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第四章(4) 迎賓館・サロン

「皇后陛下が御座有る!」


 良く通る声がサロンに響き渡った。


 その途端、これまでかしましく響いていた嬌声や笑い声がぴたりと止み、室内は水を打ったように静まり返った。


 ルイーズがアルベリクの袖を引き、サロンの入り口の方に注意を向ける。


 厚い絨毯の上に鈍い足音を響かせ、その人──もとい、人あらざる存在、現人神は姿を現した。


 その姿を眼にした瞬間、アルベリクは何か押し込まれるような圧を全身に感じた。その者が放つ霊気に圧された、といえばよいのだろうか。


 姿形こそ、いまだ若さを残す一介の婦人にすぎない。大変に美しい相貌の持ち主ではあるが、人を狂わす絶世の美女と呼べるほどではない。しかしながら、その立ち居振る舞いは極限まで洗練されており、人ならざる者の風格を宿していた。


 彼女は華美な装飾など一切身につけていなかった。しかしただ一点、その胸に、小さなパヴァリア様式の贖宥の石が、控え目な輝きを放って揺れていた。それはアルベリクの身につけるものと、ほぼ同等の品質の橄欖石であった。にもかかわらず、彼女のそれは、アルベリクのものよりも遥かに輝いて見えた。


 ──贖宥の石は身につける者の魂を映す。


 かの俗悪なる大司教の囀る迷信が、にわかに真実味を帯びてアルベリクの耳の奥にこだまする。


(否。現人神と呼ばれはしても、所詮人間の血族だ。(おそ)るるに足らん)


 アルベリクはそう自らを奮い立たせようとしたものの、己の身体の底から来る震えは抑えがたかった。


 むべなるかな、国母たる彼女を前にすれば、いかなる人物であろうと一人の子供に成り下がる。アルベリクの周囲に並ぶ貴族たちも、皆々悪戯を見つけられた悪童のごとく、バツが悪そうに瞼を伏せている。


 今日は、彼女の生誕祭なのである。それを、乱痴気騒ぎで汚してしまったような気がしたのだ。


 人々がその一挙手一投足に注目する中、皇后はサロンの真ん中まで進み出て、周囲のぐるりを見回した。


 至極晴れやかな笑顔が、そのかんばせに浮かんでいた。太陽の如き笑顔は、眼にしたすべての人々の心を燦然と照らし温めた。


 皇后は花びらのような唇をそっと動かし、柔和な、それでいて張りのある声でこう(のたま)った。


「どうしたのかしら、皆さん、しいんとしてしまったわね? 今日は私のために集まってくださったのでしょう。遠路はるばる訪ねてくれた友達も大勢いらっしゃるわね。私は今、それが嬉しくてたまらないの。だから、踊って、歌って、笑いましょう。古馴染みも新しい顔も、皆友として隔たりなく、今日の日を楽しみましょう」


 ただの言葉である。だが、その言葉はなぜか、会場の人々の胸を打ち、身を打ち震わせる力を宿していた。


「皇后陛下に栄光を! 皇国に悠久の繁栄を!」


 誰かが弾けるように叫んだのを皮切りに、サロンは盛大な歓声に包まれた。楽隊は軽やかな調べを奏で、人々はまた手を取り踊り始めた。若い娘たちはその腕に持った花籠から、色とりどりの花弁を人々の頭上に振りまいた。各々が各々の想いを込めて、この愛すべき貴婦人の記念日を祝った。


 皇后は従者を引き連れ、知人たちに挨拶をして回った。彼女から声を掛けられた者たちは皆緊張に身を固くしつつも、己の幸甚を誇った。一方、新参の者や彼女と一面識もない人間らは、どうにかして自らも同じ光栄を享受できないものかと、やきもきしていた。


 皇后が、アルベリクの前を会釈して通り過ぎようとしている。今宵初めてこの宴に参加したのだから、アルベリクには当然彼女と一面識もない。したがって、彼女から声を掛けられる道理などありはしない。


 だが、ここで彼女の面識を得られなければ、今日の日のための準備はすべて無駄になってしまう。是が非でも声がけをいただかなくてはならない。


 かといって、下賤の者から声を掛けるなど言語道断。不敬のかどで切り捨てられて(しま)いである。


 ──こちらを見ろ!


 アルベリクにできることは、もはや、念じることだけであった。これは賭けなのだ。


 虚仮(こけ)の一念が通じたのか、皇后の眼が、すいと横に滑った。その視線が、アルベリクの胸元に鈍く光るロザリオに吸い寄せられる。


 すると彼女はアルベリクの前で立ち止まり、彼に向かって嬉しそうに笑いかけた。


「あら、信心深いことね」


 ──かかったぞ!


 不遜な思考と裏腹に、彼の膝と首は、皇后のつま先の前に屈していた。誰かから押さえつけられたというわけではない。彼自身の肉体が彼の意識を裏切って勝手に動き、平伏したのだ。


 アルベリクは、手織りの絨毯の文様を眺めながら、自らの身に起きた不可思議に当惑していた。だが、そんな中でも彼は恐慌をきたすことなく、予め準備していた言葉を吐くことも忘れなかった。


「アルベリク・ド・ブランシャールと申します。旧王朝にて栄華を誇ったブランシャール家に婿養子として迎えられ、宝石店の経営を一任されております。わた……私ごときの卑小なる者にもお声掛け頂けるとは、まことに畏れ多く存じます」


 舌が回っていない。こんなことは、アルベリクの商売人としての人生の中では初めてのことだった。


「お立ちなさい。私の生辰の日を祝いにいらっしゃったのなら、貴方はもはや、私の友の一人です」

「もったいなきお言葉にございます」


 許しを得てようやく立ち上がる。眼を上げると、皇后の眼が、まっすぐにアルベリクを見据えていた。極上の水晶とて、彼女の眼ほど澄んでいるだろうか。無垢な輝きを宿す瞳が、アルベリクの眼を()すくめる。


 目を逸らすことはかなわなかった。己の赤目は濁っていやしないか、アルベリクは次第にそればかりが気になりだした。


 しかし、皇后は眉をひそめることもなく、慈しむような微笑みとともにアルベリクの瞳を覗き込むばかりだった。


「貴方の姿を見て、とても嬉しくなりました。皇都の方々は、あまりこの石を好みません。友や侍女たちに勧めるのですが、皆どうしてか、この石を身に着けようとしないのです」

「それは……」


 アルベリクは返答に窮した。


 正直に答えればどうなるか。貴族たちは、口に出しはしないものの、明確な理由があって石を拒絶している。それは、アルベリクもよく知るところだった。

だが、それをこの場で口にしようものなら、間違いなく、石を身に着けぬ貴族たちの不興を買うことになるであろう。これはそういう類の、繊細な問題だった。


 しかし、皇后はけっして引き下がらず、重ねて問うてきた。


「貴方には理由がわかるようですね。なぜでしょう? 教えていただけませんか。みな、私が信仰を勧めれば勧めるほど、頑なに拒否し、代わりに綺羅びやかな宝石を身につけようとするのです。

 我が祖国による宥和政策への反発ではないかと、危惧する者もおります。私は真実が知りたいのです」


 皇后の空色の眼が、アルベリクの緋色の眼を覗き込む。透徹した無垢なる瞳。それを曇らせるような振る舞いなど、なんぴとにも赦されてはいない。


 アルベリクはこの女性に対して、つまらぬごまかしをする気になれなかった。また、たとえ適当に言い繕ったところで、彼女には見透かされる気がした。


 答えても、答えずとも、いずれも益がない。ならば、前に進むしかないであろう。アルベリクは何のためにこの場に来たのかを今一度思い返し、肚を決めた。


「それは──詮方無いことです。御祖国の深慮を快く思わぬ者もおりますが、それはごく一部です。……本心では、誰もが胸の内で密かに、神の恩寵をこの石に求めております。ですが同時に、この石を身につけることで、己の恥ずべき魂が露呈するのを恐れているのです」


 彼らが石を拒むのは、自らの魂が薄汚れたものだと知られたくないからだ。──要は、そういうことを言っているのである。


 このあまりにも正直すぎる言葉に、周囲の貴族たちがどよめいた。巨大な宝石で着飾る者らにとっては、いい(つら)の皮である。


 「赤目烏」「不敬な」「そうまでして陛下に取り入りたいか」「恥を知らぬ輩」などという(そし)りのことばの断片が、アルベリクの耳にも届いた。


 そうした中傷の言葉が、皇后の耳にも届いたのだろう。彼女は周囲をぐるりと見回しながら、厳しい口調でこう言い放った。


「私が尋ねたからこの方は答えたのです。不満が有るのなら、後ほど私が伺います」


 こう言われて、口答えできる者などあろうはずもなかった。周囲からの悪意に満ちた雑音は、この一言でぱたりと止んだ。


 皇后はアルベリクに向き直ると、よくぞ打ち明けてくれたとばかりに頷いて、彼の胸のブローチにそっと指を触れた。


「恥ずべきことなど、なにもありません。贖宥の石は、たしかに人の魂を映し出すもの。貴方の石の奥深くには、とても純粋で、美しい光が瞬いている。私の眼には、それがはっきりと判るのです」


 彼女は、贖宥の石ではなく、アルベリクの瞳を見ながら、そう言った。

 アルベリクの身体が、途端に、かっと熱くなった。


 見透かされている、と思った。己の未熟も、弱さも、なにもかも。

 とても相手に顔向けできず、アルベリクは再び頭を垂れた。


「望外のお言葉を賜り、恐れ多きことにございます」


 皇后は優雅な物腰でアルベリクに会釈すると、今度はルイーズに対して向き直った。


「こちらの可愛らしい方は、貴方の良き人ですか?」

「はい。彼女は私の許嫁で、ルイーズと申します。今年成人いたしましたので、僥倖にもこの宴にご招待いただけたという次第です。──ルイーズ、陛下にご挨拶を」


 紹介されたルイーズは、アルベリクがましに見えるほど、かちこちにあがっていた。傍から見て判るほど身体を震わせ、歯の根は合わず、声も出ないようだった。許嫁という立場上、アルベリクはやむなく彼女の肩を抱き、耳元に口を近づけ落ち着くよう囁いた。それで、ルイーズはようやく、かすれた声を出せるようになった。


「る、ルイーズ・ド・ブランシャールと申します……! わた、私のような若輩者にもお目をかけていただき、恐悦至極にございます」

「貴女が、ブランシャール伯のお孫さんですね。私の方こそ、挨拶が遅れてしまったことを詫びなければなりません。祖父君には、幼くして嫁いできた私に、大変良くしていただきました」


 こうまで言われたルイーズは、感激ひとしおといった様子で、返礼の言葉をなにがしか、まくし立てた。その様子を微笑ましげに見守っていた皇后の眼が、ふとルイーズの胸元に留まる。


「貴女の、そのブローチ……」


 彼女はルイーズに近づくと、わずかに身を傾げ、淑女の胸に輝く蝶のブローチを見た。すると、彼女の眼がひときわ輝きを放ち始めた。


「ああ、なんて美しいのかしら! もっと良くみせていただける?」


 ルイーズは慌ててブローチを外し、両手に持って皇后に差し出した。


 黒い揚羽蝶は、煌々たるシャンデリアの灯りを身に受け、ルイーズの手の中でたおやかにきらめいていた。


「故郷で母君が召していらっしゃったものに、とても良く似ています……」


 しぜんと、そんな言葉が皇后の口から漏れた。その声には、地位ある者の威厳よりもむしろ、一人の娘としての純朴さが多分に含まれていた。


 しばらくのこと、皇后は恍然とした眼差しでブローチを見つめていた。が、ふいに彼女は、二人から身を離し、顔をそむけた。


 その刹那、二人は確かに見た。皇后の瞼のふちに光る、涙の一筋を。


「陛下……!」


 ルイーズが、矢も盾もたまらず声を掛ける。だがその時にはもう、皇后は笑顔を取り戻した後だった。


「ごめんなさい。気を悪くなさらないで。少し郷愁が湧いてしまっただけですから」


 そう言って、彼女ははにかむように微笑むのだった。


 皇后マドレーヌは、パヴァリア・ベツレヘム神聖教国とガロア皇国との間における政略結婚により、幼い頃から親元を離され、この皇都に嫁いできた。爾来一度も故国に帰ることなく、次代の皇妃として振る舞うよう求められて生きてきた。


 そのような来歴を知ってか知らずか、ルイーズは、気の毒そうに眉根を寄せて、気丈に振る舞う皇后の姿を見ていた。


 すると、ルイーズはふいに皇后の前に進み出て膝を折り、再び皇后の眼前に蝶のブローチを掲げ上げた。


「よろしければ、こちら、お譲りいたします……! ね、アルベリク、良いでしょう?」


 すがるような眼が、アルベリクを見る。


 多くの元婚約者を振り向かせたこのブローチの価値を、ルイーズは十二分に理解しているはずであった。それでも彼女は、その大事な宝を捧げずには居られなかったのだ。


 アルベリクには、婚約者の懇願を断る理由など、何一つなかった。もとより、この蝶のブローチは皇后陛下への献上も視野にいれていたのである。それ故、彼は、ルイーズの要求を二つ返事で承諾した。


 しかし、皇后はその申し出に対し、首を横に振って応えた。


「いいえ。その蝶は、若い貴女の胸に有ってこそ、映えるものです。その代わり、貴方……アルベリクと申しましたか」


 皇后は、ゆっくりとアルベリクに視線を移した。

 そして、彼女は静かに尋ねてきた。


「一つ、お願いを聞いていただけますか?」


 待ちに待った言葉だった。アルベリクは、この言葉を聞くために、宴に参加したと言って過言ではなかった。

 アルベリクは低頭し、殊勝な態度で(うべな)った。


「なんなりと。陛下」


 その慇懃な態度と裏腹に、彼の胸の内では、醜く歪んだ顔がほくそ笑んでいるのだった。



 ◇



 帰り道の馬車の中。ルイーズは、窓の外に流れる景色を、ぼんやりと眺めていた。街の灯りがその瞳に映っては、走馬灯のように流れてゆく。

 彼女の唇がゆっくりと開き、呟きを漏らした。


「皇后陛下、素敵な方だったわね」


 隣に座るアルベリクは、己の手帳とにらめっこしながら、彼女の言葉を聞くともなしに聞いていた。


 ルイーズはそんな許嫁に振り返り、いささか興奮した様子で言葉を継ぐ。


「私ね、陛下のお茶会に誘われたの。ぜひ来てくださいって。ねえ、こんなことって、ある?」

「あまり聞かんな。気に入っていただけたのだろう。良かったじゃないか」


 手帳にスケジュールの線を書き入れながら、アルベリクは頭の片隅で彼女の言葉を吟味していた。

 身内が顧客と仲良くなってくれれば、そのコネクションを利用できる。商いを営む上においても、彼女の交誼(こうぎ)には利点が多かった。


 勢いよく手帳を閉じると、アルベリクはルイーズに向き直り、改まった様子でこう言い含めた。


「ブランシャール再興のためにも、この人脈は大事にせねばな」


 ルイーズは心底興味なさそうな様子で、窓の外に視線を戻した。


「貴方と一緒にしないで。私は陛下の偉大な魂に心酔したの。それに、私は家の行く末なんかに興味はないし」


 でも……と、彼女は続けた。


「貴方って、実はすごい人だったのね」

「惚れ直したか?」


 アルベリクの軽口を、ルイーズは鼻であしらった。


「莫迦ね」


 言葉とは裏腹に、彼女の眼は、未来への希望を映して輝いていた。

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