第三章(5) 山小屋3
顔を刺す寒気に、堪らずアルベリクは目を覚ました。なぜこんなに寒いのかと、アルベリクの脳は一時的に混乱をきたした。ぼやける視界が鮮明になるにつれ、彼は自分の置かれた状況を思い出してゆく。ここは皇都ではなく、アルバールの山中なのだ。
寝室の中は暗かったが、窓を塞ぐ鎧戸の隙間からは、針のように鋭い光が差している。
ベッドの上で身を起こしたアルベリクが、ふと傍らを見る。
隣のベッドに、ナタリーの姿がなかった。シーツが丁寧に直されているところを見るに、既に起きて活動を始めているらしい。
アルベリクはベッドから抜け出すと、窓を開き、鎧戸を押し開ける。その瞬間、真っ白な光がアルベリクの眼を焼いた。
嵐は無事、止んでいた。小屋の立つ丘は、一面が新雪で覆い尽くされ、白金色に染め上げられていた。
アルベリクはベッドを整え、寝室を出た。暗い居間の中に、ナタリーの姿はなかった。おそらく工房か、さもなくば外に居るのだろう。
コートを着込み、アルベリクは玄関から外に出た。雪の匂いが鼻腔に飛び込んでくる。吹雪よけの小屋があるにも関わらず、玄関の扉の足元まで、雪が忍び入っている。
小屋から出ると、朝日がアルベリクの横面を照らし温めた。目覚めたばかりの空はまだ眠そうに白んでおり、凛と冷えた空気は驚くほどの静寂に満ちていた。
離れの厠で用を足した後、天秤棒を担いで丘下の渓流まで降りてゆく。渓流は深い雪の中にあってなお埋もれずに、清水を滔々と流している。その透明な流れの中に桶を浸し、水を汲む。満杯の桶を二つ、天秤棒に引っ掛け、一気呵成に持ち上げる。樫で出来た天秤棒は固く、肩に食い込んだ。
皇都の便利な生活に慣れ切ったアルベリクの脚を、未踏の新雪が容赦なく捕らえる。彼は額から大粒の汗を垂らしつつ、どうにかこうにか、桶二つ分の水を小屋のもとまで運び上げた。
汗を拭いつつ見上げると、山小屋の屋根に、綿菓子のような雪が厚く積もっているのが見えた。朝の用事が済んだら、雪下ろしもせねばならない。
アルベリクは小屋の中に取って返すと、居間のすべての鎧戸を開け、ストーブと竈に火を入れた。
竈に十分な火が育ったところで、煮物の鍋を火にかけ、もう一つの竈の口でスープを温め、焼き物の仕込みをする。それを終えると、居間に取って返しストーブの上のヤカンを手に取り、中身の熱湯を桶にあけて外に出てゆく。手ぬぐいを桶の中に浸して煮沸消毒した後、雪で湯を埋め、できたぬるま湯で顔を洗った。
手ぬぐいと、雪を満杯につめたヤカンを両手に掴み、小屋の中に戻ってゆく。ヤカンをストーブにかけ、手ぬぐいで皿を拭き、バゲットを籠に盛る。煮物とスープの味見をし、塩コショウで味を整える。
料理の支度ができつつあったので、ナタリーを呼ぶためにアルベリクは工房に足を向けた。寝室にも外にも姿が見えなかった以上、ナタリーがいるのはここをおいて他に無いはずである。
半地下へ向かう階段を降り、工房の扉をそっと開ける。
──静謐が、工房の扉の隙間から、零れてくる。
中を覗き込むと、果たしてそこにナタリーの姿があった。彼女は背を丸めて作業台にかじりつき、一心に作業に没頭している。
天窓から僅かに射す陽の光が、彼女の姿をおぼろげに浮かび上がらせていた。その後姿は暗がりの中にあってひどく孤独で、しかし、この上なく澄み切っていた。工房の空間を含めたその情景は、一幅の絵画のようですらあった。
アルベリクは、しばしの間、その姿に見惚れていた。時の経つのを忘れ、我も忘れ、ただひたすらに。
どれほどの時間が経ったか。あるいは刹那のことだったか。
我を取り戻したアルベリクは、静かな足取りでナタリーの元に歩み寄っていった。
彼はナタリーの背後に近寄ると、肩越しに彼女の手元を覗き込んだ。
ナタリーが取り組んでいたのは、宝飾品のデザインスケッチだった。彼女は使い込まれたペンをその白い手に握り、背後に立つ存在に気づくことなく、机の上に敷かれた無垢の用紙に視線を投じている。
ややした後、彼女の手が動き始めた。紙の上に、滑らかな線が、迷いなく引かれてゆく。その筆致は驚くほど速く、曲線はあくまで柔らかかった。
幻術でも見せられているようだった。ほんの数分前まで真っ白だった紙の上に、またたく間に、一個の指輪のデザインが仕上がった。その造形たるや、流麗かつ洗練されており、即商品化するに申し分ない出来だった。
立場上、諸手を挙げて喜ぶべきアルベリクの額に、冷たい汗が滲む。戦慄に、全身が震えていた。それほどまでに、恐るべき手腕だった。
一方のナタリーはというと、その手の中で生み出された造形を、険しい顔で凝視していた。その唇は一本に引き結ばれ、眼には刃の如き光が揺れている。
と、彼女の手がおもむろに動き、画の上に追加の線を書き足した。一本、二本。×印だった。アルベリクが思わず「あッ!」と叫ぶ。
その声を聞いて、ようやくナタリーはアルベリクの存在に気づいたらしい。彼女は振り返りざま、眼を丸く見開いてアルベリクを見上げた。
「……アルベリクさん。おはようございます。どうか、されましたか……?」
尋ねる彼女の表情には既に先程の険しさはなく、一人の柔和な女性のそれに戻っていた。
「……おはよう。──食事の用意ができたので呼ぼうと思ったのだ」
「えっ……食事、ですか」
客であるアルベリクが、主たるナタリーのために厨房を使うなど、主客転倒も良いところである。彼女は詳しいことを聞こうと口を開きかけたが、それをアルベリクが遮った。
「せっかく描いたデザインを、なぜ没にした?」
彼は、無残に×印をつけられたデザイン画を指差して言った。
聞かれたナタリーは、ゆっくりと机の上に眼を落とし、「ああ……」と興の乗らない声を漏らした。
「貴方に贈るためのなにかを、作ろうと思ったのです。でも、難しいですね。貴方のことを、もっとちゃんと理解しなければ……」
それを聞いて、アルベリクは言葉に詰まった。よもや今の素晴らしい仕事が、自分のために成されたものだったとは、想像だにしていなかったのだ。
彼は存外動揺する自らの心に、うまく始末を付けることができなかった。答えあぐねてとっさに出たのは、苦し紛れの軽口だった。
「それが、君にとっての歩み寄りか?」
皮肉めいた笑顔を見せるアルベリク。だが、ナタリーは至って真面目な顔をして、アルベリクの言葉に応じた。
「たぶん……いえ、きっと、そうです。……でも、まるきり貴方のためだけにやっていることかと言われれば、そうとも言い切れません」
彼女は今一度机の上に眼を落とし、デザイン画や、鏨などの工作道具を見やった。その視線は、我が子を見るかのように愛おしげであった。
「こうして作業しているときだけは、何故だか心が落ち着くのです。悲しいことも、辛いことも、恥ずかしいことも、全部忘れて美しい時間の中に居られる。私の手の中で、ある瞬間、星が瞬き始めるのを見る。あるいはゆっくりと蕾の花開きゆく様を見守る。それはほんとうに幸せな瞬間なのです」
肯定も否定もせず、アルベリクは黙って耳を傾けていた。
「でも、それは一瞬だけ。次の朝眼が覚めると、恐ろしい不安が待っている……。だから、また手を動かす……その繰り返しです」
「恐ろしい不安、か。それは……」
不穏な単語を聞き咎め、アルベリクは気遣わしげにナタリーを見やった。
しかし、ナタリーはアルベリクの心配を知ってか知らずか、何も答えずに、ふいと目をそらしてしまった。心を閉ざしたのが、ひと目で判った。
やむなく、アルベリクはそれ以上の詮索を諦めることにした。彼は指をくい、と動かして、ナタリーに立つよう促した。
「まあいい。上に行こう。温かい食事が待ってるぞ」
工房を出た二人を、香ばしい匂いが包んだ。
食卓の上には、できたての食事が二人分配膳されていた。バゲットの盛られた籠と、野菜の煮込み、それからコンソメスープ。
「待ってろ、今からベーコンを焼くから」
薄切りしたベーコンに火を通し、皿によそって食卓に加える。
埋め尽くされた食卓を一巡り見たナタリーは、当惑気味の表情でアルベリクを見やった。
「……これが、貴方にとっての歩み寄り、でしょうか」
「いいや、違うな」
アルベリクは即答した。
「これは業務の一環だ。虎の子の技師の生活を支えるのも、俺たちの大事な仕事だからな」
「仕事、ですか……」
ナタリーの面差しに寂しげな笑顔が浮かぶ。
その表情を見たアルベリクは、胸の中で舌打ちした。
(わからん女だな。寄り添おうとしても、心を閉ざす。かと言ってこちらから距離を取ればこの表情だ。まるで蜃気楼のようだ)
不興げに顔をしかめながら、アルベリクは匙でナタリーの皿を示し促した。
「ほら、さっさと食わんと、飯が冷めるぞ」
「……いただきます」
彼女は食卓に向けてお辞儀をしてから、匙でスープの中の肉と野菜を掬い、ゆっくりと口に運んだ。よく揃った歯で丁寧に咀嚼し、味わい、その細い喉で飲み下す。溜息が、唇の端から漏れた。
「あたたかくて、美味しい……」
続いて、ふたたび、みたびと、ナタリーは匙でスープを掬い上げ、唇の奥に滑り込ませる。
「すごく優しい味……」
しみじみと呟くナタリーの瞼から、突然、大粒の涙が溢れ、零れ落ちた。
それを見て、アルベリクは思わず吹き出してしまった。
「おいおい、泣くほどか? 普段どれだけ粗末なものを食べていたのか、分かろうものだな。いずれ、もっと良いものを食わせてやる」
アルベリクの軽口は、ナタリーの耳に届いていなかった。彼女の眼から零れた涙は、スープの器の中に落ちて消えていった。
「私が悪いのでしょうか。私には、貴方のことが、全然わかりません……。宝飾のことなら、すぐにわかるのに……」
かすれ声で、ナタリーが呟く。
アルベリクは真剣な顔つきに戻って、しばらくの間、彼女の顔をじっと見つめていた。
「……俺もだよ」
そう嘯くと、アルベリクはスープをひと匙掬って口に運んだ。
皇都の美食に慣れた舌には、決して美味いものではなかった。だが、その味の中には、かすかにではあるが、遠い青春の残り香が薫っていた。
故郷に帰れば誰もが感じる、あのなんとも言えない懐かしさを、アルベリクはこのひと匙のスープと、窓の外の雪の輝きの中に見出していた。






