10.侯爵夫人のエリアーヌ
前回は、慌ただしく訪問し、慌ただしく立ち去ったラグランジュ侯爵邸。今回は訪問ではなく帰宅だ。書類の上だけとはいえ、エリアーヌは間違いなくラグランジュ侯爵夫人であり、この屋敷の女主人なのだ。
その証拠に馬車から降りたエリアーヌを出迎えたのは、一列にずらりと並んだ使用人たちと、ラグランジュ侯爵そのひとであった。
「おかえりなさいませ、奥様」
「エリアーヌ、おかえり」
久しぶりに対面するリオネルは以前にも増して美しく、エリアーヌはその顔を直視することができなかった。
「ご無沙汰しております、侯爵様」
エリアーヌの挨拶にリオネルはわずかに頷き、彼女の手を取ると指先に口づけを落とした。
「疲れただろう?サロンにお茶を用意させてある」
リオネルはそう言ってメイドに目配せすると、居並ぶ使用人の中からふたりのメイドが前に出た。
「この者たちは君の専属のメイドだ」
「お初にお目にかかります、奥様のお世話を申しつかりました。よろしくおねがいします」
「こちらこそ、よろしくおねがいします」
「先に行っていて。シリルと話をしてから行く」
「わかりました」
ふたりのメイドに従い、サロンへと入ろうとしたエリアーヌの視界の端にジョアンヌがリオネルに駆け寄る姿が見えた。
「奥様、こちらへどうぞ」
「今、行きます」
声をかけられてエリアーヌは慌ててテーブルについた。
「お好みの茶葉はございますか?」
「そうね」
エリアーヌは返事をしたものの気もそぞろだった。理由はもちろん、先程のジョアンヌとリオネルだった。
リオネルからの便りには不自然なくらいジョアンヌのことが書かれていなかった。なにか粗相はしていないかと、最初の頃は尋ねていたエリアーヌだったが、ジョアンヌの様子についてだけは返事を貰えず、リオネルはその話題を避けたいのだと判断した。
それはジョアンヌの無作法がリオネルを辟易させているのだと考えていたが、先程の様子から察するに険悪な雰囲気ではなかった。そもそもエリアーヌとジョアンヌは姉妹だ。姉が来訪したのなら、妹もその出迎えに来てもおかしくはない。となると、リオネルが意図的にエリアーヌとジョアンヌの対面をさせなかったことになる。
何故、彼がそのような判断を下したのか。
「お待たせ」
「いえ」
気掛かりではあったがひとまず今は、リオネルとの対話に集中することにした。
翌朝、まだ明けやらぬ時間に目を覚ましてしまったエリアーヌはベッドから滑り降り、窓から見える庭園をカーテン越しに眺めていた。
今回与えられた部屋は女主人のそれであり、隣はリオネルの寝室。ふたつは部屋の中に備え付けられたドアでつながっている。リオネルとは夫婦なのだから、営みがあるのは当然だ。しかし、ふたりの婚姻はデュナン領を守る為の手段に過ぎない。
エリアーヌから見たリオネルは申し分のない美青年であり、漆黒の黒髪から覗くブルーグレーの瞳に見つめられると、それだけで顔が赤くなってしまう。しかしリオネルはエリアーヌより三つも年上で、もう社交界に出ている彼ならば、エリアーヌ程度の令嬢など、掃いて捨てるほど出会ってきているだろうし、想いを交わした令嬢もいたのかもしれない。
その一切を放棄させ、デビューもまだしていない小娘を正妻としなければならなかった彼の心の内はいかほどのものか。それを思うとエリアーヌは申し訳なさでいっぱいになって、彼に求められたら応じようと心に決めていた。
しかし結局、その扉が開くことはなく、エリアーヌはよく眠れないまま侯爵邸での初めての朝を迎えたのだった。
エリアーヌはため息をつき、日が昇り切る時間までもうひと眠りしようと再びベッドに潜り込んだ。
エリアーヌはデビューのためにと用意されたドレスに袖を通した。
「サイズはぴったりですね」
それはデビュタント恒例の白を基調としたドレスだった。
「アクセサリーはこちらをお使いください」
そう言ってメイドはエリアーヌの首にネックレスをつけた。使われている宝石はもちろんサファイヤでリオネルの色だ。
「とてもお似合いですわ」
「そう、かしら?」
彼とは結婚しているのだから彼の色を身につけるのはある種の義務であるのだが、エリアーヌはどうにも気恥ずかしく、落ち着かない気分になった。誉めそやすメイドたちの言葉にいたたまれなくなったエリアーヌは別の話題に移したくて、ジョアンヌのことを口にした。
「あの、ジョアンヌは皆さんにご迷惑をかけていませんか?」
するとメイドたちはエリアーヌの想像以上に驚き、そして困惑した。それでエリアーヌはやはりジョアンヌがなにかしでかしたのだと思い、
「ごめんなさい、あの子の代わりに謝罪します」
と、頭を下げた。それに慌てたメイドは口々に、
「おやめ下さい」
「奥様が謝ることではありません」
と言った。
「差し支えなければ、ジョアンヌはなにをしたのか、教えて頂けませんか?」
そう問われたメイドたちは顔を見合わせてから、
「申し訳ございません、旦那様から奥様のお耳には入れないよう言われておりますので」
と言った。
「せっかくお着替えになったのですから、旦那様にも見て頂きましょう」
「そうですね、そうなさいませ」
「必要ないわ」
メイドふたりは渋るエリアーヌをさっさと廊下に出すと、
「旦那様の執務室はすぐ上のお部屋ですわ」
「行ってらっしゃいませ」
と笑顔で見送る。エリアーヌは、必要ない、と言いかけて、ふたりの笑顔に言っても無駄だと察し、執務室へと向かった。この装いはリオネル自身が選んだのだとメイドは言っていた。こんな素敵な贈り物を頂いたのだから、お礼も言いたかったし、彼の反応を見てみたい気もした。
三階に上がるとちょうどジョアンヌが執務室から出てくるところだった。エリアーヌを見つけるとジョアンヌは悠々とした動作で近づいてくる。
「お久しぶりですね、お義姉様」
「そうね。あなたが元気そうで良かったわ」
エリアーヌの返事にジョアンヌは、ふふっ、と笑い、
「そう見えますか?」
と言い、ちらりと執務室に視線を送りながら、
「やっぱり満たされてるって分かってしまいますか?」
と続けた。
「どういう意味?」
「リオネル様はわたくしがお義姉様に会うことを禁じましたの、だから昨日もお出迎えさせてもらえませんでした」
「どうしてそんなことを」
「さぁ?でも悋気を起こされでもしたら面倒だからじゃないんですか?だから、わたくし、リオネル様に言いましたわ。お義姉様は本物の貴族令嬢ですから心配ありませんって」
そのあともジョアンヌはなにやら言っていたがエリアーヌの耳には入ってこなかった。
無反応になったエリアーヌをつまらなそうに眺めたジョアンヌは、いつの間に覚えたのか、エリアーヌでさえ美しいと思える動作でお辞儀をし、
「ご機嫌よう」
と悠々と去っていった。
エリアーヌはしばらくその場に立ちすくんでいたが、ふっと顔を上げ、くるりと踵を返すと与えられた部屋へと戻った。
エリアーヌが部屋に入るとメイドの二人が出迎えた。
「旦那様はなにかおっしゃいましたか?」
その問いにエリアーヌは美しい笑みを見せて、
「着替えを手伝ってくれる?」
とだけ言った。メイドたちはエリアーヌが照れているのだと思い、それ以上はなにも聞かず、エリアーヌもなにも言わなかった。
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