第三章(1) 工房
皇都アコラオンから北に出て、馬車に揺られること三日余り。アルベリクはようやくのこと、山岳都市マルブールに辿り着いた。目的は当然、ナタリーとの面会である。
途中で遭遇した吹雪によって馬車が遅れたため、アルベリクは到着当日を麓のホテルで過ごし、翌朝一番に山小屋を訪問することにした。
朝方のアルバール山は、冬の陽気に照らされ至極穏やかなものだった。しかし、南から来る風は強く、気温の割に空気が随分と湿気っていた。今が束の間の平穏であることを、土地に住む者は皆理解していた。
山小屋の建つ丘も、この時はまだ、いたって平穏だった。視界いっぱいに広がる丘は、純白に覆い尽くされたまま、ただひたすらに沈黙を保っていた。
アルベリクが山小屋の扉を叩いた時、中から返事はなかった。既視感を抱きつつ、幾度も扉を叩き、声を張り上げる。だが、以前とは違い、今度は扉の向こうに人の気配がなかった。
そこでアルベリクは玄関から離れ、小屋の裏手に回りこんだ。すると、半地下の工房の屋根が、半ば雪に埋まった状態で、丘の傾斜の中からせり出しているのが見えた。
アルベリクは工房の屋根の上に立ち、窓から中の様子を伺い見た。
はたして、そこに、ナタリーの姿があった。彼女は作業台の上に突っ伏しており、一見、眠っているように見えた。しかし、その頬は、額は、異様に白く、アルベリクに死の一文字を連想させた。
(──いかん!)
アルベリクは雪の上を駆け出して、山小屋の方に取って返した。彼は迷いなく風防小屋の梁を弄り、指に触れた小さな皮包を手に取った。皮包を紐解き、中から鍵を取り出すと、玄関の鍵穴に入れ、ひねる。
鍵が開いた──ように思えたが、アルベリクが戸を開こうとすると、扉が鍵に引っかかって開かなかった。鍵は、最初から開いていたのだ。
「クソ! 不用心だぞ!」
悪態をつきつつもう一度鍵を開き、小屋の中に躍り込む。半地下へ向かう階段を飛び降り、工房の扉を引き開けた。
工房の中を覗き込むと、先程と同じように机の上に突っ伏すナタリーの姿が見えた。
彼女の元に駆け寄ったアルベリクは、その姿を見下ろして、安堵の溜息をついた。
彼女は、眠っていたのだ。顔色は悪いものの、寝息と共に背中が上下しているのがわかった。
しかし、その寝顔はひどく苦しげだった。悪い夢でも見ているのか、瞼を堅く閉じ、喉の奥からしきりにうめき声を発している。
眠る彼女の手元には、作りかけの宝飾が無造作に転がっていた。輝きを放つ前の、濁った金属の塊。それが、彼女の手によって今まさに命を吹き込まれようとしている。
彼女はおそらく、夜通し机に向かい、一休みのつもりで机に突っ伏して、そのまま眠ってしまったのだろう。
やがて、ナタリーの瞼が薄く開き、その隙間から、彼女の瞳が見えた。透明な碧色の瞳。その清廉さに、アルベリクはしばしの間、見惚れていた。
その瞳がやおらくるりと回って、アルベリクの姿を捉えた。
「貴方は……」
「ブランシャールのアルベリクだ。手紙で、足労願うと書いて送ったのは君だろう? だから、はるばるこうしてやって来たのだ。──それより、大丈夫かね?」
「大丈夫、というのは……?」
気怠げに起き上がりながら、ナタリーが問うた。その横顔に落ちたおくれ毛の一房を、細い指がそっとすくい上げる。するとその指の向こうに、長い睫毛の、憂いを孕んで伏せられているのが覗き見えた。
初めて会った時は気づかなかったが、改めて見ると、彼女の姿はなかなかどうして気品があった。何気ない仕草に、表情に、女性的な優美さが垣間見えるのだ。
化粧もせずにこの器量を誇るなら、山を降りれば、さぞや多くの男性を魅了することだろう。
なぜ彼女は、このような山小屋に一人、留まり続けるのだろうか。アルベリクは不思議に思いつつ、彼女の問いに答えた。
「顔色が悪い。それに、うなされていた」
「そうでしたか……。大丈夫です。お気遣いなく」
素っ気なく答えたのは、あるいは眠気のせいだったのかもしれない。彼女はひとつ大きな欠伸をすると、顔を上げて、アルベリクに向かってゆるゆると笑顔を見せた。
「わざわざご足労くださって、ありがとうございます。上でお話しましょう」
「そうしよう。ついでに、現時点で完成している分の納品物も確認しておきたいが、問題ないかね?」
「構いませんよ」
ナタリーが椅子から立ち上がり、収納棚に向かうためアルベリクの前を横切ってゆく。すると、彼の鼻腔に、芳しい香りが飛び込んできた。男の心をひどくかき乱す、ある種の艶めかしい香りだった。
己の本能が、仕事に邪魔な感情を惹起しつつある。それを自覚し、アルベリクは自らの頬を平手で叩いた。






