第五章~尾梶⑤
「ごめん。だけどお父さんもなかなか手伝ってやれないからさ。出来る時にはやらないと」
「お父さんは外で仕事でしょ。だから無理しないで。それこそ家族なんだから助け合えばいいし、今の内から家事や食事を作るのに慣れていれば、良い花嫁修業になるじゃない」
「何を言っている。まだ中学に入ったばかりじゃないか。学生の本分は勉強だ。といって塾にも行かせないで、家事ばかりさせているのは申し訳ないと思っているけど」
「塾は小さい頃から色々通わせて貰ったから、今は大丈夫。勉強は家でも学校でもできるし。家事だって立派な社会勉強でしょう」
娘の言葉に危うく涙ぐみそうになる。慌てて目を逸らした。
「悪い。ちょっと、トイレに行ってくる」
そう言って場を離れドアを開け、個室に入り便座に腰を下ろす。彼女が言った通り、祖母の支援もあって翼は幼稚園の頃から英語の塾など、複数の学習塾やピアノや水泳といった習い事をさせていた。尾梶も妻も学歴では従兄妹達に劣る為、その子供は負けないよう勉強等に力をいれろと言われたからだ。
おかげで翼の学校での成績は良かった。あいにくピアノの才能は無かったらしく長続きしなかったが、水泳のおかげで体力もつき、運動神経も良かった。けれど祖母の死後、砂羽が寝込んでからは、塾や習い事を全て辞めざるを得なくなった。
しかし勉強の仕方は自分なりに習得したのだろう。中学に入る前もその後も成績は落ちなかった。家事で忙しく疲れているはずだが、親に心配かけまいと努力しているらしい。
そんな様子は一切見せず健気に文句も言わず明るく振舞う娘の姿を見て、こんないい子に育ったのは間違いなく妻のおかげだと尾梶は感謝した。仕事で忙しく、娘の教育や家事については一切任せていた。祖母が健在だった時の交流や、その後同居した後も全て彼女に頼り切っていた。そうして蓄積された疲労が祖母の死後に表面化したのだろう。それを娘が献身的に支えてくれている。
泣いていたと思われないよう、涙が乾くまで籠っていた尾梶はドアを開けてリビングを覗いた。翼はベランダに出て、洗濯物の乾き具合を確かめているようだ。
その姿を確認し、いま彼女の顔を見るとまた目が潤んでしまうと思い、再びこっそり妻の寝室に入った。すると彼女は目を覚ましていたらしい。尾梶に気付き声をかけて来た。
「お帰りなさい。翼も帰って来たようね」
「ああ、ごめん。うるさかったか」
「そんなことない。たまたま起きただけ。気にしないで」
体を起こそうとした為、近づき止めた。
「そのままでいいよ。具合はどう。頭は」
少し間があってから彼女が答えた。
「今は大丈夫。ゆっくり休んだから」
「じゃあもう少し休むといい。夕飯は俺が作る八宝菜だから、出来たら起こしに来るよ」
「有難う。いつもごめん。非番なのに午前中も昼過ぎてからも出かけたでしょ。忙しいの」
「まあ、それなりにな。ちょっとしたトラブルがあったから。だけど今日はもう大丈夫。明日からはまた忙しくなると思うけど」
「そう。無理しないでね」
まだ夕飯の準備まで時間がある。だから彼女の負担にならない程度で話し相手をした方が良いと考え、床に座って言った。
「大丈夫。それに翼が良くやってる。あの子には本当に迷惑をかけて済まないと思うが、砂羽が良い子に育ててくれたおかげで助かっているよ。俺は本当に駄目な夫で父親だな」
「そんなことない。どうしてそんな事を言うの。あなたがいるから安心して何不自由ない暮らしができているじゃない」
「それは遺産のおかげで俺の力じゃない」
「何言っているの。あなたがずっとあの人達に可愛がられていたからでしょう。それに今だって一生懸命働いてくれている」
「そのせいで砂羽を辛い目に遭わせた」
「それは全部私の責任。あなたのせいじゃない。結婚だってちゃんと説明を受けた上で了承したんだから。それなのに耐えきれなくなった私が悪いの」
「もう自分を責めるのは辞めよう」
そこで躊躇したけれど、涙ぐんでいる彼女を見て思わず口にした。
「俺と砂羽は一蓮托生だ。これまでやこれからの全てについて、君だけが他人から批難を受ける必要はない。俺が盾になる。もちろん君の心の奥底にある傷まで完全に消し去るのは難しいだろう。だがその痛みを一緒に分かち合って半分にはできる。二人で一生背負い続ければ多少なりとも和らぐ。これからはそう信じて生きていこう。これからはもう君一人だけで背負はなくていい」
初めはその言葉の真意を掴み切れなかったようだが、じっくりと説明するにつれて彼女の顔は歪み、泣き崩れた。
「ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」
「違う。全ての原因は全て俺にある。だから夫として当然のけじめをつけようと考えただけだ。過去は忘れよう。何も言うな。後は翼の将来を考え、前を向いて歩こう。だけど君は無理をしなくていい。まずは心と体をゆっくり休ませ、健康を取り戻すのが先だ」
なかなか嗚咽が止まらなかったけれど、はっきりと頷いた。
「分かった。私がしっかりしないと、翼やあなたに負担をかけるだけよね。これ以上迷惑をかけちゃいけないのは分かっている。あなたの想いを無駄には出来ない。だから頑張る。それがせめてもの償いだし、あなた達の為にもなるのよね」
「頑張らなくていい。でも砂羽が元気になってくれれば嬉しいよ。少しずつでいいんだ。今は休みなさいと体が言っているのだから、それに従うのが一番だ」
「有難う。でも御免なさい」
「もういい。こっちこそまだ疲れている時に突然ごめん。驚いただろうし、疲れただろう。夕飯まで時間があるから、それまで寝て休んでくれ。出来たら起こしに来るから」
余り長くここにいたら翼が心配するだろうと思い立ち上がった。もらい泣きしそうになった瞼を瞬き、涙を乾かす。それから彼女の頭を軽く撫でてから部屋を出た。
リビングに行くと、翼はキッチンで野菜の下拵えをしていた。慌てて袖をまくり上げ、流しで手を洗いながら言った。
「ごめん。お父さんがやるって言ったのに」
「いいよ。お母さんと話していたんでしょ。どうだった。泣いているみたいだったけど」
「何だ、盗み聞きしていたのか」




