第三章(3) 山小屋2
アルベリクは、叩かれた頬をさすりながら、ナタリーを横目に睨みつけた。
「莫迦……! 利き手で殴るやつがあるか! 指を怪我したらどうする!」
ナタリーの頬に、さっと赤みが差した。泣き出しそうな顔が、アルベリクを見下ろす。
「金のガチョウの手がそんなに大事ですか? 私は、手などよりも、心のほうがずっと痛いです……! 貴方には、人の心がないのですか?」
震える声で、ナタリーが問い詰める。一方のアルベリクは眉一つ動かさず、いけしゃあしゃあと答えた。
「──皇都では、赤目烏と呼ばれているな」
この一言で、ナタリーの眼に僅かに残っていた光も、すっかり失われてしまった。彼女は大きなため息をつきながら、アルベリクから顔をそらした。
「……もうお帰りください。今日はもう、貴方の顔をこれ以上見たくありません」
「そうしよう。お互い、一旦頭を冷やして仕切り直したほうが良さそうだ」
言うが早いか、アルベリクは立ち上がる。ナタリーも身を翻し、一刻も早く彼を追い出そうと、玄関脇に掛けられたアルベリクの外套を取りに向かいかけた。
その時、ナタリーの眼がふと、窓の外に向いた。次の瞬間、彼女ははっと息を呑んだ。
ナタリーは早足で窓際に近づき、結露した窓硝子を手で拭ってそこに額を押し付けた。
「……いけない。いつのまに、こんな吹雪に……」
切迫した声が、ナタリーの口から漏れる。しかし、アルベリクは彼女の声を無視して、自ら外套をその手に掴んだ。
ナタリーは慌ててアルベリクの元に駆け寄ると、その腕をはっしと掴んで押し留めた。
「待ってください! 今、外に出るのは、危険です!」
間近に迫ったナタリーの身体から、また、あのえも言われぬ芳香が漂ってきた。アルベリクは思わず顔をそらし、その香りから逃れようとする。
「慣れた道だ。吹き始めなら、まだなんとかなるさ」
「貴方は……皇都に慣れすぎて、山の怖さを忘れてしまったのですか? 今日はもう、ここにお泊りください」
その瞬間、アルベリクの緋色の瞳に、邪な光が揺れうごいた。
「……ここに? 男女二人きりで、一晩過ごすのか?」
「……はい……詮方ないでしょう」
眼前の男の纏う雰囲気に変化があったことを、ナタリーも敏感に察知していた。彼女はアルベリクの腕を掴む手を離すと、彼と距離を取るためにそっと後退った。
だが、今やその試みは遅きに失していた。
アルベリクの手がナタリーの肩を乱暴に掴み、そのまま彼女の身体を壁際に追い詰めていた。
爛々と光る眼が、暗がりの中でナタリーを見下ろす。
「君は、男を侮りすぎだ……」
アルベリクは、もはや自分が何を口走っているのかもよく判っていなかった。全身に巡る熱が意識を酩酊させ、甘い快楽の崖下にアルベリクを誘おうとしている。
一瞬、ナタリーの眼に怯えの色が差した。彼女は全力で身を捩って逃れようとしたが、アルベリクの握力は存外強く、ナタリーを決して離そうとしなかった。
やがて彼女は、抵抗することを止めてしまった。彼女の瞳からは輝きがみるみる失われていったが、同時に、怯えの表情も消えていった。
地の底を這いずるような声で、ナタリーは捨て鉢気味に呟いた。
「……襲いたければ、どうぞお好きに。病で死ぬことが、怖くないのなら」
アルベリクの意識に僅か残された理性が、辛うじてその言葉の違和感を捉えた。
「……どういう意味だ?」
がらんどうのようになったナタリーの瞳が、アルベリクを静かに見上げる。
「私には宿痾があるのです。交わることで人に移り、耐性のない者を死に至らしめる恐ろしい病が……。私の夫は、これに罹って帰らぬ人となりました」
その病については、アルベリクも皇都でよく耳にしていた。元は南方で発生した伝染病らしく、主に性行為から感染するものだという。売春窟などでは、梅毒と並んで恐れられる病だった。
渦巻く欲望を萎えさせるのに、ナタリーの一言は十分な力を持っていた。だが、一度求めた手前、安々と退くこともできない。今や見栄と虚勢が彼を突き動かしていた。
「……病気ときたか。どうせ虚仮威しだろう?」
「かつて、同じことをおっしゃった方がいらっしゃいました。今ではその方も、夫と同じ病を患い墓石の下に眠っています」
思い出したくもない過去であろうことは、彼女の表情から容易に想像できた。肩を掴む手を通して、ナタリーの身体の震えが伝わってくる。
知らずのうちに、アルベリクの手が緩んだ。彼は憐れむような眼でナタリーを見、慰撫するような声で彼女を宥めていた。
「──悪い偶然が、重なっただけではないのか?」
「そうおっしゃって励ましてくださる方もいました。その方は妻子ある方でした。けれども私は孤独に負けて、彼の優しさに縋ってしまった……。結果は、同じです。私に情けをかけた殿方は皆、例外なく、同じ病で身罷られました」
虚ろな表情のままで、彼女は淡々と語った。
努めて感情を殺そうとしているのは明白だった。だが、限界は、すぐにやってきた。
涙が、彼女の瞳から見る間に溢れ、頬を一筋、二筋と伝っていった。
「私は、山を降りてはいけないのです……」
ただ一言、圧し殺した声が告げる。
溢れる涙を拭おうともせず、ナタリーはアルベリクを見上げていた。まるで、自分は涙など流していないと言わんばかりに。
アルベリクの手は、すでにナタリーの肩から完全に離れていた。
彼はその手で、哀れに震える身体を、今まさに抱きしめようとしていた。
だが、彼女の背中に触れる寸前、その手は止まった。
長い逡巡の挙げ句、結局その手はだらりと垂れ下がり、彼女の身体から遠ざかってゆく。
「すまない……」
かろうじて聞き取れるかという小声で、呟く。
声も出さずに涙を流す女を目の前にしても、彼にできたのは、それだけだった。






