第四章(5) ブランシャール邸・寝室
重い闇の中に、赤い楕円形の絨毯が敷かれている。……否、絨毯ではない。表層に、波紋が立って揺れている。──血だ。血の池だ。
池の中には、一人の男が仰向けに横たわっている。その男はうつろな瞳で、アルベリクを見上げていた。
その男のことを、アルベリクはよく知っていた。
真っ白な唇を緩慢に動かして、男はつぶやく。
「お前と俺と、どちらが悪党かな?」
それは、アルベリクが期待していた言葉ではなかった。
何を期待していたのかは、判然としない。闇の中、さらに靄がかかったようだった。だが、兎も角も、この男の口から、そんな言葉を、聞かされたくはなかった。
アルベリクの肚の中がかっと熱くなり、怒りが脳天を突き抜けた。
「俺が悪党だと? 貴様が言うなよ、この、裏切り者が!」
「裏切り者とは心外だな。お前だって俺を嵌めたじゃないか。俺はあの商談にすべてを掛けていたんだぞ。全てだ! 回収できるはずの金を回収できず、首が回らなくなったらどうすればいい? こうする他ないだろう?」
彼はそう言うと、自らの手で上着をはだけてみせた。
その首元には、赤黒い縄目の跡が、はっきりと刻まれていた。
アルベリクは顔をしかめて吐き捨てる。
「自業自得だ。俺の顧客リストを持ち出せばどうなるか、想像できなかったとでも言うのか、ルカ!」
「そうかもしれんなあ。だが、こいつはどうかな?」
いつの間にそこにあったのか、ルカはその手に掴んだ何かを掲げてみせた。
人間の首だった。美しい、女の顔。
「……フェリシテ……!」
アルベリクが、かすれた声でその首の主の名を呼ぶ。すると、生首はその眼窩や鼻腔から大量の蛆を湧かし、みるみる腐敗し始めた。
ルカは冷たく笑いながらアルベリクの袖口を掴むや、恐ろしい膂力でもって彼の身体を引き寄せた。
そして彼は、その手に持つ女の生首を、アルベリクの鼻先に突きつけた。
「お前は屍肉をついばみ、せいぜい生きるが良い。マルブールの赤目烏! ほら、愛しの女と口づけでもしてみせろ!」
死臭のする唇が、アルベリクの唇に押し当てられる。
アルベリクは恐慌に囚われ、叫び、その唇から逃れようとした。
と、その時。誰かの手が、アルベリクの腕を掴んだ。小さいが、強い手だ。
すると、にわかに彼の意識は転回し、現実に引き戻された。もう一つの悪夢であるところの、現実に。
「……大丈夫?」
大きな瞳が、心配そうにアルベリクの顔を覗き込んでいる。白い陶器のような頬が月明かりを受け、青く闇の中に浮かび上がっていた。
「ルイーズか……夜這いに来たのか?」
未だ汗も引かぬ中繰り出される軽口に、ルイーズは半ば呆れながら応えた。
「莫迦言わないで。うなされていたから、心配になって来てあげたんじゃない」
「使用人にでも来させればよかろうに」
「貴方が望むならそうするわ。でも、許嫁が苦しんでいるのを、捨て置くわけにもいかないじゃない」
「俺のことを嫌っていたのでは?」
「貴方と違って、私は人間なのよ。情けと呼べるものくらい、持ち合わせているつもりよ」
そう言いながら、ルイーズは水挿しからコップに水を注いでアルベリクに差し出した。
手渡された水を一気に飲み干すと、アルベリクはベッドから降りて、壁際の戸棚に近づいてゆく。
その背に、ルイーズが声を掛ける。
「また、悪い夢を見たの?」
「……なぜそう思った?」
戸棚を開きながら、アルベリクが尋ねた。
「叫び声が私の部屋まで聞こえてきたわよ。ルカだの、フェリシテだの……」
アルベリクは許嫁の言葉を聞くともなしに聞きながら、戸棚から鈍く光る一個のブローチを取り出した。
つい先刻、皇后の関心を買うために用いた、贖宥の石だった。
用が済んだ以上、この石は、明日にも大司教に返さねばならない。
アルベリクは、手にした贖宥の石を、ただ黙って見つめていた。
「その屑石は、貴方を救ってくれそう?」
憐憫とも軽蔑ともとれる声が、背後からアルベリクの耳に届く。
「しょせん、借り物だ」
そう言いながらも、アルベリクは石からなかなか眼を離そうとしなかった。
彼は、ありもしない光を求めて、鈍い輝きの奥を探るように見つめ続けていた。






