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第五章(1) アルノー別邸1

 生誕祭での不用意な発言は、アルベリクに舌禍をもたらした。公の場で恥をかかされた由で、彼の顧客たちが皆で示し合わせて、ブランシャールの商品の不買を決め込んだのだ。


 顧客たちからの注文が日に日に減少してゆく中、ブランシャールは挽回の策を早急に打つ必要に迫られていた。


 皇后の『お願い』は、アルベリクにとっても、ブランシャールにとっても、目下ただひとつの命の綱だった。


 肝心の皇后の願いであるが、これは至ってシンプルだった。彼女の友であるアルノー夫人のために、宝飾品を作って欲しいという。


 アルノー夫人は皇后と同様、パヴァリアから嫁いできた上級貴族である。


 隣国パヴァリアの主導で進む宥和政策(とは名ばかりの、実質的な同化政策)の一環として、多くの王侯貴族が強制的な政略結婚を強いられてきた。アルノー夫人ことベルティーユも、そうした貴族のうちの一人だった。


 強いられた婚姻ではあったものの、ベルティーユは夫を心から愛していた。だが、その夫であるアルノー公爵は、南方遠征において、不幸にも帰らぬ人となってしまった。残された未亡人ベルティーユは、夫との思い出のあるこの地を離れることもできず、愛する者の死から目をそらし続けて生きてきた。


 貴族アルノーの戦死から既に十余年。彼女は今も皇都に夫が帰ってくると信じ、人々には己をアルノー夫人と呼ばせ、主の帰りを待ち続けている。


 アルノー夫人はもとより宝飾を愛する人物であり、多くの宝飾品を所有する蒐集家でもあった。それが、夫の死後、ますますこの趣味に没頭するようになったという。


 夫人の皇都別邸は、貴族街の一等地に位置している。広々とした敷地は高い塀に囲まれ、外から伺い知れるのは塀の上に据え付けられた黒い鉄柵ばかり。かような秘密の庭に、アルベリクは今や馬車で悠々と立ち入ることができた。


 緑多い庭園を抜けると、古風な邸宅がその姿を現した。森の中にひっそりと佇むその古亭は、都会にありながら郊外の隠れ家のごとき佇まいであった。


 アルベリクは邸宅の前で馬車を降りると、玄関まで歩み進んで迷いなくノッカーを叩いた。ほどなく扉が開き、中から使用人が顔を出す。使用人に名と用件を告げると、相手は快くアルベリクを邸内に迎え入れた。


 使用人の女が語るところによると、現在夫人には先客が訪ねてきているため、もし込み入った話があるならば、しばらく別室で待ったほうが良いだろうとのことだった。


 アルベリクが夫人の私室の扉を前にして、身の振り方を思案していたところ、突然、部屋の中から女の怒声が聞こえてきた。


 扉を隔てた向こうのことで、内容までは聞き分けられなかったが、女の方が一方的にわめきたてていることだけは、アルベリクにも判った。


 アルベリクが使用人に目配せすると、彼女は怯えきった表情をしながらも、おずおずと扉を引き開いた。


 扉のすぐ向こうには、恰幅の良い男が一人立っていた。派手な法衣を身にまとうその小男は、今しも部屋の奥に向かって祈りの印を切っているところだった。


「それでは、夫人、御機嫌よう。またお伺いいたします」

「もう二度と我が園の敷居を跨ぐことのないよう、お願い申し上げますわ。貴方は、パヴァリアの面汚しです」


 部屋の奥から、低く冷たい声が聞こえる。薄く開かれた扉の隙間からはその姿を窺い知ることができなかったが、おそらくこれが、アルノー夫人の声であろう。


 法衣の男の方は、じりじりと後ずさりした後、はっしと扉の把手を掴んで部屋の外に躍り出てきた。すると男は、部屋の外に待ち受けていたアルベリクと、真正面から顔を突き合わせることとなった。


 アルベリクもその男も、互いに顔を知っていた。それもそのはず、つい先日大聖堂で面会したばかりだったのだから。


 アルノー夫人から悪罵され、為す術なく追い出された男は、偉大なる皇国の大司教、コンスタン・ルロワであった。


 コンスタンはアルベリクの姿を見るなり、たった今晒した醜態などなかったかのように、尊大にふんぞり返りながらアルベリクを下から見下した。


「これは、ブランシャール様。かような場所でお会いできるとは、奇遇ですな」

「コンスタン大司教。この騒ぎは、いったい何事ですか」

「夫人は未亡人となられてから、(しゃく)の病を患っているようです。しかし、己の魂の未熟の責を、私に転嫁するようではいけません」


 この言葉を聞いて黙っていなかったのは、アルベリクの傍らに立つ使用人の女だった。

 彼女は声を震わせながらも、憤りに眼を爛々と輝かせ、聖職者の王たる男に楯突いた。


「僭越ながら、私からもお願い申し上げます。お引取り願えますか」


 アルベリクは、ぎょっとして女を見た。大司教相手に、たかが一介の使用人の分際で、さすがに僭越が過ぎる。しかし、女は怒りのあまり、立場すらも忘れているようだった。


 案の定、コンスタンは激怒した。彼は丸い顔を茹で蛸のように赤く染め、唾を飛ばして喚き立てた。


「下賤の者が、大司教たる私に指図をするか、不届き者! 貴女はたとえ以後いかなる善行を積み上げようと、死後天上に招かれることは決して無いと知り置きなさい!」


 使用人はここにきてようやく、自らの言葉がいかに罰当たりなものか、気づいたようだった。彼女は顔を真っ青にしてうつむき、ガタガタと震え始めた。だが、それでも決して、彼女は赦しを乞おうとはしなかった。


 コンスタンは顔をしかめつつ、懐から贖宥の石を取り出し、女の鼻先に突きつけた。


「この贖宥の石を(あがな)うならば、神も貴女の暴言を赦しましょう。しかし、貴女の収入では、一生かかっても贖えるような品ではありませんが、ね」


 女の瞼の端に涙が滲む。その様子を、悪趣味なる大司教は愉悦の表情でもって眺めていた。


 と、薄く開いた扉の向こうから、アルノー夫人の穏やかな声が聞こえてきた。


「良いのよ、ジョゼ。その男の言葉などに、耳を貸す必要はありません。天上にゆけぬというなら、私も同じ。来世でも私に仕えてくれますね?」


 主のこの言葉を聞いた瞬間、ジョゼと呼ばれた使用人は、はっとして顔を上げた。瞬く間にその眼から、大粒の涙が溢れ出し、一滴、二滴と頬を伝って床に落ちた。


 彼女は夫人への永遠の忠誠と奉公とを、声を詰まらせながら何度も何度も、繰り返し誓った。


 その場に居合わせた客人二人は、突然主従間で始まった劇的な盛り上がりに全く乗り切れず、鼻白んだまま佇むしかなかった。


 やがて我に返った大司教は、主従をそれぞれ一瞥してから、これみよがしに鼻で笑った。


「主が主なら従者も従者ですな。とんだ三文芝居を見せつけられたものです。私はこれにて、失礼いたしますよ。いや、ご心配召されるな、二度とかような場所には近寄りませぬ故。……アルベリク様、また後ほど」


 大司教コンスタンは、アルベリクのみに会釈すると、肥った身体を揺らして階下に降りていった。


(思ったより、厄介なお方だな……)


 コンスタンの後ろ姿を見送りながら、アルベリクは、これから始まるアルノー夫人とのやり取りに思いを巡らせていた。


 このアルノー夫人という人物。いまのやり取りを見る限り、神をも恐れぬ上、大変に狷介(けんかい)でもあるようだ。加えて、大司教の言う通り、癇癪もありそうである。しかも、侍従まで似た者同士で固めているために、その性質が増幅されている恐れすらある。


 羽で触れただけで爆発する薬品を扱うような慎重さが、彼女とのやり取りには求められることだろう。


 アルベリクは意を決して部屋の中に足を踏み入れる。


 アルノー婦人は、壁際の机に向かい、部屋の入口に背を向けて座っていた。その背中越しに、金属同士のぶつかり合う冷たい音が聞こえてくる。どうやら、彼女は机の上の宝石箱から、お気に入りのネックレスでも取り出しているところのようだった。


 アルベリクが近づくと、彼女は背を向けたまま、誰ともなく語り始めた。


「巷で噂の贖宥の石とやらがいかなるものか、知りたくて。それであの男を呼んだの」


 夫人は語りながら、ひと連なりのネックレスを、己の眼の高さに掲げて眺め始めた。


(ボーマルシェのネックレスか……。ネイライの作だな)


 ネックレスの意匠を夫人の肩越しに一瞥しただけで、アルベリクは売り手と技師の名を見抜いた。たったそれだけでわかるほど、優れた特徴を持つ作品であった。


「ところが、実物を見てびっくり。とんだ粗悪品だったわ。少しだけ期待していた私が、莫迦みたいね」


 アルノー夫人がネックレスを首に巻こうとしたので、アルベリクは留め金を引き取ってそれを手伝った。ネックレスが首に馴染むや、アルノー婦人はやおら振り返り、アルベリクに向き直った。


 その顔は、アルベリクが想像していたよりも、ずっとやつれたものだった。眼には光がなく、たるんだ瞼の下には隈がくろぐろと張り付いている。


 先程の大司教とのやり取りから、どんなに苛烈な眼光を放つ女であろうと身構えていたアルベリクは、内心拍子抜けしてしまった。


 アルノー夫人は、露骨な嫌悪を顔に出しつつ、目の前の男の名を呼んだ。


「アルベリク・ブランシャール。まさか、マドレーヌが貴方を紹介してくるなんて」

「お聞き及び頂いていたのでしたら光栄です、アルノー夫人」

「ええ、聞いているわ、貴方の悪評は。マルブールの赤目烏。宝飾を愛する者なら誰でも、その名を一度は耳にするはず。コンスタンと懇意にしているところを見ると、改心したわけでもないようね」

「ご苦言痛み入ります。しかし、このアルベリク、皇后陛下のお眼鏡に適ったとあらば、きっと貴女様のお役にも立てると存じます」

「お眼鏡、ね。どうせその実相は、コンスタンから例の屑石でも借りて、あの子の気を引いたとか、そんなところでしょう。あの子は純粋過ぎるものだから、そういう底意ある行為を、疑いなく額面通りに受け取ってしまうのです」


 完璧に図星を突かれ、アルベリクは心中穏やかでは居られなかった。しかし、彼は商売人の本領を発揮し、その動揺を一切表に出さなかった。


 おそらく夫人は、生誕祭に参加した貴族の誰かから、あの一連のやりとりについて聞き及んでいたに違いない。


 アルベリクはひたすらに平身低頭しつつ、申し開きをしはじめた。


「底意など滅相もございません。そも、陛下が私を遣わす決意をなされたのは、我がブランシャールの新作をご覧になったが故でございます」

「なら、その新作とやらを見せなさい」

「そうおっしゃられると思い、本日現物をお持ちいたしました。こちらです」


 アルベリクは懐から掌ほどの大きさの化粧箱を取り出し、その蓋を開いてみせた。

 夫人の瞼の中に収まる、虚無の穴と化した瞳が、気怠げに箱の中の宝飾品を見やる。


 何の希望の光も灯っていない瞳だった。しかし、ナタリーの黒揚羽の姿を見るうちに、その瞳の(うち)に少しずつ生気のようなものが宿り、その顔貌はみるみるうちに引き締まっていった。


 彼女はついに椅子から身を乗り出し、アルベリクの手から化粧箱を奪い取った。

 震える指が、箱から揚羽蝶の身躯を拾い上げる。


 窓から差す陽の光が、蝶の身に反射して瞬いていた。(はね)の上を、光が露のように滴ってゆく。


 蝶の胸に埋めこまれた蒼玉が、その滴る光を吸い込み、底深い輝きを放つ。


 黒い揚羽蝶は、アルベリクが初めて出会った日となんら変わることなく、今もはるか遠くの何かを恋い求め、静かに、しかし激しく、胸を焦がしていた。


「マドレーヌ……貴女……」


 夫人は沈痛な面持ちで、友を(おもんぱか)った。


 皇后も、その友であるアルノー夫人も、この蝶と同じだった。この蝶と同じように、はるか遠く届かぬものに焦がれ、望み求めている。

 蝶の青い心臓は、夫人の鼓動と共鳴するように、ちらちらと瞬いていた。


 アルノー夫人は顔を上げ、アルベリクをまっすぐに見据えた。その表情は、先ほどまでとは打って変わって、真摯そのものだった。


「どうやら、貴方をコンスタンの同類として扱うわけにはいかないようですね」

「恐れ入ります」

「マドレーヌは、貴方にこう頼んだのね。──私のために宝飾を作れと」

「おっしゃるとおりです」


 夫人はブローチを化粧箱にそっと戻し、アルベリクに返した。アルベリクが化粧箱を懐に収めるのを見届けてから、彼女は椅子に深く身を沈め、思案を始めた。


「『皇都の赤目烏は至高の輝きを運ぶ』とも聞く。どちらが正しいのか……。あるいは、どちらの評価も正しいのか……」


 やがて、彼女は小さな溜息をひとつ吐くと、疑るような、それでいて縋るような目つきで、アルベリクを再び見やった。


「では、こうしましょう。私は立場上、特定の宝飾業者と私的な取引をすることができません。しかるに、貴方には私の『サロン』に出品する権利を与えます。永遠に終わらない、私のサロンに……。貴方の真贋、そこで見極めさせていただきましょう」


 アルノー夫人のサロン。


 夫人の私的な趣向から始まったこのサロンは、当初は参加者の持つ宝飾品を鑑賞し合うだけの集まりだった。しかし、いつしかここに気鋭の作家が集い、互いの技を競うようになった。やがて権威ある審査員がつくようになってからは、本格的な品評会として急速に成長していった。


 この品評会の特筆すべき点は、参加者に上級貴族や皇族が多く含まれることだった。ここで皇族の目に留まった結果、皇室御用達になった宝飾店もあるのだ。皇都の宝飾関係者であれば誰もが憧れる、登竜門とも言うべき場だったのである。


 しかし、このサロンは完全な紹介制であり、アルノー夫人の許可を得なければ敷居を跨ぐことも許されない。


 アルベリク率いるブランシャールは、夫人とのコネクションが無いがゆえに、今までこのサロンの存在を知りつつも、参加する機会を得られずにいたのだ。


 皇后という大きな人脈が、新しい機会の呼び水になっている。良い流れだった。


 二つ返事で承諾するアルベリクの鼻腔を、聖地グリアエの森の香りがかすめたような気がした。


 浮足立つアルベリクの目を覚ましたのは、アルノー夫人の冷ややかな声だった。


「そうそう……。私の品評会の審査員には、裏金を掴ませに来た人間を報告するよう厳しく言いつけてあります。そのこと、ゆめゆめお忘れなきよう」


 お得意の搦手(からめて)は、封じてやるからそのつもりでいろ、ということである。


 アルベリクは、喉元まで出かかった悪態を飲み込み、にっこりと微笑んだ。


「皇都ではそのような輩が跋扈しているようですからな。さすがは名高きアルノー夫人の品評会。すべての品評会がそうあれかしと願うばかりです」

「いけしゃあしゃあとまあ。烏なのやら狸なのやら……」


 半ば呆れ顔の夫人を、アルベリクは悠然とした笑顔で見返していた。

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