第五章(2) アルノー別邸2
サロンの日取りなど諸々のすり合わせを終え、アルベリクは夫人の部屋を辞した。
すると、部屋の外で待ち構えていた使用人が、早足にアルベリクの元に近づいてきた。先刻豪胆にも大司教に噛み付いた、あの女だった。
彼女は神妙な面持ちでアルベリクを見上げ、小さく会釈した。
「ブランシャール様。恐縮ですが、すこしお話が」
「貴方はたしか……ジョゼ殿でしたか。如何しましたか?」
努めて紳士的に応ずるアルベリク。すると彼女は、出し抜けにこんなことを言い出した。
「どうか、奥様をお救いください」
「それは、いったい……」
彼女が不躾を承知で願い出てきたことは、その表情から伺い知れた。
一瞬の逡巡の後、ジョゼはゆっくりと語り始めた。
「──旦那様が戦地に出られて以来、奥様の神経は耗弱されてゆくばかりです。あのご様子をご覧になったでしょう? 可愛そうな奥様……あのままでは早晩、床に臥してしまいます」
言う間にも、彼女の瞼から、みるみるうちに涙が滲み出す。それを隠すように、彼女はそっと目を伏せた。
泣かれたところで、アルベリクとしては対処に困るばかりである。彼は額に汗し、必死に抗弁した。
「いや、しかし……私は、聖職者でもなければ、医者でもないのだが……」
「無論、それは承知しております。ですが、もはや、奥様をお救いできるのは、奥様がこよなく愛する宝飾をおいて他にないのです。聖職者はあの通りですし、医者も心の持ちようと繰り返すばかりで……」
「そうは申されても、宝飾品は所詮宝飾品。さような効果を期待するべきものではないかと……」
「本当に、そうお思いですか? 宝石商たるブランシャール様が、宝石の持つ力を、信じていらっしゃらないのですか?」
軽く咎めるような口調で、ジョゼが問うた。純真な瞳に見つめられては返す言葉もなく、アルベリクは黙り込むしかなかった。
「奥様は、常々おっしゃられていました。宝飾品は、ただ人を飾り立てるだけのものではないと。良い宝飾品には、人の魂を導く力があると」
彼女はそう言って、胸元を手で強く抑えた。夫人と過ごした日々の思い出を、胸の中に押し留めようとでもするかのように。
アルベリクは、思案した。彼女らが宝飾品に何らかの特別な力があると信じたいのなら、迎合し寄り添うのが商人としての筋であろう。
また、一流の芸術作品が、人の魂を救う場合があるということくらいは、アルベリクもよくよく承知していた。
だが、一つの懸念が、アルベリクを躊躇させていた。ナタリーの作品はたしかに素晴らしいが、とはいえこの使用人の語るような呪いめいた力を保証することなど、一商売人としてできはしなかった。保証できない効果を約束して、運悪くそれが実現しなかった場合、宝飾店としての信用を少なからず失うことになるのだから。
そこでアルベリクは、さり気なく責任の所在を相手に押しやろうと試みた。
「なるほど、たしかにおっしゃるとおりです。しかしながら、よしんばそうした力のある宝飾を作れたとして、我々は夫人の魂をどこに導けばよいのでしょう?」
ジョゼはアルベリクの質問に対し、「それは……」と呟いたきり口をつぐんでしまった。
唇を引き結び、やや思考した後、彼女はがっくりと肩を落とし、頭を垂れた。
「……申し訳ありません。私には、計り知れません……」
苦悶の声が、女のか細い喉から漏れる。
「奥様のサロンに出品する方々は、皆様、奥様をお助けしようと、類稀な作品をご用意していらっしゃいました。ですが、そのどれも、奥様をお救いするには至りませんでした……」
アルベリクはさも無念そうに首を振って、心にもない同情の素振りだけを見せた。
「謝らないでください。私とて、御婦人方の力になれぬのは辛いのです。……ですが、やはり、そうなると難しいですな。あの方が本心では何を求められているのか。それがわからない限りは……」
若く非力な使用人は、手を堅く握りしめ、俯いたまま震えていた。
──ここで妥協案を差し出せば、必ず食いつく。そう判断し、アルベリクは口を開こうとした。
その瞬間、突然ジョゼが決然と目を上げた。その眼はいまだ涙に濡れていたが、今や決意をはらんで凛と吊り上がっていた。
「……私が、なんとかします。なんとかして奥様のお気持ちを汲み取り、それを貴方様にお伝えいたします。品評会に間に合うよう、必ず……」
突如変容した女の姿に、アルベリクは驚きを禁じ得なかった。大司教に楯突いた一件といい、この女は華奢な見かけによらず、なかなか意思強堅であるらしい。
アルベリクは内心の動揺をさとられぬよう、努めて穏やかに尋ねた。
「……それは、品評会の運営上、不正になりはしませんか?」
ジョゼは首を横に振る。
「無論、他の出展者の方にも、同じ内容を主題と称してお伝えしたいと思います」
「夫人に内緒でですか? 不興を買うのでは?」
「サロンの運営は、私に一任されておりますから、ある程度は自由が効きます。差し出がましいことは、承知の上です。あの方のお怒りを買い、暇を出されたとしても、あの方が救われるのなら、私はそれで構いません」
見上げた忠誠心である。この皇都において、これほどまで純粋に主を思う従者は、他にないであろう。
彼女に引く気がない以上、アルベリクとしてはこう答えるより他なかった。
「……わかりました。善処いたしましょう」
アルベリクが重々しく頷くと、ジョゼの満面に安堵の表情が広がった。
「どうか、どうか、よろしくお願いいたします……!」
彼女はアルベリクの手を両手で掴み、拝むように幾度も頭を下げながら懇願していた。