリュファスの相手も面倒になってきた頃、また別の男が近づいてきて、アルベリクに声をかけた。
「アル! アルベリクか?」
これも、アルベリクにとっては聞き覚えのある声だった。だが、その記憶は随分と古く、彼が皇都にやってくる前のものだった。
声のした方に顔を向けると、上背のある男が朗らかな笑顔でもって近づいてくるのが見えた。アルベリクと同じ黒髪を短く刈り上げ、一見すると僧の如き趣がある。顔つきはアルベリクより若々しく見えたが、その実、年齢は彼よりも少しだけ上回っていた。
アルベリクは、ほっと頬を緩めると、親しげにその男の名を呼んだ。
「ネイライか」
男はアルベリクから名を呼ばれ、人懐っこく破顔した。
「久しぶりだな、アル。マルブールで別れて以来か。髭なんぞ蓄えて、立派になったものだ」
「あんたは変わらんな。だが、活躍の噂は、うんざりするほど聞いている」
親しげな二人の様子を見て、リュファスが怪訝そうに片眉を釣り上げた。
「なんだい、二人は知り合いかい?」
リュファスの問いに、ネイライと呼ばれた男は嬉しげに首肯した。彼は雇い主であるリュファスに対し微塵も遠慮せず、まるで友人を相手にするような気軽さで語りかけた。
「リュファス、この男は俺が案内する。構わんよな?」
「好きにすればいいさ」
すっかり興が冷めた様子で、リュファスは視線を泳がせた。彼はサロンに来ていた女技師の一人に目を留めると、そちらに向かってそそくさと立ち去ってしまった。
その後姿を苦笑いしながら見送った後、ネイライはやおら振り返って話を切り出した。
「ガストンが逝ったと聞いたが」
「ああ」
「クズほど長生きするというのはどうやら本当らしいな。お前の店にとっては痛手だろうが」
「まあな」
アルベリクは気のない返事をしてから、翻ってネイライの顔を見上げた。感慨深く旧友の顔をひとしきり眺めた後、彼はかねてより気になっていた話題を切り出した。
「現任の御用職人が解任されると聞いた。もはや、あんたが皇室御用達になるのも時間の問題だろう。違うか?」
「どうかな……。最近どうも雲行きが怪しい。泰皇陛下は大司教から推薦された業者を召し上げられるおつもりかもしれん」
「コンスタン大司教か? あの御方に、宝飾が判るとは……」
「無論、判らんだろうさ。だからこそ良いのだろう」
奇妙な答えだった。アルベリクは一抹の不安を胸に覚えつつ、今己が置かれた立場について、確かめることにした。
「このサロンに出品すれば、皇族の目にも留まると聞いたが、あれは間違いか?」
「間違いではないさ。現に、前回の品評会で最優等を取った作品は、アルノー夫人の手から皇太子殿下に献上されている。だがな……。──見てみろ」
ネイライが、応接間の壁際にたむろする一団を顎で指し示した。
「あれが品評会の主席審査員、ギヨーム・ド・アレヴィだ。パヴァリア出身の上級貴族で、熱心なベツレヘム教の信徒でもある。未来の教皇候補の一人と言われているな」
一団の中央に陣取り、大仰に身振り手振りを駆使しながら演説する男がいる。その男を冷たい目で見据えながら、ネイライが話を続ける。
「あの男が来る前までは、このサロンはもっと人間味に溢れ、もっと創造的な場だったのだがな。泰皇陛下がこのサロンから御用業者を召し上げた途端、あの男がやってきて場を仕切り始めた。曰く、皇室に献上される品には相応の格式が必要だとか何とか」
「よくある話だ」
「ああ、よくある話だ。それで場が陳腐化することも、な。……確かに格式の高い作品が並ぶ立派なサロンにはなったが、今はもう誰もこのサロンの当初の目的を覚えてなどいない」
ネイライはアルベリクに目配せして、ついてくるよう促した。
彼が案内したのは、応接間に隣接する小部屋だった。壁一面に飾られた額縁が、質素な内装のその部屋の中において、ひときわ目を引いた。
何気なく、アルベリクは手近な額縁を見やる。飾られていたのは、女性の手元を写した写真だった。素朴だが表情豊かな指輪が、その指に嵌っている。額縁の下には、おそらく写真が撮影されたであろう日付と、人名、そして工房の名の書かれた札が添えられていた。
「ここには、品評会の歴代の受賞作品の写真が掲示されている。受賞作の作風の変遷から、サロンを取り巻く状況の変化を観察できて、なかなか面白い」
アルベリクの視線を追いつつ、ネイライが解説する。
してみると、彼の語るとおりだった。掲示された写真を古い方から眺めてゆくと、回を追う毎に宝飾品の質が上がり、細工の手が込んでゆくのがはっきりとわかった。
やがて、二人の足はひとつの額縁の前で止まった。
レースのように金糸を編み込んだ幅広のネックレスが、夫人の首元を抱いている。糸と糸の間に散りばめられた無数の小金剛石が、あまりの眩さでところどころ写真を白飛びさせていた。
「五年前の受賞作。現御用職人の最高傑作だ。この辺りが、このサロンのピークだな」
ネイライが、目を細めて写真のネックレスを称える。その表情には、かつての栄光を懐かしむ様子が、そこはかとなく見て取れた。
だが、アルベリクには、その作品がさほど優れているようには見えなかった。写真を端まで眺め終えたところで、その考えは確信に変わった。
「正直に言って、俺は最近の作品の方が好みだがな。直近の最優等作などは、ことに素晴らしい。皇太子殿下がお召し上げになるのも宜なるかなというものだ。洗練されたパヴァリア様式。繊細かつ緻密で、ただただ眼に美しく映える。宝飾というのは、かくあるべきだ」
アルベリクが熱のこもった声で弁ずる。
──『絶対的な美の実現』。それこそが、アルベリクが宝飾に求める究極の理想だった。
だが、対するネイライの声は、あくまで冷ややかだった。
「鑑賞者の立場でいえば、そうだろうな。だが、くどいようだが、このサロンの元来の目的は違う」
「元来の目的……アルノー夫人の慰撫……か」
「ああ。元はあの方の友人たる技師たちが、悲嘆にくれる夫人を慰めるために宝飾を作ったのが始まりだ。俺は今もそのつもりで品評会に出品しているが、おかげで入選からは遠ざかっている」
その言葉を聞いた刹那、アルベリクの目の色が変わった。だが、彼はすぐに平静を装い、ネイライに対して同情してみせた。
「そうなのか……あんたほどの男が」
「リュファスからはそのことで随分と小言を言われていてな。方針を変えて、もっと審査員に受けるものを作れとせっつかれている。誰かの下で働くというのはなかなか難しいことだ」
アルベリクは、かの使用人ジョゼが語っていた話を思い返していた。
多くの技師が、夫人の心を癒そうとして傑作を持ち寄ったが、その心を救うことは未だできなかったという。
そして、ネイライの話を聞く限り、既にサロンからは当初の目的が忘れ去られ、言ってしまえば一般的な品評会の体に変化しつつあるらしい。
アルノー夫人のサロンは、今や、二つの側面を持ち合わせている。夫人の慰安というごく私的な側面と、宝飾業者の登竜門としての公的な側面である。そして、今は後者の側面の方が優勢であり、今後の出世を見越すなら、夫人の個人的な事情など横に置いておくことが肝要であろうと推察できた。
そこまで考えた時、アルベリクの頭脳の中で、成功に至る皮算用が完成した。
(おそらく、このサロンで最も力のある宝飾技師は、今目の前にいるネイライだ。その強敵がアルノー夫人の慰撫などという些事に囚われているとあらば、これは千載一遇の好機。こいつがくだらぬ作品を作って入選ラインすれすれをのたくっている間に、こちらはギヨーム好みの格式高い宝飾を完璧に作り上げ、審査員たちの鼻先に突きつけてやればどうなるだろう?)
数秒のうちにアルベリクはそこまで考え、計画を組み、その計画を早速実行に移した。
「ネイライ、あんたの気概は天晴なものだ。夫人の使用人からも聞いたが、アルノー夫人はもはや限界が近い。彼女をお救いすることができるとすれば、あんた以外にはありえないだろうと、俺は思っている」
思ってもいないことを、ごく真摯な表情で、アルベリクは言ってのけた。
対するネイライはこの言葉を、額面通りに受け止めたらしい。彼は感慨深げに、旧友の横顔を見やった。「アル……」
アルベリクは真面目くさった顔で頷きつつ、話を続ける。
「──いいか、ネイライ、よく聞いてくれ。夫人の別邸で、俺は見たのだ。あの方が、あんたの作ったネックレスを首にかけているのを」
「それは、本当か」
「ああ。俺がこの手で夫人の首にかけて差し上げたのだから、間違いがない。あの方は、あんたの作品に心を動かされている」
思案げに、ネイライが顎を擦る。
その様子を横目に見つつ、もうひと押しとばかりに、アルベリクは三文芝居の締めに入った。彼は眉根を寄せて苦悶の表情を浮かべ、無念そうに首を横に振った。
「俺も夫人の使用人から、夫人をお救いするよう乞われているのだが、正直、今の俺たちには荷が重い。しかし、その苦衷も察して余りあるものでな……。なんとか、努力はしてみようと思っている」
ネイライはすっかり感極まった様子で、真っ直ぐにアルベリクの眼を見据えていた。
「アル……。この街で赤目烏などと呼ばれていると聞いて、俺はお前のことをとても心配していた。だが、お前はマルブールにいたあの頃から、決して変わってはいなかったのだな」
「よしてくれ、恥ずかしい」
「安心しろ、アル。あの方のことは、俺に任せてくれていい。必ずや、俺のこの手で、あの方のお心を癒やしてみせよう」
ネイライの大きな手が、アルベリクの肩を力強く掴む。彼の瞳は使命感に燃え盛り、口元は強い意志に引き結ばれていた。
アルベリクは希望に目を輝かせる素振りを見せつつ、内心ではほくそえんでいた。
アルベリクにとってネイライは、旧知の友である。二人はかつてマルブールで、同じ時間を過ごしていた。ネイライという男は、その頃から義理がたく、情に厚い男だった。しかし、皇都において、彼のような性格は、ただ単に与し易いばかりである。アルベリクはその性格を見込んで、一芝居打ったのだ。
それにしても、欲望と謀略渦巻く皇都にありながら、この男はなんと素朴なのだろう。あるいは、技師として仕事をしている限り、そうした権謀術数からは無縁でいられるということなのだろうか。
二人は応接間から庭園に出た。乾いた冬空の下に、見事な赤い椿が花を咲かせている。この庭園は、各所に四季折々の花を植え込み、一日たりとも花を欠かすことのないよう工夫されていた。
二人は花壇横の椅子に腰掛け、足を休めた。ネイライが懐からおもむろにパイプを取り出し、マッチから火を入れる。
青空に消えてゆくパイプの煙を見ながら、アルベリクは一つ疑問に思っていたことをネイライに尋ねてみた。
「しかし、解せんな。なぜこのような私的なサロンの品評会に、泰皇やパヴァリアが注目し、干渉するのだろう?」
問われたネイライは、ぼんやりと空を眺めながら、つまらなそうに答えた。
「パヴァリアでは、たかだか人差し指ほどの大きさのブローチで、荘園の所有権が動くそうだ。ここまでくると、もはや立派な政治の切り札だな」
「話が見えんな。何が言いたい?」
「力のある宝飾業者が皇室に出入りするようになれば、それは即ち皇室の力になる。それを防ぐための手管として、コンスタンやギヨームがパヴァリアから送り込まれたとも考えられる」
「考えすぎではないのか」
その問いに答えず、ネイライはパイプを一口吸いこんだ。青白い煙が空の雲に混じって消えてゆく。
だしぬけに、彼は問うた。
「アル、お前は宝飾の力を信じるか?」
「宝飾の力?」
「もしも、宝飾に、人の魂を掌握する力があるとしたら、どうだろう? それを権力者が手にすれば、どうなると思う?」
「戯言だな。呪術と迷信の時代ならいざしらず、今は科学革命の時代だ。呪具としての宝飾は、とっくの昔に死に絶えている」
『彼女の作品は、決して世に出すな』
幾度となく頭の中で繰り返された言葉が、再びアルベリクの脳裏を掠めた。
一方のネイライは、さして興味もなさそうにアルベリクの言葉を聞き流した。
「まあ……どうかな……。いずれにせよ、この宝飾界隈が、政治上のグレーゾーンであることは間違いない。仮に泰皇がギヨームの件で教皇やパヴァリアを非難したところで、たかが宝飾のことと鼻であしらわれるだけだからな。この国の成り立ちにベツレヘム教とパヴァリアが絡んでいる以上、この手の干渉は今後も続くことだろう」
ネイライはそこまで語ってから、パイプの煙を口に含み、空に向かって思い切り吐き出した。
「つまらんことだよ」
一言呟くと、彼はやおらアルベリクに顔を向け、真剣な顔でこう尋ねた。
「アルベリク。例のロートシルト宝飾を復活させた技師は、この場に来るのか?」
「無論だ。それがここのしきたりなのだろう」
すると、ネイライは顔を輝かせ、これ以上ないほどの笑顔を見せた。
「そうか! 会える日を楽しみにしている。ロートシルトの復刻は、かつての俺とお前の夢だっただろう。その夢を掻っ攫っていった技師がどんな面構えをしているか、非常に興味がある」
熱意を込めて語るネイライを、アルベリクは鼻であしらった。
「青春の夢など泡沫にすぎんよ。俺の夢は、既に別にある」
「薄汚れた中年男の見る夢など、どうせ金か地位かといったところだろう? 宝飾史上の偉業達成に比べれば、些末なことだ」
ネイライはパイプを口に咥えながら、寒空の向こうを遠く眺めていた。






