☆1話
相手が自分より年上であれ。
相手が自分より年下であれ。
人は誰かに、憧れてしまうものだ。
憧れという気持ちに、相手の年齢など関係ない。
例え彼ないしは彼女と百歳ほど離れてるとして。
例え彼ないしは彼女が幼い子供だとして。
例外なく、人は人を憧れる。
その人のようになりたいと。
その人になれればいいなと。
そういう理想を抱いて、そういう道を辿りたくなる。
――だから人は、ひたむきにその人を追いかけて。
――だから人は、ひたすらにその人に手を伸ばすのだ。
憧れという感情ほど、純粋で直情的なものはない。
故にそれは美しく……故にそれは、強い。
……だけど。
美しくても、強くても。
それは同時に……残酷なことでもあって。
いつまでも憧れるということは。
つまり、“いつまでも同じになれない”ということでもあり。
ちょっとやそっとでは超えられない壁で。
並大抵の努力では、隣に立つこともできない。
いや、隣に立とうと思うことすら、おこがましいだろう――。
こんなにも近づきたいのに。
なかなかそれが――叶わないのは。
少し、悲しいことで。
ほんのり……寂しいことでもあって。
凄く歯がゆいことでもあるけれど。
……でも、それでも。
人間の性ゆえか?
人は憧れを、やめられない。
越えられないとわかっていても。
追いつけないとわかっていても。
――見上げたいから。
目標が無くなることなく、そこにあるから。
だからその感情は、そう簡単には消せないのだ。
消すことなく、抱きしめてしまうほどに。
……でも、それでいいのだと思う。
その気持ちが、もしも生涯『憧れ』のままでも。
……その気持ちは、きっと。とても、とても。
素敵なもの、だから。
“憧れ続けたい”と、そう想ってしまうくらいには――。
綺麗だと思った。
そこにある景色を、ただ。
漠然と――呆然と。
奇麗だな……と。
「…………」
少年は静かに、息を呑む。
静かに――目を見開く。
圧巻にして壮大な。
――奇妙で、麗しい“それ”に。
驚いて、驚いて。
感動して――言葉が出なかった。
(噂には聞いてたけど……まさかここまでとはな)
ここまで幻想的だとは、思わなかったと。
少年は未だに、打ち震えるばかりだ。
……別に、目的を忘れたわけではないけれど。
覚えてはいるけれど、理解はしているけれど。
後回しにせずには、いられない。
この――光景の前では。
(……海の底に沈められた都市――“海底都市”。……実物を見るまでは、なかなか信じることができなかったけど……こりゃあ、信じるしかない)
都市伝説のような都市が――眼の前に、在る。
……まぁ。
今の自分の姿にも、傍から見れば仰天ものなのだろうが……。
(“濡れもせず”、しかも“生身”で、平然と水中を歩いている男……改めて考えてみれば、この街と同じくらいに奇妙な光景だよな……)
苦笑する少年の衣服が、不自然に。
波打つように――水に流されてるが如く、そのとき揺れた。
――そう、ここは海。
水の中。水中であった。
“加護”がなければ息もできず。
また、水圧に耐えることもできないだろう。
……だが。
少年と、少年が見ている景色が、その法則を叩き割る。
――気泡と、魚だけが疎らに浮いている場所。
本来であれば、建物など到底作れるはずがないそこには――。
あろうことか、地上と同程度の技術。
――コンクリートやレンガで、何軒もの家が建てられ。
水中であるにも関わらず、確かに『街』が存在していた。
街。
誰も住んでおらず、崩れもしない模型の街。
天から降り注ぐ光によって、そこは明るさを保っている。
水色に、あるいは白く、不規則に煌めき。
膨大な水分がそれらを遍く包み込んで。
揺蕩い、その壁と屋根の色を浮かび上がらせていた。
――その光景に。
ただただ、少年は感嘆とするしかない。
「……すっげー、綺麗……」
酷く拙い感想だけれど。
語彙という語彙が消滅したような、ダメな言葉選びだけれど。
そうとしか表現できない……。
少年には、そう呟く他なかった。
無意識で……それ故に、本音のセリフ。
ストレートで、直球で、混じり気のないそれは。
しかし下手に身の丈を上回るより。
よっぽど、核心のついた表現となっているだろう。
……だけど。
どうしても……こう考えてしまう。
もしもここで、気の利いたことを口にできたなら。
――この美しさを、表せたならと。
(ここでカッコよく決められたら、“大人”なんだろうな……)
風景による感動と、自らへの呆れ。
その二つの意味を込めて、少年はため息をついた。
――と、そこへ。
不意にも……不覚にも。
とある少女の声が、彼の耳たぶに触れる。
「勇者様のご活躍は聞いていたとはいえ、悪魔と人間のハーフとのことで少々心配していたのですが……どうやら杞憂だったようですね。モンスターとして処理することはなさそうで、安心しました」
それは、知らない女の子の声だった。
それも、子供の声。
振り向けばそこには、背の低い少女がいる。
ワンピースを纏った……小さな子供が、そこに。
少年はその子のことを、何も知らなかったけれど。
初めて見て、初めて聴いたけれど。
薄々、その正体に勘づいて。
直感的に、そうだろうと思って。
――こう返した。
「そういう態度取られる度に、いっつも思うんだけどさ、そんな簡単に俺のこと信用していいのか? 勇者ってのは重要な役割なんだし……こう、もっと慎重にっていうかさ。こんな姿でも、血液の半分は悪魔なんだぜ?」
少年は苦笑する――もはや、苦笑するしかなかった。
容易に信頼を得ることに訝しるのも。
モンスターと扱われて不愉快に感じるのも。
今となっては――そんな複雑な思いはない。
慣れ。
何事にも、慣れがある。
そういうものだと受け入れて。
そういうものなんだと、脳が認識する。
だから、少年は口角を上げるのだ。
軽く軽く、受け流す。
(…………)
……だけど。
それでも、少女に問いかけたのは。
やはり、『モンスターを危険視してほしい』という思い。
半分モンスターである自分を。
もっと、警戒してほしいと。
――少年の容姿は、完全なる人ではなかった。
一見、ただの十六歳の男児だが。
その血の半分は青く、もう半分は赤い。
頭には鮮血のような赤い角が二本あり。
下には、同じく赤い色の尻尾が生えている。
――普通の人間にはできないことも、少年ならば可能だ。
彼は、何事もなく平静としているけれど。
実のところモンスターとは。
もっと凶暴で、恐ろしくて、醜い。
……だというのに。
自分と会話することにより、その認識が崩れてしまうのが――。
モンスターと、良好な関係が築けると。
そう誤解されるのが、怖かった。
他ならぬ――半ば人間に似た自分のせいで。
「いいんですよ。そんな簡単に信用して」
――しかし。
少女はあっさりと、肯定する。
眼を閉じ、微笑にも、肯定する。
「悪魔の血が流れていようといまいと、あなたが勇者に選ばれたのは、紛れもない事実なのです。ならば我ら“守護者”は、勇者であるあなたに助力するまで」
「んー……そういうもん、かな?」
少女が差し出す、その回答に。
彼は今ひとつ、納得しきれないと。
そう――首をひねるけれど。
「それに――」と、少女は続けた。
穏やかにも、赤い瞳を開きながら。
――穏やかの中に、鋭い刃を秘めさせる。
「あなたの中身がモンスターだったその時は、被害が出るよりも前に排除すればいい」
「っ……」
少年は、ややたじろいだ。
一瞬呼吸を忘れたほどに、形ある恐怖を感じる。
――相手は、僅か十歳だろう子供。
それも、か弱い女の子。
なのに。
それなのに。
『排除』という、容赦なしのワードに。
――それを実行できるという、確固たる自負に。
意図せず少年は、自らの死を連想させられ。
覚悟というイメージを、過ぎらされ。
……そして。
気を、許した。
彼女ならば、大丈夫だろうと。
問題ないだろうと――気を許す。
「……そっか。なら、いいや」
少し、感慨深そうに。
そして、安堵したように。
少年は笑って、景色の方へと向き直った。
そのことに――。
ちょっと予想外な、その反応に。
少女は目を丸くするも、その意思を汲んだ。
――肩を下げて。
勇者の元へと、歩み寄る。
ゆっくりと。
邪魔しないように、傍に行く。
まるで、忠実なる従者のように。
「――もうしばらく、眺めていかれますか?」
見上げることも、見下げることもしない。
そのままの視線を――少女は注ぐ。
暮らしのない街、海底都市に。
――少年は。
その、丁寧な確認に。
「うん」と、顎を引いた。
「そうするよ。なかなか滅多に見れないもんだしな――すごく気に入った」
「それは何よりです。少なくともこの街の景色ならば、勇者様の疲れを癒せるようですね」
「…………」
――少女の、言い方。
共感でもなく、理解でもない。
ただただ、役に立てたことを重要視する返答に。
不思議に思い、少年は。
興味本位にも、こんなことを訊いてみる。
「もしも俺が、ここで『気に入らない』って答えてたら、君はどうするつもりだったんだ?」
……すると、既に持ち合わせていたかのように。
速やかに、滑らかに。
己のすべきことを、口にする少女。
「その時は、手早く宝玉の元へお連れするつもりでした。不快な場所には無意味に長居しない方がいいでしょう」
「そっか……なんというか、意外だな。色々」
「――私以外の守護者に出会った勇者様なら、そう感じるのも無理ありませんね。過去にも何度か、それに似た言葉をかけられたことがあります」
率直に。
特に考えもせず、少年が呟いたら。
意外にも。
いや案外、意外でもなく。
少女は同調する。
聞き流すように、同調した。
「それって、他の守護者や過去の勇者から?」
「ええ」
「否定しないんだな」
「肯定しますよ」
「――ってことは、君が珍しいって自覚ある?」
「そりゃあ、もちろん」
彼女は子供なのに。
その身長は、少年の半分もないというのに。
大人のような風格で。
淡々と、けれど冷淡でもなく。
彼からの問いに、次々と答えていく。
「ですが私は、私のとる態度が間違っているとは思いませんし――他の守護者の態度を、無礼だと注意するつもりもありません」
「その心は?」
「どちらも、あまり意味がありませんから」
宝玉さえ守っていれば。
あと、勇者に協力的であれば、それで十分だと。
自らを棚上げすることをせず。
かといって、周囲を非難することもせず。
粛々と、静かに応じる。
――その対応に、少年は。
(しっかりした子なんだな)――なんて印象を抱いた。
印象は印象でも、好印象。
全然嫌いじゃないタイプである。
「なんていうか、達観してるな」
「勇者様としては、見た目通りの子供らしい言動の方が好みですか?」
「本当、達観してるよ。すっごく」
――幻想的な景色を前に。
「すっげー綺麗」としか言えないのと同様に。
全くもって、我ながら拙いワードセンスだけど。
「達観してるよ」という評価は。
的を射ていることだけは、自信がある。
でも。
射ているだけで、満点は狙えそうにない。
――少年は。
達観とは、正反対な表情で。
というより。
少年の辞書に、達観なんて気難しい文字はなくて。
持ち前の悪戯心で、軽率にも接した。
気兼ねなく、とも言い換えられるだろうか?
「子供っぽい方がいいって言ったら、そうするのか?」
「勇者様が望むのであれば、努力します」
「男勝りな口調なメイドさん、だけど実は痛いのが大好きな変態さん! ――みたいな設定でも?」
「……がんばります」
「いや、いいよ。冗談だから」
割りと真剣に。
思っていた以上に、決意した少女の声色に。
急いで止めにかかる少年。
ちょっと見てみたい気はするけれど。
さすがに……初対面の人にふっかける内容ではない。
「君は真面目なんだな」
やや呆れたように告げる少年に。
――気を抜いている彼とは、違って。
少女は変わらず。
小さな幼女は、相変わらず。
凛とした、粛々とした顔つきをしている。
「この身は勇者様に尽くすと、そう昔に決めたので」
――昔。
昔という単語を、わざわざ彼女は使った。
その堅い眼差しは。
積み上げた経験と心構えでできただろう、それは。
とても年相応ではなく。
少年でさえも、そんな眼は到底できそうになくて。
不覚にも。
少年は――こう思った。
(カッコイイな……)
姿形とは、無関係に。
……いや。
『子供』というギャップで、尚更に。
顔を下げるはずが、上げてしまう。
より、美化されてしまう。
(すげー……カッコイイ……)
――憧れて、しまう。