第七段 パラドックスの屍
男には夢があった。それは小説家になることだ。しかし、彼が自信作を書き上げたのは、ちょうどインターネットが消えた日で……。自分のために書いていたのか、評価されるために書いていたのか。男は葛藤し、矛盾の中へ落ちていく。
(執筆者:Neo)
男が目を覚ますと、カーテンの隙間から差す光が、漂う無数の埃を照らしているのが見えた。
男は眠い目を擦りながら、ソファから身体を起こす。まるで冬眠から目を覚ました熊のように、ゆっくりと伸びをする。
男は書斎にいた。
思い出したかのように机に目をやると、そこには既に封をした封筒が一つ、置いてあるのだった。それを見て、男の表情は少しほころぶ。
封の中には、昨日男が書き上げた小説の原稿が入っている。男にとってそれは、「自信作」と呼ぶべきものだった。
男はまだ無名のもの書きである。齢は二十七。小説家となるのが夢であった。
これまでに幾度となく新人賞に応募したが、その結果には辛酸を舐めてきた。
そろそろ夢を諦めた方がいいところまで来てしまったのだが、男はその土壇場になって、自分でも納得のいく作品を完成させたのである。
昨晩は怒濤の勢いで物語のラストを書き上げ、出来上がった原稿を封に納めてからは、寝室のベッドではなく、それよりももっと近く、机の側にあったソファに吸い込まれるようにして眠りについた。
男はこの作品を編集社に持ち込みに行くつもりだった。
編集社に電話をかけてアポを取る前に、男は用を足したり、髭を剃ったり、ブランチを食べたりした。
男はそうした朝のルーティンをいつも以上に丁寧にこなしていった。そして、出かけるでもないのに、服装も外出用の服に着替えた。
平生、男は清潔感の欠片もない見た目をしていたが、今日に限ってはそうして多少小綺麗になっていた。
男にとっては今回の作品が大一番であったから、気合いの入りようが違ったのだ。身なりを整えたからといって、作品の入賞確率が上がるというわけでもないのだが。
自分にとっての「自信作」は果たして人の心を動かせるのか、それともあっさりボツにされてしまうのか、底知れない緊張感が彼を支配していた。
さて、男が電話をかけると、電話はなかなか繋がらなかった。
しばらくして、繋がったのだが、男が「持ち込みをしたい」と申し出ると、編集者の男から予想外の答えが返ってきた。
「無理に決まってるでしょう、それどころじゃないんです」
(は…?)
男は一瞬固まってしまった。編集者が持ち込みを見てる場合じゃない?
一体どういうことだ。ならば編集の仕事とは一体何をするものなのだ。男は思った。
「どういうことですか?」
「どういうことも何も、今朝のニュースを見てないんですか?」
今の時代、ニュースなんて自分から見ようとしなくたって、勝手に目に飛び込んでくる。
何より、今朝の自分にニュースを見て、世の中の情勢に対し、あれやこれやと思案する心の余裕なんてあるはずがない。
「見てません。何かあったんですか?」男はテレビを点けながら編集者にきいた。
するとテレビに表示されたテロップを読み上げるかのように、編集者が答えた。
「世界中のネットが、まったく使えなくなったんですよ。」
にわかに信じがたい事態であった。
混乱する人々の様子がテレビにははっきりと映し出されている。
男は試しにパソコンの電源を入れたが、ネットワークにアクセスすることは出来なかった。
「たしかに、ネットが繋がらないです…」
男が混乱し黙り込んでいると、編集者は仕事に戻ろうと早口で言った。
「そういうことなんで、今はこっちも報道記事に人力を割かなきゃいけないんですよ。コミックとかノベルの編集、ましてや新人の対応をしている余裕は残念ながらありません。申し訳ないですが、事態が落ち着いてから、…落ち着くのかも分かりませんが…、そのとき改めてご連絡ください。」
ガチャッ…。男の返答を待たず、勢いよく電話は切られた。
男はしばらくその場でうずくまった。
男が我に返った頃には、太陽も位置を変え、カーテンから入り込む光は薄く、書斎は暗く沈んでいた。
作品はどれだけ足止めを食らうだろうか、世界は今どうなっているのだろうか、自分は何か動き出さないといけないのだろうか…。
考えなければならないことが多すぎて、男の思考は停止していた。ひとまず問題は置いておいて、男は水を飲みたいと思った。
どうやら水道は使えるようだ。
ひとまず一杯の水を飲み干し、深呼吸した。男は少しずつ冷静さを取り戻していった。
ネットが使えなくなった。
そのせいで自分の原稿は誰の目にも留まらなくなった。ニュースを見るかぎり、世界は大混乱に陥っているらしい。
だが幸いにも、私の家には常日頃から災害用の備蓄があるから、それほど焦って買い出しに行ったり、避難したりする必要はない。男は胸を撫でおろす。
状況を見つめ直し、彼は自分が持ち込むはずだった小説の内容を思い返した。
物語は他人の評価を恐れて、自分を殺しながら生きていた主人公が、自分らしく生きることの大切さに気付くという内容だ。
物語の終盤、主人公はよく見られようとする自分を捨てたことで、周囲の人間から後ろ指を指されることになる。
だが、そうした行動によって、主人公は自分にとって最も大事なものを守り切るという結びになっている。
勇気を出して自分らしくあることの素晴らしさを読者に感じさせられるような作品に仕上がった、男はそう自信を持っていた。
でも、そう思っているのが、今は自分だけであるから、早く誰かに評価してほしかった。
気づけば書斎は真っ暗闇になっていた。男は立ち上がり、明かりを点けようとした。
明かりのスイッチに手をかけたとき、男はふと思い至った。
「私は今、自己矛盾に陥っているのではないか?」と。
私の「自信作」、それは他人の評価など気にせず、自分らしくあるべきだという主張が、そもそも込められていたはずである。
それなのに私はなぜ、それを出版社に持ち込み、他人にその評価をしてもらおうなどと思っているのだろう?
そしてそれがどう評価されるのか、案じて止まないのだろう?
私がこの作品を「自信作」だと思うなら、この作品を誰かが面白いとか、つまらないとか言う必要がどこにある?
作品は「私の分身」だ。
私の行動は、それに反していても良いのだろうか?
作品はあくまで「作られたもの」であって、私が小説家になるための足がかり、感動を誘うための「建前」なのだろうか?
正しいのはどちらだ…?
男の中で、正義が揺らいだ瞬間だった。
闇が充満する部屋の中で、
男は肌を滑る汗のひんやりとした感触に、
身の毛もよだつような感覚を覚えた。
男は明かりを求めたが、点けようとした光は別の光だった。
私が欲しいのは、私を照らしてくれるような光じゃない。
私のことを消し去ってくれるような光だ。
男は何かから逃れるように庭に出た。
飛び出した男の手には原稿とライターがあった。
男は原稿に火を点けて放り投げた。
原稿は思いのほか宙を舞って、男の頭上を沢山の火の玉となって降り注いだ。
隕石が落ち、さながら世界が崩壊していくように男の目には映ったのだった。
原稿が燃焼し、灰と化すさまを、男はじっと眺めた。
男の目にはたしかに涙が浮かんでいた。
だが、男は笑っていた。
原稿が見るに堪えない姿になったのを見届けた頃には、空はうっすらと白んでいた。
男は残月を見て、理性を失っていく自分は、昔読んだ物語に出てくる、一人の男に似ていると思った。
「奇遇だなぁ…俺も今しがた、逃げ出したいと思ったところだ」
男はそうつぶやいて、
家を飛び出した。
それからというもの、男の姿を見た者はいない。