第五章~尾梶⑨
尾梶は席に戻り通常業務を一区切り終わらせた後、再度辻畑の携帯に連絡を入れた。だがやはり留守番電話に切り替わった為、伝言を残した。
「尾梶です。今、課長から例の件で聴取を受け証拠物件も全て渡しました。お伺いしたい件がありますのでご連絡下さい。私に何も言わないまま、警察を去るのだけは許せません」
これまでと違い、尾梶を遠ざける必要はないはずだ。よって必ず連絡を寄こすだろう。そう確信をしていたところ案の定、夕方遅くにスマホが鳴った。彼からだ。急いで廊下に出て通話ボタンを押した。
「辻畑だ。遅くなって済まない」
開口一番謝った声は想像以上に落ち着いていた。それが癇に障り思わず口調が強くなる。
「何故隠していたんですか。一人で勝手に辞めるなんて卑怯です。格好をつけすぎです」
「そんなつもりはない。元々俺一人で始めた事だ。途中から巻き込んだのは、掴んだ証拠を提出する際、信用が得られるよう打った布石に過ぎない。尾梶も分かっていただろう」
「だからといって、一人で責任を被る必要はなかったでしょう」
「何を言う。尾梶には何の責任もない。本部だってそう判断した。だからそっちの聴取が事後になったんだろう」
確かに一連の件で尾梶が処分を受けるのは筋違いかもしれない。けれど辻畑には警察を辞めて欲しくなかった。似た境遇を抱える同志として、今後も共に仕事をしたかったのだ。
よって露見した際は上に対し説得する情報を得る為にも、深く関わりを持とうと試みたのである。警視庁より提供されたリストから、彼の情報を削除したのだってその為だった。しかしもっと上手だった彼は、一人で全て背負うことに成功したのだ。
納得できない為、彼を問い質した。
「どうして辞めなければいけなかったのですか。上が命じたのなら、私が再度説明します」
「無駄だ。上は慰留してくれたが、辞めると決めたのは俺だからな」
「何故ですか。あれは嵌められただけでしょう。他の件と違います。例の金も勝手に押し付けられただけではないですか」
「だが途中までとはいえ、母が消えて欲しいと願った事実は消せない。その書き込みに相手が反応して事件が起きた。刑事が犯罪者側に回ったんだ。責任を取るのは当然で、警察に居続ける資格はない」
彼の言葉に違和感を覚えた尾梶は尋ねた。
「途中までとはどういう意味ですか」
意図が分からなかったのか聞き返された。
「なんだって」
「いえ、辻畑さんがお母様に消えて欲しいと考えていたのは途中まで、とも取れたのでどういう意味なのかと思いお聞きしました」
しばらく間があってから、彼は言った。
「俺が最後まで母を恨んでいたと思ったのか。そういえば言っていなかったな。実は相手から反応があった後、母と大喧嘩をしたんだ。そこで互いの本音を初めてぶつけ合った。おかげで母の態度が軟化したんだよ。あれほど行きたくないと拒絶していた施設にも入るつもりでいたんだ」
尾梶は初めて耳にする話に衝撃を受けた。
「そ、そうでしたか。それはいつですか」
「確か尾梶に囮捜査の話を打ち明けた日の夜だ。あの日までは本当に消えて欲しいと思っていた。だからあれだけ真に迫った書き込みが出来て、相手が食いついたんだろう」
「その後に状況が変わっていたんですね」
「完全にひっくり返った。馬鹿な真似をしなければ、今頃はどこの施設に入るかを決め、引っ越し準備をしていただろう。そう考えると俺が犯した罪は重い」
「今回の件で、辻畑さんは多少なりとも救われたと思っていました」
「最悪の結果をもたらしただけだ。もっと早く向き合っていれば、妻とも離婚せずに済んだだろう。仕事が忙しいと言い訳し、衝突を恐れた俺に全責任がある。だからけじめをつける為にも警察を辞め、今後は悔いが残らない人生を送ると決めたんだよ」
完全に誤解をしていた。てっきり二人は同じ価値観を持っていると信じ込んでいたが違ったのだ。知らぬ間に、彼は尾梶が到達できなかった領域に足を踏み込んでいたらしい。
警察を辞める結論に至った理由が初めて理解できた。かつては転職せざるを得ない状況まで追い込まれていたはずだ。そうしなかったのは刑事という職業に強く執着していたか、母親の為にそんな真似までしてたまるかとの反発心があったと考えていた。
だから彼は今回の件があっても、絶対警察に残ると思い込んでいた。けれどそれは大きな誤りだった。当然だ。前提が全く違うのだから。何故か裏切られた気持ちになり、責める気力はもう失っていた。その為黙っていると、彼は言葉を続けた。
「俺は警察を去るが事件は終わっていない。尾梶は今後も的場さんや他都府県と連携し追ってくれ。上にそう念を押しておいたが、課長からは何か言われなかったのか」
「辻畑さんのおかげで引き続き任務に就くよう指示されました。昇進試験も受けろ、と」
「良かった。でもそれは尾梶の実力だ。期待されているんだから、是非応えてくれ」
「私の事はいいですよ。でも辻畑さんはどうするんですか」
「俺もこのままという訳にはいかない。別の意味で闇サイトとの関係が続いているからな。なんたって相手にとって俺は依頼主だ。それを逆手に取ってやろうと思っている」
「これからも事件に関わるおつもりですか」
驚く尾梶に彼は当然とばかりに言った。
「もちろんいつか母の仇は取る。実行犯だけじゃない。闇サイト運営者や協力者達を含めたネットワークを暴くつもりだ」
「で、でも、そうなると辻畑さんだって、その関係者に含まれてしまうのでは」
「だからだ。警察に居ては出来ない。下手をすれば逮捕されてしまうからな」
「それもあって辞表を出されたのですか」
「その為に辞めたという方が正しい」
「生活はどうするんですか」
「皮肉な事に事故での保険金が入るようだし、他の死亡保険金を含めた遺産も手に入る予定だ。退職金もあるから金には当面困らない。しかも俺は一人身だしなんとかなるさ」
ひき逃げ犯は捕まっていない為、相手の車が掛けている自動車保険の対人賠償は払いようがない。その為に彼が所持する車の人身傷害保険で、本来払われるべき賠償金相当額が支払われるという。また母親が別途交通傷害保険や生命保険にも加入していた為、想定外の臨時収入を得るらしい。さらに退職金だけでなく、あの一千万円もある。
しかし気軽になったと言うが、実際の心情はそう単純でないだろう。母親を殺すよう依頼したとの消せない現実を背負うのだ。しかも憎しみの対象でなくなっていたなら尚更である。本来であれば依頼主の彼は、全国に散らばる協力者達と同様、闇サイト運営者達に取り込まれる立場だ。介護やDV等で苦しむ人々を見つけては、悩みの種を排除する手助けを強要されるはずだった。
けれどその運命に逆らい、警察を辞めた上で摘発する側に回るという。本当にそんな真似が出来るのか。警察の権力無しでどういう手を使うつもりなのか。
色々と聞きたい件は山ほどあったが、この時尾梶はそれ以上何も言えなかった。




