6話
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」
パチっ、パチっ……と、手元の火から音を鳴らし。
下味をつけた肉に、均一に熱が通るように調節しながら。
少女に、名前を訊いてみる。
「な……まえ?」
しかし……密かに予想はしていたものの。
彼女はやや困惑して、答えを詰まらせていた。
――生まれが特殊とはいえ、まさかここまで世間に乏しいとは。
(誰にも拾われることなく、誰からも話しかけられることがなかったから、“名前”を知らない……ってか?)
それは……。
それはさしもの同情を禁じ得ず、仄暗い心境に包まれる少年。
そういう心境にあまり慣れておらず、すぐに喰べてしまう彼だが。
これくらいなら、まだ耐えられるようだ。
耐えられるように……幼い頃から練習した。
だけど……。
この少女と同じ環境に置かれたら、すぐに崩れる自信がある。
あるいは……自分だったら、発狂してしまうかもしれない……。
(……頑張ってるんだな。この子なりにも、一生懸命に)
――改めて、少女への敬意を払い。
少年は驚く素振りを見せず、丁寧に説明する。
「名前っていうのは、その人を示す名称みたいなもんだ。例えば俺は、周りからユーマって呼ばれてる。村の人達に付けてもらった名前だ」
「村の……人? ……うとまれなかったの?」
認め難い――とばかりに、疑いの瞳を向ける少女。
その深緑には『嫉妬』と、一抹の『苛立ち』が込められていた。
ますますユーマは、彼女の境遇を察してきて。
……だからこそ、黙ってそれを迎え入れる。
自分には相手を落ち着かせることも、共感することもできない。
八つ当たりの的になるくらいしか――できないから。
「最初は疎んでいた人は、もちろんいたさ。なにせ人間の子供なのに、赤い尻尾と角が生えてるんだからな。けど……そうでない人もいた。俺はその人達の所で暮らし、次第に周囲の人も、俺が住むことを許してくれるようになった……って感じだな」
「…………」
少年の発言に、加えて眉を顰め始める少女。
乏しかった表情も、少々の不愉快感があらわになっていた。
どうして彼女がそこまで過激になっているのか。
どうしてそんなにも非難されているのか……。
最初こそ、それらを理解できなかったものの。
次第に……理詰めで解き明かす。
村の人達に恵まれたことを嫉妬しているなら。
詳細にどう恵まれていたのかを伝えられたとして……。
……決して良い気分ではないだろう。
こんな話、彼女からすれば聞くに堪えないはずだ。
怒りをぶつけられるには、十分だろう。
――だけど。
それでも、少女には知ってほしい。
モンスターと人間の狭間でも、どこかに居場所があることを。
「信用できない――って顔だな」
「……だって、ぼくの知らない……世界だから」
「けど、事実だ」
事実俺は、そうやって育ってきた。
あの村の人達のことは、君に否定させない。
俺がこうして生きていることも、やっぱり否定させない。
これらは妄想なんかじゃない。理想なんかでもないからだ。
実際にあることなんだよ。全部。
到底――認められない話だとしても。
……だから。
「君を受け入れてくれる所も、必ず存在する」
「……っ」
少女は――小さくしぼんでいたその双眼を。
はっと――大きく開かせた。
我が耳を疑うように。
これまでの常識を、覆されたかのように。
だけど……しかし。
見上げたくなるような、セリフだと――。
「……どうして」
どうしてそんなことを言ってくれるの? と。
少女はユーマのオッドアイを注視しながら、問いかける。
誰も言ってくれなかった――誰も希望など持たせてくれなかった。
混乱が混乱を呼び出し、いつしか収拾がつかなくなって――。
――わからないと。
少年が、ユーマのことが、わからないとばかりに。
「――知らない、しらないよ……こんな、優しさ」
触れたことが無い――見たことが無い――。
……堰を切ったように。
無口であるはずの少女は、たくさんの言葉を流した。
――少年は何もしない。
何を求められているのか。
何をするべきなのかが、判断つかないから。
動こうとは、口を開こうとは、しなかった。
(――なんで優しいかなんて……そんなの、放っておけないからだよ)
こんなにも必死な子を。こんなにも懸命な子を。
何より――こんなにも小さな身体で、耐え抜いている子を。
……放っておけるはずがない。
しかも……重ねて言えば。
一歩間違えていたら、自分もこうなっていたのかと想像すると。
――無視をするという愚行、やれなんて方が無理な話だ。
(俺はきっと……たまたま助かった人生なんだ。何か一つでも欠けていたら、全てが破綻していた――)
モンスターのように、暴れ回っていたかもしれない。
あるいは、彼女のように沈んでいたかもしれない。
――どちらにせよ。
ろくでもない世界を認識していたのは、間違いないだろう――。
……しかし。
少女はそんな、『破綻した人生』でも。
何とかもがこうと、何とか生きようと、試行錯誤で動いている。
前を向こうと、している――。
なら……。
少しでもいいから、それを手伝いたい。
村の人達から貰えた“たまたま”を、分けてあげたい――。
――少女の疑問に。
すぐにでもユーマは、そう答えることができただろう。
滑らかに、考えることなく、発せられただろう。
だけど、そうしなかった。
――今はそっとしておくべきだと。
直感的に、そう思ったからだ。
「…………」
それから。幾ばくの時間が過ぎていった。
音を生み出すのは――主に二つ。
遠慮のない焚き火と、微かに揺れる植物だけだ。
人とモンスターとの間にある二人は、何も喋らなかった。
方や呆然と、遠い場所を見るかのように。
方や静寂に、近くにあるものを注意して。
人の声がない空間が、作り出される――。
――そんな時。
微調整を繰り返していた肉が、良い感じに焼けてきた頃合いだった。
中にもしっかり火が通っており、表面も焼き目がついている。
試しにフォークで刺してみたら。
肉汁が溢れ、すんなりと入っていった。
どうやら柔らかく仕上がったようだ。
(こりゃあ相当良い肉だな……俺の料理スキルは大したことないから)
せいぜい、大人が調理する姿を眺めたくらなもの。
あとは……。
一人旅するために最低限、王国の人から叩き込まれたくらいだ。
味付けの仕方は数種類しか持ち合わせていない。
今回も、塩と胡椒をかけたくらいで、きのこを添える程度。
(こんなにも上質な肉なら、もっと美味しく召し上がりたいものだが……そこまで贅沢はできないか)
ともあれ、盛り付けるとしよう――。
「……名前は、捨てろって……」
普段使っている皿と、予備用の皿。
その二枚を用意し、きのこと肉を分けていると……。
それまで静止していた少女が、呟く。
こちらに視線をやって――控えめに、口にする。
「……捨てろって、誰から?」
あくまでも疑心を向けるのではなく。
確認するように尋ねてみれば……。
少女は思いを馳せるようにして、そのままの口調で。
「『これまで使っていた名前は捨てるんだ。今後はそう呼ばれても、自分のことではないと思いなさい』……って、科学者さんに」
「……そうか」
その“科学者さん”とやらは、なぜそんなことを告げたのか。
……ユーマには不思議と、理解できたような気がした。
きっとその人は、彼女を捨てなければならない事情があって。
……自分には、親を名乗る資格がないと考えて。
親と子を繋げる最後の証拠――『名前』を、失わせた。
――それは勝手なことだったのかもしれない。
――それはエゴなことだったのかもしれない。
だけど、それ以上に――。
彼女の親であることを、やめたかったのだろう。
――少女がもしも、科学者さんを愛していたなら。
これほど残酷なことはない。
でも。
でももし、恨んでいたとしたら……。
喜ばしいこと、なのかもしれない――。
「君は、前の名前が好きか? 科学者から貰ったそれに未練があって、まだ使いたいと思うか?」
「……ううん、思わない」
好きかどうかの問いかけに――。
少女はまぶたを下げながらも、きっぱりと否定した。
「名乗ろうにも、もう忘れちゃったし――科学者さんのこと、あんまり思い出したくないから」
ぼくのことを放置して。一人にして。
何も教えず。
何も残さず。
何も与えず。
どこかに行ってしまった、あの人のことは……。
「……思い入れなんて、これっぽっちもないよ。……何もない」
自らの底を覗き込むように、俯いて。
絶望の淵に、佇むように。
少女は、何も込めることなく零した。
恨みも、憎悪も、嫌悪も、何もない。
……少年には。
こうなってしまった心境が、漠然としかわからない。
いや、漠然とすら、掴めているか怪しい――。
どうするべきか、迷走して。
逃げるように、料理の方に眼をやって――。
「だから、お兄さんに新しくつけてほしい」
――その一言に。
ユーマは……再び少女の三角座りしている姿を、視界に入れた。
そこには、俯いてなどおらず。
相手の顔を見て、未知なる希望を掴もうとする少女がいる。
「……お兄さん……」
呼びかけるそれに――暗に縋りを秘めさせる彼女に。
少年は思い惑うも、「わかった」と――頷いた。
「君がそうしてほしいなら、俺はそれを汲み取るよ」
「……っ、ありがとう」
平静として、その要望に応えるユーマ。
少女は仄かに笑って、お礼を告げた。
(……本当はそんな責任重大なこと、断りたかったんだがな……)
科学者にも資格がないように。
自分にも、資格がないと――。
……本来であれば、器のしっかりしている大人に託したかった。
――だが。彼女には、もう……。
二度と同じ『嫌な思い』を、させたくないから――。
少年は口元に丸めた手を置き、思考を巡らす。
「うーん……ドラゴン、女の子に相応しい感じの、か……。正直、こういうのは得意じゃないんだが……そうだな。“ドルララーラ”なんていうのはどうだ?」
「長い。ラーラがいい」
「……お、おう。じゃあ名前はドルララーラで、呼ぶ時はラーラにする、とか……」
結構ひたむきに考えて、浮かばせたその案を。
即答で。
しかも、真顔で却下されて。
さすがにハートが、石のように固まったが……。
「まぁ、それなら……」
「……良かった」
何とか妥協案を呑み込んでもらい、回復する。
自分の胸を手のひらで覆い。
固まっていたハートを解そとするユーマに、ラーラ。
「お兄さんは、なんて名前だっけ?」
実はつい十五分ほど前に、名乗っているのだが。
――様々な心境変化があったからだろう。
何より、『村の人につけてもらった』という事実が。
よほどインパクトが強く、それ以外が頭に入らないほどで。
それ故に――つい抜けてしまったらしい。
だから、もう一度名乗ることにした。
「あぁ、俺? ユーマだよ」
「ユーマ……じゃあ」
少女は何気なく――ならばと。
そういうことなら。
こういうことになると。
普段通りのトーンで――それ故に。
「――ユーマお兄さん、ってこと?」
――破壊力が途轍もなくヤバい一言に。
少年はすぐには返事ができず。
ただ呆然と、目を見張らせた。
そうするしか――できなかった。
(……なんだろう)
妹ができたみたいで、可愛い。
「――一旦、整理してみようか」
少し冷めてしまった食事を頂き。
――がしかし、十分美味に頂けた夕飯を終え。
ユーマは、開口一番に発する。
小さく肯定するラーラに、少年は続けた。
「まず、ラーラはキメラ……どういう仕組みなのかは何ともだが、研究室で作られた存在なんだよな。何かの実験で、人工的に」
「……うん」
「その結果、人間とドラゴンの間にいる種族となった――これで合ってるか?」
「合ってるよ」
調理中、食事中にまとめてみた内容を。
確かめると――ラーラは難なく首を縦に振る。
これで間違っていたらどうしようかと思っていたが……。
どうやら、杞憂だったようだ。
「よし、なら次に、対する俺の生まれについてだが……結論から言うと、俺はキメラじゃない。人間と悪魔との間に産まれた、ハーフみたいなものだ。普通の人間と違うのは、父親が悪魔であること」
「……初めて、聞いた……そんな話」
一般常識が通用しない彼女のことだから。
そもそも両親の意義を説明するべきか、迷ったが。
案外それは、知っていたようだ。
というより、親の存在は本能的に、理解しているのかもしれない。
「だろうな。俺以外にそんな話、聞いたことないし……話の通じない相手と交配しようだなんて、イカれてるよ」
「こうはいって?」
「ああいや、今の発言は無かったことにしてくれ」
詳しく解説しようとしたら、口にしたくない話題になる気がする。
幼いラーラにはまだ早いだろう。
というかそんな役目、御免だ。別の人がやってくれ。
「ともかく、俺がキメラじゃないってことは、わかってくれたか?」
「うん、理解した」
了解した、の発音で応じるラーラ。
拘っていた割には、気落ちしていないなと少年は感じたが。
アレは、自らの生まれを否定されそうになったからであって。
ユーマがキメラであるかどうかは、関係ないのだろう。
……あるいは。
ここまで穏やかでいられるのは。
これまでの彼のセリフが、心に響いたからなのかもしれない。
「それで……ラーラは俺にキメラかどうか訊いてきたけど、もしもキメラだったらどうするつもりだったんだ?」
――思えば。
いつの間にやら、巨大な翼を持つ少女と距離を詰め。
一緒に食事までしてしまったが……。
ほんの一時間前は、警戒していた。
ラーラの表情が演技で、中身がモンスターで。
襲われるかもしれないと――。
(……悪いことしたな。色々)
仕方がないとはいえ、割り切るしかないとはいえ。
少女の本心に触れて――罪悪感を覚える少年。
そんなユーマからの問いに、ラーラは答える。
「ぼくも連れて行ってほしかった。同じキメラなら、隣に居させてくれるはずだって」
「……そうか」
彼女の深い深緑の瞳に、下がる口端。
それらの情報をインプットして――呑み込んで。
――だが。
心苦しいことは承知で、あえて。
少年は――『最悪』であろうことを告げた。
「……悪いけど、ラーラを連れて行くことはできない」
「……え?」
意表を突かれたように、虚を突かれたように。
瞳孔を開かせる少女。
途端に乱れて、汗を滲ませる。
「な、なんでっ! 足手まといにならないように気をつけるからっ、迷惑かけないから、連れてってよ……っ」
「俺の旅は危険だ。戦闘になったら君を庇う、なんてことはできない。どこで命を落とすかわからないんだ」
「そ、それなら大丈夫だよっ。ぼく大抵のモンスターになら勝てるよっ。この前だって、家くらいの大きさのゴブリン倒したしっ……!」
「……え? マジ?」
それまで本気モードに入っていた、ユーマのオッドアイだが。
あまりのびっくり発言に、ただの点になる。
(ゴブリンとはいえそれほどの大きさなら十分上級モンスターといえる……それを倒した? こんな小さな体で、武器も持たずに?)
いや……でも。
ドラゴンの血を引いてるなら、ありえなくはない話……なのか?
「マジだよ。だからっ――」
「……それでもダメだ。連れていけない」
「……な、んで……」
――彼女を捨てたという科学者も。
ちょうど、こんな気持を味わったのだろうか?
今にも泣き出しそうなラーラを。
更に悲しませると、視野に入れてもなお。
それでも……自分の所に居させるわけにはいかないと。
「――だってラーラは、俺の生き方を見習おうとするだろ」
良心を削ってでも、声に出すこの心境を。
「俺は……俺の生き方は、決して真似してはならないんだ。成り立ってはならない生き方で、人外でなくてはならない……ラーラはまだ幼いから、きっと影響を受ける」
そうなったら、こんなデタラメなものを引き継いでしまう。
――それだけは、なんとしてでも阻止しなくてはならない。
「俺以外にも、ラーラも見守ってくれる人は絶対にいる。だからそういう、ちゃんとした人の所に行ってくれ。俺みたいな奴は、敏感に吸収してしまう子供の傍にいるべきじゃないんだよ」
――そうやって、彼女を突き放すべきだと思った。
散々偉そうなことを言って、名付けまでしてしまったけれど。
自分がやれることは、これだけで。
これ以上の干渉は――するべきじゃないと。
自らを戒めて、思い上がることをしない。
してはならないと――強く、強く。
“罪”を犯してならないと――締め付けるが如く。
「……だから、他の人を当たって――」
「くれ」と、そう頼もうとしたら。
少女に、遮られた。
こんな問いを、苦しそうにかけられた。
「ユーマお兄さんのように生きたら、ぼくは一人になるの?」
――少年が予想していた以上に。
とても残酷なことを告げていたと――それを指し示す問いを。
「また一人になるの? ずっと一人になるの? そうなったら――」
ユーマお兄さんも、ぼくを見放すの……?
潤む声色。潤む瞳。沈みゆく心境。
……せっかく少女は、前を向いていられたというのに。
見れば今は、下を向いている。
――なぜ?
なぜって……そんなの。
(……俺のせい……だな)
ラーラのためとはいえ。
勝手なことを押し付けて、自分のエゴを押し付けて……。
……ああ。
(これじゃあ――科学者の二の舞じゃねぇか)
同じ轍を踏まないようにと――。
そう気を付けていたはずなのに。
「……悪い、ラーラ」
少女のボンネットに手をやって。
ユーマは――誠心誠意、謝罪した。
「あれだけ大口叩いたなら、せめて信用できる人物を見つけるまでやるべきだよな」
撫でて。
慈しむように、撫でて。
少しでも癒えるように、少しでも寄り添えるように。
――努力する。
「いいよ。付いてきて」
探そう。
ラーラを受け入れてくれそうな人を、“一緒”に。
――それから、またもナデナデすることを強制されたユーマは。
彼女の機嫌が治るまで……約二時間ほど行い。
妙に疲れた二人は、ぐっすり眠るのであった。
次の日、目を覚ましてからというもの。
宝玉集めを兼ねて、ラーラを育てられそうな人物を探す。
勇者ユーマの旅は、まだまだ続く。
……かも?