第一章~辻畑⑥
「どう思う」
「一千万円ですよね。母親の口振りから嘘は感じ取れませんでした。息子はやや挙動不審でしたけどまだ十五歳です。五年近く介護し続け、しかも母親同然に育てて貰った伯母が自分の留守中に殺されたんですから。鍵をかけていなかったことで、自分を責める感情も少なからずあるでしょう。ああいった態度を取るのは自然かもしれません。それに彼が一千万円をベッドの下に隠す、または手伝ったとは思えませんでしたよ」
鑑識が発見し彼女達にその存在を知らせた際の驚きは、とても演技しているように見えなかったと、周辺にいた捜査員達全員が認めている。それを再確認するのが今回の訪問における目的の一つでもあった。そして辻畑の見解も尾梶達と同様だった。
「何かを隠している様子は伺えたが、被害者に頼まれ金を用意、または置いたとは俺も思えなかった」
「それ以外に隠すってなんでしょう。まさか殺人に関与しているなんて言いませんよね」
「完全には否定できない。意図的かどうかは別にして、鍵を掛け忘れ犯人が侵入しやすくしたことは確かだ。また金について何か別の心当たりがある気もする」
「でも発見された時の反応から嘘だと感じた人は誰もいません。鑑識を含め現場には相当数の捜査員がいて、その全員を騙す程の演技が出来るようには思えませんでしたよ」
「それは分かる。だから本当に驚いたのだろう。ただ現金で一千万円が残されていた点については、何か心当たりがあり必死に隠そうとしているようにも見えたんだ」
彼は首を傾げながらも辻畑の考えをそれ以上否定しなかった。
「辻畑さんが言うのならそうかもしれません。だとしたら何を隠しているんでしょう」
「それが分からない。被害者が殺された件に関係するのか、全くの別件か」
「ちょっと待って下さい。あの子が犯人と繋がっているとでも言うのですか。侵入しやすいよう、ドアの鍵を掛けなかったと」
「有り得る。お前だって分かるだろう。あの二人は介護で大変な苦労をしていた。早く死なないか、誰かが殺してくれないかと思っていたとしても不思議ではない」
「辻畑さんのように、ですか」
「尾梶のように、でもあるだろう。だが実際はそう上手くいかないし、例え亡くなったとしても遺族が幸せになれるとは限らない」
彼は深く頷いた。
「一時の苦悩からは解放されますが、その分別の苦痛を味わう恐れがありますからね」
署に向かう車中、しばし沈黙が続いた。こういう話が出来るのは彼とだけだ。というのも互いに身内の介護で苦労してきた境遇だからである。但し辻畑は現在進行形で、彼は過去においてだった。
辻畑は三人兄妹の長男として生まれ、現在七十五歳で足を悪くした母、美恵子の介護をしている。長女で妹の清美は結婚して湯河原の姓を名乗り現在千葉に住んでいるが、そちらも夫の親の介護で大変らしい。また弟の真は十年前に交通事故で亡くなっており、辻畑が母の面倒を看ざるを得なかったのだ。
辻畑はかつて結婚していたが七年前に父が病死した後、足を悪くした母の介護が必要となり同居を始めた事を機に、ある理由から嫁姑関係が悪かったせいもあり妻の咲良は出て行った。辻畑は仕事が忙しく面倒等見られないので介護施設に入居してくれればよかったが、絶対嫌だと母がごねた。それで止む無く父が建てた実家は何の文句も言わず売却し、辻畑の住む官舎に移ってきたのである。
母と二人になり毎日愚痴を聞かされ、辻畑は何度激怒したことか。そんな暮らしがもう六年以上続いている。もう悩むのは嫌だ。早く死んでくれないか。そう何度呟いたことだろう。口にせずとも職場で、誰彼ともなく愚痴を吐かずにはいられなかった。
それでも共感してくれる者はそう多くない。大変ですね、と上っ面だけの薄い感想を述べるだけの者もいる。中には育ててくれた母親だから当然だと言い、途中で介護を放棄し出て行った嫁の悪口を言う奴までいた。そんな中、唯一の理解者が尾梶だった。彼は親身に辻畑の話を聞いてくれた。それは彼も似た境遇を経験していたからだと後に判明した。
今回の事件における被害者の甥の航と同じく、彼の娘もある意味ヤングケアラーと呼んでいい。彼は介護で苦しむ辻畑の悩みを心から共感し、また日暮家における解放された時の安堵感さえ体験済みなのだ。しかも仕事に没頭し現実の苦労から目を逸らそうとする今の状況は二人共変わらない。
特に彼は能力や経験からしても、そろそろ所轄から県警の刑事課に呼ばれていい時期だ。しっかり座学を勉強し警部補への昇進試験を受ければ、合格する確率は低くなかった。しかし警部補になるには、試験に加え推薦が必要となる。よってこの辺りで成果を挙げたいところだ。せめてそうした明るい話題や目指す目標が無ければ踏ん張れないだろう。
重苦しい気持ちを抱えながら、二人は捜査本部が設置されている中川署に到着した。車から降りたところで、辻畑は背後から声をかけられた。
「事件について何か進展はありましたか」