8.理不尽な婚姻
無事、証書を手に入れ、屋敷に戻ったジールを出迎えたのはデボラだった。
「遠いところをご苦労様でした」
その物言いは完全に主従のそれであり、ジールは不快感も顕に応じた。
「失礼ですがロバート様はどちらにおいででしょうか」
「夫なら出掛けているわ」
ロバートを夫と呼んで良いのは亡きオレリアであり、デボラではない。
「『夫』ですか?貴女にそのような方がおられるとは、存じませんでしたな。ならば今すぐにでもそちらにお住まいを移されるのがよろしかろう」
ジールの嫌味にデボラは口を曲げた。
「わたくしにそのような口をきいて、許されると思っているの?」
誰になんの許しを乞うというのか、ジールの疑問にデボラは意地悪く微笑み、言った。
「エリアーヌはもうこの屋敷にはいないわよ」
「それは、どういう意味でしょう?」
「ふふ、あの娘はね。ラグランジュ侯爵に差し上げたの、デュナンの負った借金のかたとしてね!」
デボラの言うことが信じられないジールは急いでエリアーヌの私室へ向かった。そこはガランとした部屋に変わっており、自分のいない間にこの屋敷に何が起こったのか、ジールは家政婦長を捕まえて尋ねた。
「お嬢様はどちらにいらっしゃるんだ?いったいなにがあった?」
ジールの言葉に家政婦長は幾分声を落として、
「お嬢様は、デボラ様とジョアンヌ様にひどい暴力を振るってたんですよ。それでロバート様が急いでエリアーヌ様のご縁談をまとめられて。もうあちらに移られましたよ」
「馬鹿な!お嬢様は借金のかたとして侯爵家に売られていったんだぞ!」
ジールの大声に家政婦長は驚き、それから笑った。
「あんたもいい加減、目を覚ましなさいな。あたしらは長年、お嬢様に騙されてたんですよ」
そこでメイドが家政婦長を呼びに来た。
「奥様がお呼びでございます」
メイドの言っている『奥様』がデボラを指しているのは明らかで、それを聞いた家政婦長はいそいそとその場を立ち去った。
これはどう考えても緊急事態だ。そう考えたジールは急ぎデュナンの街へ行き、オレリアの姉達に助けを求めることにした。
しかし、それを許すデボラではない。家政婦長を従えた彼女は出かけようとするジールの前に立ち塞がった。
「ジール、証書をよこしなさい」
「証書は大切なものです、使用人が直接持ち帰ることは許されておりません、使用人が悪用しないとも限らないのですから」
「それじゃ入手できないじゃない」
「郵送で、この屋敷に届くことになっております」
これは真っ赤な嘘で、本当はジールの手荷物の中にあった。だが、その真偽を判断できる人物はこの場にはいない。現にデボラも家政婦長も首をかしげている。
「わたしが街まで行ってまいります、王都からの荷の中に証書も含まれているはずです。最短でデュナン邸に届けるよう、催促してまいりましょう」
ジールのハッタリにデボラは頷き、ジールが街へ行くことを許可した。
ジールは今すぐ駆け出したい気持ちをグッとこらえ、まずは自身が不在の間に滞っていた業務を片付けた。こうすることでジールが催促の為に街へ行くことは渋々であるように見え、先程の発言にも信憑性が出る。うまく行けばロバートを騙すこともできるかもしれない、彼は貴族とは言え長子ではなく、こういったことには疎いはずだ。
ジールは時間稼ぎのための工作をした結果、その日の夕暮れ時になって、デボラの意を受けた家政婦長に急かされる形でようやく街へと向かった。
ジールがオレリアの一番上の姉の屋敷に駆け込んだのと、ラグランジュ侯爵からの電報が届いたのは同時であった。ジールの証言によりデュナン邸の様子が、侯爵からの電報でエリアーヌの無事が確認できた。
「翌日にはお嬢様がこちらにお見えになると聞き、このお屋敷の業務をお手伝いをさせて頂きながら、到着をお待ちしておりました」
ジールの話を聞き終わったエリアーヌはため息をついた。
「そう、証書とあなたが無事でよかったわ」
「それはこちらの台詞です、お嬢様が屋敷を追われたと聞いたときには肝が冷えました」
ジールもようやく笑顔を見せ、エリアーヌに応じた。
「ですが、ロバート様は証書をなにに使うつもりだったのでしょうか」
ジールの疑問にエリアーヌは少しうつむいて言った。
「それが縁談の話は嘘というわけではなくなったの」
「では、本当にご縁談が?」
自分は借金のかたとして侯爵家に売られることになっていた、でも返済の目途はたっており、だとしても謝罪の意味を込めてリオネルには自分の身を差し出した。そんなエリアーヌに彼は先ほど、結婚しようと言ったのだ。その真意がつかめていない以上、縁談と呼んでいいのかわからない。
「ついさっき、ラグランジュ侯爵様から結婚の提案をされたのよ」
「それは」
エリアーヌの打ち明け話にジールもそれ以上の言葉が出ない。デボラからエリアーヌを侯爵家へ売り渡したことははっきりと聞いている。借金のあるエリアーヌにリオネルが求婚するメリットなどなく、なにか裏があるとしか思えない。
エリアーヌもジールと同じくリオネルの意図が読めず戸惑ってはいたが、顔をあげて幾分の決意を込めて言った。
「いずれにせよ、お断りすることはできないわ。デュナンが侯爵家にご迷惑をおかけしたことは事実だし、それがなかったとしてもやはり、侯爵様のお申し出を断るなど無作法だもの」
エリアーヌの宣言にジールは難しい顔をしていたものの、承知した旨を伝えるしかなかった。
エリアーヌが結婚すれば、デュナン伯はその夫が名乗ることができる。ロバートからその地位を取り上げるかどうかはそれを名乗ることができるリオネル次第だが、デボラと共にデュナン邸を乗っ取るような男をリオネルは野放しにしないだろう。
幸いにもリオネルはエリアーヌを愛人として扱う気はないようで、それならば彼にデュナン伯を名乗ってもらえたら、デュナンにとってこれほど有り難いことはない。しかしラグランジュはすでに広い領地を持っているのに、さらにデュナン領を任されることになる。
やはりどう考えてもリオネルがエリアーヌとの結婚を言い出したその理由がつかめないエリアーヌであった。
急ごしらえのウエディングドレスとベールに身を包んだエリアーヌは、リオネルと共にデュナンの街の小さな教会を訪れていた。目的はもちろん、結婚式を挙げる為である。
参列者は伯母とジール、そしてリオネルの側近であるシリルの三人のみ。
結婚に夢を描いていたエリアーヌではなかったが、まるでやっつけ仕事のように済まされるとは思っていなかった。
「それでは誓いの口づけを」
神父の言葉でエリアーヌのベールはリオネルの手によって静かに上げられた。ふたりを隔てていた薄い布が無くなっただけなのに、エリアーヌは妙に落ち着かない気分となり、視線をさまよわせた。そのとき彼の指に先程交換した結婚指輪が光っているのが見え、ますます居心地が悪くなる。
リオネルはデュナン領を救う為にエリアーヌと結婚するのだ、ずっと領地の為の結婚を覚悟していたエリアーヌなのに、まさか夫となる男性にその理不尽を背負わせるとは思ってもみなかった。
リオネルへの罪悪感で視線を合わせることができないエリアーヌにリオネルが声をかけた。
「エリアーヌ」
呼びかけられ顔を上げたエリアーヌの頬にリオネルは手を添え、小さな囁きと触れるだけのキスをした。
『きっと君を守るから』
リオネルの優しさにエリアーヌはどう応えたらいいのか、全く思いつかなかった。
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