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第三章(4) 寝室

「俺の寝る場所は、本当にここか……?」


 アルベリクは、ガストンのベッドを見下ろしながら顔をしかめていた。そのすぐ隣には、ナタリーのベッドが据えられている。二つのベッドの距離は、二人の心の距離に比べると、明らかに近かった。


 ナタリーが自分のベッドの上から、アルベリクを申し訳無さそうに見上げていた。


「……はい。寝られるところは、ここしかありませんし……」


 アルベリクは喉の奥でうなりつつ、居間の方を振り仰いで見た。


「居間のストーブの前で寝たほうが良いか……」

「だめです。お客様にそんな仕打ちはできません。それなら、私が工房で過ごします」

「虎の子の技師に、そんな無茶はさせられん」

「でしたら、師匠のベッドを使ってください」


 ナタリーの細い指が、ガストンのベッドを指し示す。


「……俺はガストンのような枯れた男ではないのだぞ」

「万が一のときは、利き手で貴方の頬を腫れ上がるまで引っ叩きます」


 冗談とも本気ともつかぬことをのたまって、ナタリーは人懐っこい笑顔を見せた。


「……久々に人と一緒に眠れるのは、嬉しいですよ。師匠が亡くなってから、ずっと一人で寂しかったですから」


 アルベリクはしばらくの間逡巡していたが、やがて渋々上着を脱いで肌着だけになった。


 一度ベッドの上に寝転がったものの、ナタリーとの距離があまりに近すぎるのが、アルベリクにはどうしても気になった。

 唐突に彼は立ち上がり、一人でうんうん言いながら、寝台を壁際まで押しやる。


 ようやくのことでアルベリクが布団の中に潜り込むと、ナタリーは満足気に微笑んだ。


「おやすみなさい。いい夢を」

「ああ、おやすみ」


 アルベリクは袖机の上のランプに息を吹きかけ、灯りを消した。部屋の中に闇の帳が落ち、ナタリーの白い顔も、暗闇の中に紛れて見えなくなった。ただ、山小屋の壁に打ち付ける雪の音ばかりが、闇を貫いてばらばらとさんざめいている。


 いつもと違う枕の上で眠れるものか、アルベリクは僅かに案じていた。だが、寝床に身を沈めてしまうと、心地よさが全身を包み、一気に眠りの中へと引き込まれてゆく。


 ──眠りの時間というものは、自覚できないものだ。


 息を大きく吸い込みながら、アルベリクは目を覚ました。

 心臓が激しく脈打ち、呼吸がひどく荒れていた。肌着が、汗で冷たく湿っている。


 吹雪もいまだ止んではいないらしい。狂人の悲鳴のような風の音が、窓の外に聞こえる。


「……大丈夫ですか?」


 ナタリーの心配げな声が、隣から聞こえてきた。


「……何が」


 ぼんやりとした意識のまま声のした方を振り返ると、寝台に横たわるナタリーの姿がおぼろに見えた。彼女は不安げに眉根を寄せて、アルベリクを見つめていた。


「うなされていましたよ。すごく苦しそうでした……」

「そうか。……寝ていると、そういうことに気づかんものだな。──君は起きていたのか」

「ええ」

「夜明けまで、あとどれくらいかな」

「まだ、ベッドに入ってから、すこしも経っていませんよ」


 アルベリクは、疑わしげにナタリーを見た。ところが彼女は、きょとんとしたまま、アルベリクを見返すばかりである。どうやら、彼女の言葉は真実らしい。


 (てのひら)で顔を拭きつつ、アルベリクが嘆息する。すると、ナタリーが悪戯っぽい声でこう囁いた。


「眠れないのなら、ちょっとした遊びをしませんか」

「遊び? どんな遊びだ」

「お互いについて質問して、それに答える。それだけの遊びです。──私たち、もっとお互いを知ったほうが良いと思いませんか」


 ナタリーはそう言って眼を輝かせる。おそらく、アルベリクが寝ている間に、あれこれと案じていたのだろう。

 アルベリクは短く嘆息して、(うべな)った。


「……まあ、よかろう」

「では、私から。──貴方の好きな石は?」

「橄欖石」

「……ふふっ」

「何がおかしい」

「ごめんなさい。なんだか、想像通りだったものですから」

「橄欖石が好きそうな顔をしているとでも言うのか」

「さて、どうでしょう」

「……君の好きな石は?」

「海晶です。私は海を見たことがありません。あの石を見ていると、焦がれるほどの憧憬を覚えるのです」

「海か。昔、諸侯連合の万博を見に行った折に、その道程で見たことがある。が、あの宝石のような美しい色はしていなかったな」

「そうなのですか……?」

「……だが、この世のどこかには、あんな色をした海があるのかもしれん」

「ああ……素敵……。想っただけで、恋しさに胸が詰まってしまいます」

「おい、突然思い立って、あの色の海を探して逐電なぞしないでくれよ」

「言ったじゃありませんか。私には、宿痾があると。旅に出られるほど、私の身体は強くないのです」

「そうか……」

「……ご結婚は?」

「許嫁がいる。まだ成人すらしていない小娘だがな」

「その方を、愛していらっしゃいますか?」

「今の言い回しで分かろうものだろう。あの娘にそんな気持ちは持てない。婿養子など、そのようなものだろう」

「……寂しいことですね」

「……君は、なぜこの道を歩もうと思った?」


 ナタリーの言葉が詰まる。何気ない問いかけだったが、案外この問いは、彼女にとっての急所だったのかもしれない。


 やがて、彼女は息を大きく吸い込むと、強い意思のこもった声で、こう答えた。


「宝飾に、命を救われたからです」


 アルベリクは訝しげにナタリーを見やった。

 ナタリーの表情は、真剣そのものであった。彼女は真正面からアルベリクを見つめ返し、さらにこう付け加えた。


「──あの蓮の指輪です、アルベリクさん。私は、あの指輪に、命と魂を救われたのです」


 弾けるように、アルベリクは笑い出した。


「大げさすぎるぞ、いくらなんでも」

「本当のことです」

「あの指輪に? そんな力があると?」

「はい。あの指輪には、人の魂を導く力があります」


 しんと静かな寝室に、ナタリーの凛然とした声が響く。


「あの指輪の意匠は、蓮──。『蓮は泥濘より生じてなお清らかである』。たとえどれほど淀んだ環境に身を置き、どれほどその身が穢れようとも、人の魂はなお美しく花開くことができる。──あの指輪のメッセージに気づいた時、私がどれほど勇気づけられたか、貴方には想像もできないでしょう……」


 ナタリーは聖典の最も重要な一節を諳んじる司教の如き調子で語り、祈るように手を組み合わせた。


「いつも想像しているのです。あの指輪を作った方は、今頃どこで何をしていらっしゃるのだろうって。きっと今でも、素敵な作品を作り続けていて、私のような人間の生きる支えになっているに違いありません」


 中空を見る碧色の瞳が、しだいに熱を帯び、強い輝きを帯びてゆく。

 それは、あの蝶のブローチの胸に留められた蒼玉と、寸分違わぬ輝きであった。


「私も、いつか、その人のようになりたい。あの指輪のような作品を、私もいつか作りたいのです」


 思いを込めて締めくくられたナタリーの演説を、アルベリクは冷笑含みで聞いていた。


「……そんな技師が本当にこの世にいるというのなら、見つけ出して専属契約を結びたいところだな」


 ナタリーの瞳から、一瞬のうちに輝きが失われてしまった。彼女は闇の中になお暗く沈む瞳で、憎々しげにアルベリクを()めつけていた。


「……そして、心を伴わぬ金儲けの走狗に仕立て上げるというわけですか? もしその方が生きているなら、絶対に貴方には会わせたくないものです」

「……よし、この話はもうやめよう。堂々巡りになるだけだ」


 興奮して身を乗り出しつつあるナタリーを、アルベリクはそう言って宥めようとした。だが、その意に反して、ナタリーはますます勢いづき、語気を強めてくる。


「アルベリクさん、これだけは言わせてください。あの指輪は、あなたにとっては取るに足らないものでも、私にとっては命より大切なものなのです。もう二度と、あの指輪のことを悪く言わないでください」

「……わかった。ただ、俺の前であの指輪は見せないでほしい。それを守ってくれさえすれば、俺とて何も言わん。目に入れば文句のひとつも言いたくなる、あれはそういう代物だ」

「なぜです。あの作品のどこに問題が?」


 ナタリーの詰問に答えることなく、アルベリクは口を閉ざした。

 暗がりの中で二人は、ただひたすら、じりじりと睨み合っていた。


 どれほどの間、見合っていただろう。先に根負けしたのはナタリーの方だった。彼女はばたりとベッドに倒れ込むと、枕に頭を沈め、大きく溜息をつく。


「……口論するつもりはなかったのに……どうしてこうなってしまうのでしょう……」

「職人と商人の関係は、昔からこういうものだ。職人に商人の気持ちはわからんし、商人にとって職人の哲学は邪魔なだけだ」

「そういうものでしょうか……。でも、どうかして、お互いに歩み寄っていきたいものですね」

「そうだな……」


 山肌を駆ける雪礫は、いまだ勢い衰えることなく山小屋に叩きつけている。


 アルベリクはナタリーに背を向けると、間断なく続く風雪の音に誘われ、再び眠りの中に落ちていった。

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