5話
「ん……満足した」
「良かった……終わり、あったんだな……」
実際には六十分……三六〇〇秒しか経っていないのだが。
少年には、まるで途方もない時を味わったような。
それほどまでの“気疲れ”に、見舞われる。
(一連の動作がシンプルで短い分、やけに長く感じたぜ……)
この永遠のような作業が、いつになったら終わるのか――。
最初の内は少女の表情に、こちらまで癒やされたものの。
まさかそれが、怠けに変わってしまうとは……。
幸せな夢を見ているかのような瞳が開き。
『満足』というたった二文字を口にされ。
一体、どれほど安堵したことか……。
「大変、だった?」
――そんな風に、げっそりとしたユーマを眼にしたからか?
やや不思議を込めて……しかし、それ以上に。
少女は心配そうに、少年へと顔を向けた。
――そんなにも疲れさせてしまったか? ……と。
申し訳無さそうに。大丈夫? と言わんばかりに。
――幼い子どもから送られる、その視線を。
だがユーマは、ほんのり口角を上げて応じる。
優しげに、離していた手をもう一度。
彼女の一部とも呼べるボンネットに、乗せながら。
「気にするな。ちょっと疲れちまったけど、これくらいどうってことない。なにせやったのは“手を動かす”ってそれだけだしな」
「じゃあ、もう一回――」
「いや、それはなし」
優しげな目つきが一転して、マジなものとなる少年。
頑なに少女の要望を断る。
(本当に目敏い奴め……油断も隙もないな。さっきとは違う意味で神経を尖らされる……本当に子供か?)
なんだか、策略家と相対しているような……。
いや、というより、獣というべきか?
その瞳は、無邪気というより――。
心なしか、光らせているように見えなくもない。
少女はその返事に、「……そっか」と。
しょんぼりと、俯いているものの。
先程の『長時間ナデナデ』のおかげか。
それほど堪えてはいなさそうだった。
残念、程度のもののようだ。
……とはいえ。
それでもまだ、狙ってくる気配はある。
少しでも得する機会を失わないように――。
餌をちらつかせただけで、食いついてくる勢いで。
――ユーマは思わず。
無言で呆れ返るような眼差しをやらずにはいられない。
すると……。
「……? じーっとぼくを見つめてどうしたの? なにを考えてるのか教えてほしい」
きょとんとして、今度は答えることを要求する少女。
……それにしても質問が多い子だなと。
何となくそう考えながら、少年は考える。
――ストレートにならないように。
しかし、虚言にもならないように。
いくら彼女の不安を増加させないためとはいえ――。
代わりに虚言というのは、騙すのは、違うだろう。
「――なんだ、大したことじゃあないんだがな……思いの外、逞しい子供だなと」
「……それって、ぼくのこと?」
少女としては、予想外の回答だったのだろうか?
まぁ、それほど驚いている様子ではないものの……。
というより、“気になる”という表現の方が適切かもしれない。
驚いてない少女は。
けれど気にはなる少女は、そう訊き返す。
「ああ。少なくとも、俺の眼にはそう映る」
「…………」
――ユーマがそう頷くと。
少女は……感動するでもなく、放心するでもなく。
そんな。
そういう感情とは、一切抜きにしたような。
ただただ、『考え込む』ようにして――。
そんな風に、黙り込む。
――今少女は、なにを思考しているのだろう?
――彼女の心境は、どうなっているのだろう?
この子はそういうのを……全部、口にしない。
(……本当、口数が少ない子だよな)
少年の最も苦手なタイプといえた。
負の感情を抱いていて、少しでも刺激したらおしまいで。
だけれど……会話を繋げなければもっと刺激する。
故にほんの少しのセリフから、読み解かなければならない――。
せめて難なく繋げることができたなら、幸いなのだが……。
最悪にも少年には、この手の性格の者が何を考えているのか。
どういう理屈で、どういう信条のもと動いているのか。
まるで理解できなかった。
読み取ることが、困難――。
彼には。
“負の感情を喰う”ことで生き延びた彼には。
負の感情と共に生きている者について。
推し量ることすらも、『不可能』だから。
(……ったく、相変わらず自己嫌悪する話だ)
人間らしくない自分が――。
悪魔としての自分が――。
嫌で嫌で、仕方がない。
「――お兄さんは、そういう子は嫌い?」
「ん?」
「そういう……逞しい子供は、嫌い?」
……と。
そんなこんなで、自分のことを嫌っていたら。
続いて少女から、そんな質問をされた。
――つまるところ。要約すると。
少女のことを嫌っているのか? という問い。
こうも真正面から訊いてくるのか……そんな。
そんな小さな違和感を、呟こうとしたけれど。
小さな子供の眼差しに。
固く閉ざされた……それに。
少年は、呟かないことにした。
呟く代わりに、返答することにした。
余計な言葉を省いて、端的に。
――少女の“勇気”を称して、眼を合わせて返す。
「全然――というより、これはきっと……好きとか嫌いとか、そういう話じゃないな。俺にはそういう風に、他人のことを一言で表すことはできない」
「……どれくらい必要なの? 三つ……とか?」
「それだけじゃ足りないだろうな。色んな言葉を知っていて、操れる奴なら、もしかしたら足りるのかもしれないが……あいにくと俺の知識は、並の大人より浅い」
特別、本をたくさん読んだわけではない。
特別な頭脳を与えられたわけでもない。
たった十六年しか生きていない、まだまだ青二才。
平凡そのものな自分には。
――ユーマという、半人には。
短い言葉で尽くすだなんて芸当は、とてもできない。
だから――。
「だから、ダラダラと長ったらしくなっちまうかもしれないけど、それでもその問いに、ちゃんと答えるのだとしたら……」
「それで良い」って、そう言うかな。
だけど別に、逞しくなくても気にしないって。
「あとは心配だとか、見ていて不安だとか、ちょっと呆れたりだとか、場合によっては怪しむこともあったりして、だけど面白がってしまうところもあって、そのことに驚いて――うん」
「大体、そんな感じ」と。
少年は笑って、そう締めくくった。
……少女の期待に、応えることができただろうか?
……少女が求めていたような言葉が、かけられただろうか?
――わからない。
ユーマには、わからない。
その意図も、その思いも、その過去も。
だけど……これだけは察せられる。断言できる。
自分は少女のことを、嫌っていないと。
「……そっか」
その相槌は、最初こそ。
その幼顔を俯かせ、ボンネットで隠れていたために。
どんな情が込められているのか――。
よく、見分けがつかなかったけれど……。
「なら、良かった――」
更に下を向くようにして、まぶたを閉じ。
そう、ほんのりと微笑んで。
――安心する少女。
どうやら、まずまずの回答は示せたようだ。
上出来だろう――と、少年は自らの評価を胸に抱く。
「それが聞けて、俺としても良かったよ。……ほっとした」
――二つの意味で、ほっとした。
彼女の役に立てたことへの、ひたむきな好意と。
そして……悲しみに溺れなかったことへの、安堵。
――いくら“自分の恐怖心を喰べている”とはいえ。
それでも……完全に無くすことはできないのだ。
怖いものは、やはり怖いまま。
見ないで済むなら、そうしたい。
でないと――。
(次にこの子の悪感情が発生した時、喰いたい衝動が抑えられる気がしない)
――ダメだ。それだけは。
ユーマだけならまだしも、他人の感情まで喰ってはいけない。
こんなにも大切で、無理に剥がしてはならないこれらは。
絶対に――。
そんな権利は、神様にだってないのだから。
……少年にしては、えらく厳かな気持ちで。
それから、少女の方へと意識を向ける。
「ところで……君は俺に何の用があって来たんだ? きめらとか何とか、言ってたけど……」
手っ取り早く用事を終わらせて、彼女とは別れよう。
相手のためにも、自分のためにも、それが最良な選択だ。
そう、少年は確信していた。
(この子はまだ幼い……自分の感情のコントロールもできていない)
その技術は地道に、盤石に培う必要のあるものだ。
生物として、決して欠かせてはならないもの。
……なのに、もしもここで。
感情コントロールが度を越して下手なユーマと会話したら……。
それも最悪なことに。
子が親を見習うように、少年を見習ったりなんかしたら――。
その時はもう。
負の感情を喰らう能力なしでは、生きていられなくなる。
(それだけは、避けないと――)
ユーマの生き方は、断じて真似してはならないのだ。
悪魔の血が流れているからこそなる、この技術は。
逆にいえば。
悪魔でなければ、成立しない――。
「お兄さん……やっぱり、キメラを知らないの? 自分の生まれが思い出せない、とかじゃなくて?」
「うーん……これでも一応、生まれた時の記憶はあるんだけど……」
とても苦い記憶だが。
いっそ忘れてしまいたい記憶だが……覚えている。
なにせ人外と人間との間にできたのだ。
ろくでもないことがあったに決まっているだろう。
例えばというか……実際にあったことというか……。
――女性が無理やり犯される、なんてことが……。
「……? 覚えてるなら、教えてもらってるはずだよね。科学者さんに」
「へ? か、科学者?」
突拍子もない、その単語に。
しかも、なまじその意味を理解できるからこそ。
少年は純然にも、はてなマークを浮かべた。
「科学者と生まれとで、どんな関係があるんだ? わかりたいから、詳しく聞かせてほしい」
尋ねるしかない――。
この少女は妙に、『訝しリ』と『警戒』を怖がっているようだが。
たとえこの問いで、ショックを受けたとしても……。
それでも……訊かなければ、話が進まないから。
――だからせめて。
ショックが和らぐように、トーンと口調に気を配るユーマ。
冷静に、沈着に、相手に寄り添おうとする。
「…………」
――そうした努力のおかげか。
それとも、頭を撫でるなどで空気を緩めたからか。
少女はそれほどの不安を……。
彼が視ても、それほど堪えない程度の不安しか、発さなかった。
ほんのりと思索して。
それから……こんなことを口にする。
「科学者さんを知らない……ってことは、あなたは研究所で生まれたわけじゃないの? ぼくと同じように……」
「い、いや……」
研究所だなんて……。
そんなの、人生で一度たりとも縁がない施設だ。
あくまでも少年が育った場所は村であり。
それから王国、宝玉がある場所へと転々としているが。
そんな居心地の悪そうな場所、入ったことはない。
……まぁ、そこに宝玉があるのなら。
いつかは、行くことがあるのかもしれないけれど……。
「じゃ、じゃあ君は……その口ぶりだと、研究所で生まれたっていうのか? でも、人を作る研究だなんて、噂ですら聞いたことも……」
――あまりに衝撃的な。
ユーマにとっては、発想すらもなかった“実験内容”に。
そのことに気を取られてしまって。
相手の顔色を見れず、把握することができなかった。
――だから。
だから即座に、フォローできない。
「……あ」
少女のへこみに。
少女の沈みに。
彼女の深緑色の瞳が……更に濁るのを。
……対処が、間に合わなかった。
(……この研究を信じないのは、この子の存在をも否定する行為……だよな)
もしかしたら……そのことで、苦しんでいたのかもしれない。
確かにもしも。
もしもモンスターと人間とのハーフなんて、ありえないと。
そんな風に言われ続けたら、とても。
とても“嫌な気持ち”に、なるだろう……。
「……悪い。今のは配慮が足りなかったな。俺には想像だにしない内容で、受け入れるのに少し時間がかかっちまって……」
「……あなたでも?」
悪魔と人間が混ざったあなたでも、信じ難い話?
……そう、少女は気落ちする。
喰べたくなるほどではないとはいえ。
それでも……視ていてこちらまで落ち込むような。
それくらいには……重かった。
もはや訊いてくるわけでもなく。
――期待すらも、せずに。
少女は、独言するばかりだ。
(……ダメダメだな、俺)
――こんな時。
こんな時“人間”なら、どうするだろう?
悪魔の血が混ざっておらず。
自力で窮地を凌いできた人間なら、どうするだろう?
……村の人達は、どうしていただろう――。
しばしの沈黙の後、少年は立ち上がった。
「よし」
漂っている暗さを、入れ替えるように。
声を発し、手を叩いて、風を生み出す。
少女はユーマの唐突なそれに、少しびくっとするも。
優しげな声色の少年に、耳を澄ませる。
「気付けば夕方も終わって夜になったし、夕飯でも食べよう。少し休憩しようぜ。今日はそれなりに上等な肉を仕入れたから、美味いもんになると思うしよ。料理作ってる間にでも、考えを纏めてみるよ」
「……うん」
迷いつつも、少女は。
その提案に――乗ることにした。
確かに話していて疲れたと、そう言いたげだ。
その首肯に、少年は早速とばかりに袖を捲くる。
「何か嫌いな食べ物はあるか? あるいは、焼いたりする方が好きとか」
「焼くって、肉を?」
「……え?」
当然のように投げかけられた疑問に――。
しかし、少年は非常識を目の当たりにするみたいに、固まる。
(……もしかして、ずっと生で食ってたのか? 肉を?)
それは……。
下手をすれば、人体実験よりも衝撃的な話であった。