7.デュナン邸執事長ジールの話
リオネルの用意した侯爵家の馬車は四頭曳だけあって速く、午前の早い時間に侯爵邸を出発したとはいえ、昼を少し過ぎた頃にはもうデュナンの街に到着していた。エリアーヌはまず母オレリアの一番上の姉である伯母を訪ねた。
「あぁ、エリアーヌ。無事でよかったわ」
まだ馬車が止まりきらないうちに伯母が窓際に駆け寄ってきた。
「伯母様、どうしてそれを?」
「ラグランジュ侯爵様からお便りを頂いたのよ。デュナン家が大変なことになったけれど、エリアーヌの身柄は保護しているから安心していいって」
それを聞いてエリアーヌは目の前に座っているリオネルを見たが、彼は庭に見入っているようだった。この屋敷の庭園は素晴らしいと評判が良く、彼もその噂を耳にしたことがあるのだろう。エリアーヌの視線の先にリオネルの姿を認めた伯母はひどく驚いていた。
「まぁ、侯爵様がご同行くださるだなんて」
リオネルは帽子のつばを持って、軽く会釈をした。馬車が完全に止まったところでエリアーヌはリオネルのエスコートで馬車を降り、伯母としっかり抱き合った。
「無事でよかった、本当に」
伯母は彼女を抱きしめ満足そうに微笑んだ後、リオネルに向かって丁寧にお辞儀をした。
「この度はデュナンが御厄介をかけまして誠に申し訳ございません」
「いえ、領地が隣り合っているのですから、助け合うのは当然のことです」
「立ち話もなんですから、まずは中へどうぞ」
伯母の案内でサロンに落ち着いたところで、エリアーヌは屋敷での出来事とロバートがリオネルから金をだまし取ったことを話した。
「その返済にわたくしの持っている信託を当てます、ですが、それでも足りなければ、いくらか融通して頂きたいと思いまして、お願いにあがりました」
エリアーヌがそう言ったところでリオネルが口を開いた。
「その件でわたしから提案があります」
伯母はちらりとエリアーヌを見たが、彼女も初耳で伯母同様に驚くことしかできない。
「ご提案とは?」
伯母の問いにリオネルは少し瞑目し、それからエリアーヌを見据えて言った。
「エリアーヌ嬢さえ良ければ、わたしと結婚してはどうかと思うのだが」
「あ、あの」
突然のことにエリアーヌはどう返事をしていいか分からず、それ以上の言葉が出てこない。伯母は黙ってエリアーヌとリオネルの様子を見ていたが、そのタイミングで使用人が伯母のもとにやってきて、何やら耳打ちした。その報告を聞いた伯母はエリアーヌに向けて笑顔を見せた。
「エリアーヌ、ジールが来ましたよ」
「まぁ、ジールが?」
エリアーヌは思わず立ち上がって慌てて着席しようとするが、それを伯母が止めた。
「心配だったのでしょう?ジールもきっと同じだわ。さぁ、すぐに会ってらっしゃい」
そう言われてエリアーヌはリオネルに声をかけた。
「あの、我が家の執事長に会ってきてもよろしいでしょうか」
この部屋の中で一番高位なのは侯爵であるリオネルで、貴族は基本、高位の者の許可が無ければ退室することは許されない。エリアーヌから事前に話を聞いていたリオネルはもちろん許可した。
「あぁ、構わない。いっておいで」
その物言いはひどく優しく、エリアーヌは自然と笑顔になって、御前失礼致します、と美しいお辞儀を残して部屋を出ていった。
「さて」
部屋に残った伯母はそう言って、リオネルに向かい合った。
「お話しを聞かせて頂きましょうか」
伯母の言葉にリオネルは笑顔を見せ、
「もちろんです」
と応じた。
エリアーヌがメイドに案内された部屋にジールはいた。
「ジール!」
「申し訳ございません、お嬢様。わたしが屋敷を離れたばかりにこんなことに」
「いいのよ、とりあえずは無事だったんだもの。それよりデュナン邸になにが起こったのか、教えてほしいわ」
エリアーヌの言葉にジールは頷いた。
デボラ母娘がデュナン邸に住むようになってひと月が過ぎようという頃、メイドたちの休憩時間にジョアンヌが話題に上がることが増えてきた。ジョアンヌは屋敷に来た当初から、使用人の代わりにその仕事を率先してこなしていた。最初のうちはエリアーヌが注意して止めさせていたが、
「わたしは平民なので誰かになにかをやって頂くだなんて恐れ多くて」
と言い、エリアーヌも急に生活スタイルを変えることは難しいだろうと彼女の行動は大目に見ていた。
メイドたちは休憩時間にその仕事ぶりを褒めていた。
「ジョアンヌ様は仕事が丁寧で助かります」
「メイドの真似事で掃除をやりたがるお嬢様はいるけど、結局やり直さなきゃいけなくなるもんね」
「この前、少し具合が悪くて、でもジョアンヌ様が代わってくださったので助かりました」
ジールは基本的に、女達の会話は聞こえていても聞こえないふりをしている。自分は執事長で少なからず彼女らに緊張感を与える側だと理解しており、楽しい時間に水を差すこともないだろうと考えていたからであった。そのときも話には加わらず、窓際で紅茶を楽しみ、この話はここで終わりだと思っていた。
それからさらに半月ほど経ったある日、ジールはいつものようにエリアーヌと共に執務をしていた。
「お嬢様、こちらの資料はお持ちですか?」
ジールの質問にエリアーヌが答える。
「あぁ、ごめんなさい。それは昨日部屋で読んでいたの」
それはちょうどお茶の時間の出来事で、部屋にはその支度をしているメイドがいた。
エリアーヌはそのメイドに部屋から本を持ってくるように頼んだ。
「濃い緑色の本なの、ベッドサイドに置いてあると思うわ」
エリアーヌの私室から本を持って戻ってきたメイドは明らかに変な顔をしていた。
「どうしたの?なにかあって?」
「エリアーヌ様のお部屋にジョアンヌ様がいらっしゃいました」
それを聞いたエリアーヌはため息をつき、
「またなのね」
と言った。それをジールが聞きとがめる。
「また、とはどういう意味でしょうか」
「前にもあったの。わたしが部屋に入ったらジョアンヌがいて、お掃除をしたいと言うの。そういうことは使用人に任せなさいと言っても聞かないのよ」
エリアーヌの言葉にメイドが驚いた声をあげる。
「それは本当ですか?」
今度は問いただされたエリアーヌのほうが驚いた声をあげた。
「本当ってどういう意味なの?」
エリアーヌの問いにメイドはハッとして、
「いえ、出過ぎたことを言いました、申し訳ございません」
と小さな声で謝罪し、部屋を出ていった。エリアーヌは首をかしげたものの、やるべき仕事は多く、それきり話題にはしなかったが、ジールはそのやり取りに不穏なものを感じていた。
ジールがその日の夕食を終え、屋敷内の戸締まりを見回りしているときに昼間のメイドと出くわした。彼女はペコリと頭を下げ、立ち去ろうとしたが、それをジールが引き止めた。
「昼間の話を聞きたいのだが」
ジールが切り出すとメイドは、
「お話するようなことはなにも」
と言葉を濁している。
「ジョアンヌ様はお嬢様の部屋でなにをしていたんだい?」
ジールは努めて穏やかな口調で問いかけた。メイドはしばらく黙っていたが、やがてポツリと、泣いておられました、と言った。
「泣いていた?ジョアンヌ様が何故?」
ジールの疑問にメイドは言いにくそうに、
「その、お嬢様に叱られたと言ってました」
と告白した。ジールがそんなまさかと言うより早く、メイドは堰を切ったように話し出した。
「ジョアンヌ様はよく泣いておられます、わたしたちの見えないところでお嬢様にキツく当たられているようです。ジョアンヌ様はいつもわたしたちの仕事を代わってくださって、本当に心の優しい方なのに。愛人の娘とは言え、お嬢様とは本当の姉妹なのに」
「やめなさい」
ジールは強い口調でまだ言い足りないのであろうメイドを黙らせたあと、また穏やかな顔を見せた。
「それが本当のことなのかはわたしが調べましょう。それまでは口を噤んで、誰にも話をしないで欲しいな。お願いだよ?」
ジールは小さな子供に言い聞かせるようにゆっくりと言い、メイドは執事長からのお願い事に気を良くしたのか素直にうなずいた。
ジールは自室へと戻るメイドの後ろ姿を見送りながら、厄介なことになった、と考えていた。
ジョアンヌの言っていることが大嘘だというのは明白だ。エリアーヌは確かにデボラとジョアンヌのことをよく思っていないだろうが、話に聞いた程度の小さな嫌がらせをするような人物ではないと断言できる。エリアーヌが本当にふたりを気に入らないと思えば、正当な理由を付けて屋敷から追い出すくらいはやれるだろう。
エリアーヌはあのオレリアが手塩にかけて育てた後継者、父親の愛人とその娘の処遇など、いかようにもできるだけの才を持っている。
となるとジョアンヌもしくはデボラが吹聴しているのだろう。この屋敷で働いている使用人のほとんどは爵位を持たない平民だ。そしてデボラもジョアンヌも身分は未だに平民。平民のデボラが伯爵であるロバートの寵愛を受けており、それを妬んだ令嬢が虐めるというのは、如何にも平民が喜びそうな話題だ。
執事長であるジールが使用人たちに言い聞かせても、問題は深層に潜り、更に悪化するだろう。民衆は誰もが平民と貴族のロマンスを求めている。デボラとロバートはそれを具現化したカップルであり、完璧に演出する為に、エリアーヌという意地悪な貴族令嬢を必要としているのだ。
ジールはひとまずエリアーヌに警告をしておくべきだと判断したが、その日はもう遅く、翌朝、話をすることにした。
しかし、その夜、ジールはロバートから呼び出された。ロバートが、代々デュナンに執事として仕えてきたジールを煙たく思っていることはわかっていた。だから彼からの呼び出しを訝しくは思ったが、彼がデュナン伯爵である以上、逆らうことはできない。
「ロバート様、ジールでございます」
「入れ」
ジールの呼びかけにロバートは部屋の中から応じた。入室すると部屋にはロバートしか居らず、彼はソファに腰掛け酒を飲んでいた。
「お前に頼みたいことがある」
「なんでしょうか」
「王都の貴族院に行って、デュナン家の証書を持ち帰ってほしい」
貴族院に発行してもらう証書は正式な書類が必要な時に用意するもので、今、そのような書類を必要とする話はジールが知る限りはないはずだ。それともロバートが大きな商談でもまとめてきたというのだろうか。
「失礼ですが、用途をお伺いしてもよろしいでしょうか」
本来なら執事が主人に聞いていい内容ではない。しかし長く屋敷を不在にしていたロバートを信用できないというジールの心情はもっともで、それがわかっているロバートは少しの沈黙の後、理由を伝えた。
「エリアーヌには早々に縁談をまとめる必要があると思っている」
ロバートの言葉にジールは驚いた。エリアーヌが結婚したらデュナン伯爵の名は相手の男のものとなり、ロバートはお払い箱だ。彼がそれに抵抗するであろうと予測していたのに、その道を自ら模索していることは意外すぎた。
ジールの驚きの表情にロバートは苦笑する。
「なんだ、その顔は。俺は自分の立場をわかっているつもりだ」
「申し訳ございません」
ジールは素直に謝罪した、それはこの不躾な質問に対してだけではなく、ロバートへの不信感も込めての謝罪であった。
「大事な書状だ、長年デュナンに仕えてきたお前にしか頼めないことだ。引き受けてくれるか?」
ロバートの問いにジールは頭を垂れた。
「お引き受け致します」
デボラ母娘の言動は気掛かりではあったが、当のロバート本人にその気がないのだから問題は起こらない。ロバートの想いを受けたジールは翌日のまだ暗いうちに急ぎ、王都へと向かった。
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