第二話 山脈への行軍
シエイエスの予告したその日。
レエティエムはダルダネスを出立した。二週間ほど前のあまりに苦い出来事を噛みしめながら、同じことを頭に浮かべる州王家と一部民衆に見送られて。
二週間前とは変化した情勢によって、レエティエムは望む限りの好条件を手にしていた。難儀な調整を伴うはずだったルーミスらハルマー勢との合流も果たした上での出立、軍勢のダルダネス常駐と自由な支援の確立、リザードグライドの使用認可。異邦の王と大切な仲間の犠牲が、全く図らずしてこのような好転をもたらした皮肉もまた、大いにレエティエムの面々の心を曇らせていたのだった。
そして決定したとおり、レジーナとキャダハム、ヘレスネルはダルダネスの治世補佐の為に残ることとなった。
すでに見慣れてしまった、途方もない量のアダマンタインで構成された金属の城塞都市。それを背にしてレエティエムは行軍する。徒歩、騎馬、馬車で800名あまりの軍勢が進み、譲り受けた10騎のリザードグライドを駆る先行部隊が斥候を努める形だ。
騎馬し隊列の先頭部で行軍していたレミオンは、普段の彼の様子とはかけはなれた考えに沈む様子で一人寡黙に目を落としていた。
そこへ、馬を寄せて話しかけてくる一騎がある。
「レミオン、どうした? 気分が優れないように見えるが、何かあったのか?」
軽装だが最高級の鎧に身を包んだ、将軍位の男性。見えはしないものの恐ろしく引き絞られた筋肉が全身を覆っているのが分かる、歴戦の戦士の様相だ。重ねた年齢を感じる精悍で骨太な容貌、蓄えた赤い口髭と顎髭、対照的に近年薄くなってきた事に対応してか坊主刈りにした赤毛であった。
貌を上げ彼に目を向けたレミオンは、微笑みを浮かべて言葉を返した。
「サッド様。お気遣いすみませんね。いえ、大丈夫ですよ。この前からちょっと考え事が多くて。いや、大したことじゃねえんですけどね」
ノスティラス皇国元帥にして最強の糸使い、大戦の功労者サッド・エンゲルスだった。ナユタの仲介でレエテとシエイエスの長年の友人となった彼は、レミオンのことも赤子の時から知っており気にかけていた。
「そうか、ならいいが。こちらに着いてから一度アシュヴィンとも言葉を交わす機会があったが、何やら別人のようになってしまっていたので心配でな。ロザリオンが世話になったようだったので、礼を云いたかったのだが……」
ロザリオンの名を口にして悲しみに貌を曇らせたサッドから、レミオンは神妙な面持ちで視線を外した。サッドの義兄弟レオンの遺児であるロザリオンは、子のいない彼にとっても娘同然だと度々聞かされていたからだ。
「ロザリオン様のことは……本当に残念でした。俺も一緒に戦ってながら……すみません」
「気持ちはありがたいが、お前が気に病む必要は全くない。あの子も剣士として覚悟あっての事だし、俺も覚悟はできていた。ダフネ殿の分も生きてほしかったが、後はヨシュアとアシュヴィンが継いでくれる。
レミオン。お前もエグゼキューショナーやらいう幹部を討ち取るなど活躍し、前線を任せるに足る戦士に成長したようだ。裏を返せば死と紙一重の場所に身を置くようになったということ。くれぐれも気をつけてな。シエイエス殿の悲しむ貌を見るのも、天国のレエテ殿が嘆かれるのも、俺にとってはいたたまれん」
反目する父と、神聖な母の名を聞いたレミオンは複雑な表情になりながらも言葉を返した。
「ありがとうございます。まあせいぜい気をつけるようにはしますよ……」
だが内心――レミオンの意識はある方向にも向いていた。
この方も、もしや“真正ハーミア”では。個人的感情に左右されず、客観的に疑い、小さな事実をも見逃さぬようにしなければ。このできればしたくない観察と洞察を、いかなる親密な相手でも欠かさないようにしてきたのだった。
*
山脈への入口。これから山道を往き、行軍が過酷さを増してくると見たシエイエスは、夕刻となったこともありこの場所で野営を張ることに決めた。
大隊クラスにあたるレエティエム軍勢が野営を張り終えると、テントだけで100近くの大規模となり、夕餉の支度も大所帯のにぎやかしいものとなった。交代で見張りを立てながらではあるが、あらかじめ斥候を立てたことで敵がいない担保が取れていることもあり、雰囲気もかなりリラックスしたものになった。
農耕牧羊地帯で海にも面し河川も持つダルダネスは、穀物・野菜・乳製品・肉・海鮮、あらゆる食材が豊富にあった。余裕をもった食料備蓄を背景に、まずは保存に向かない生食材を調理しようとここぞとばかりに料理人を兼ねる兵が腕を振った。
一流の料理の腕前を持つシェリーディアも、かつてレエテも舌鼓をうった野菜スープを寸胴でふるまい、ダルダネスで覚えた料理を即席で作るなどした。
またダルダネスの特産は麦酒であり、軍内の好酒家たちもその味に大いに満足した。 これらの報酬ともいうべき恩恵によって、久々に軍勢には大きな活気が戻っていたのだった。
レミオンは、やや隅の方の木陰に腰を降ろして一人麦酒をあおっていた。まだハルメニア大陸において成人とされる17歳に達していない彼は本来飲酒を許されてはいないが、札付きのワルである彼がそれを破ったのはもう2年以上前だ。
気になって周囲を見回すが、アシュヴィンとヨシュアの姿はどこにも見止められなかった。予想通り、こんな茶番に付き合えるかとばかりに二人で鍛錬に向かったのだろう。
そんなレミオンに声をかける、一人の女性。
「レミオン……久しぶりだ」
うっそりとした、あまり人間味を感じさせない小声。それが斜め後方から聞こえてきたことに肩をびくつかせながらも、レミオンはすでにその声の主が誰であるかを認識していた。
「イ……イシュタム。いつも云ってるけどよ、あんまびっくりさせんなよ。せめて正面から話しかけて来いって」
振り向いたレミオンの視線の先で、しゃがんだままにじり寄ってくるその女性。
とても美しく、可憐な容姿だ。身長は165cmほど。銀と朱色の軽装鎧の下は細く鍛えられた筋肉であることが見て取れ、大きくくびれた腰と程よく盛り上がった胸部と臀部は極めて魅力を放っている。燃えるような赤い髪は肩までの内側にカールするストレートで、前髪は眉に沿って横に流されている。白い肌、細面でまつ毛の長い貌は美しいのだが、一目見て分かる独特の昏さを漂わせているのが初見の人間をたじろがせる。
「私は――いつでもお前の側にいたいのだから、正面にいる訳には……いかない」
再び、腹から発しているのではないかと疑うほど低く昏い声で云う。
イシュタム・バルバリシア、18歳。ムウルの3人の妹のうちの末妹で、唯一の戦士。姿に似ず剛弓を身体の一部のごとく操る大陸一の弓手として名高い。
だが兄も手を焼く暗い執着気質であり、これまでに何人もの美男子に恋をし精神的にノイローゼとなるほど追いつめてきた経歴をもつ。現在は逞しい美男子に成長したレミオンに夢中であり、兄の権力と影響力も利用して接近してくるのだ。
「いつもながら、その愛情にゃ感謝してるしいい女なんだけどよ。お前はムウル兄貴の妹だし、俺には姉弟みてえなもんなんだ。わかってくれよ。
あと俺は、初めての生死のかかった戦争や、モーロック様の死で結構参ってる。今夜だけでも、そっとしておいてくれねえかなあ」
モーロックの名を引き合いに出すのは少々憚られたが悲しむ心は事実である。いずれにせよレミオンは最大限の拒絶をイシュタムに対して見せた。
ムウルの妹なのも気が引ける要因ではあるが、イシュタムは女好きのレミオンにしては珍しい極めて苦手なタイプであり、できるだけ関わり合いになりたくなかったのだ。
拒絶されたことに不満は示したが、やむを得ない事情と判断したのか、意外にあっさりとイシュタムは引き下がった。
「そういうことなら致し方ない……。私はずっと離れてお前を見ていることにする」
そう云ってイシュタムは暗殺者として卓越した技量で音もなくすり足で下がり、闇の中に溶け込んでいってしまった。
レミオンはそれを見て、肺の空気を全て排出する勢いで大きなため息をついた。
そこで油断した彼に――別の意味で衝撃を与える別の女性の声が反対側からかかったのだった。
「あら……? せっかくの美人のお誘いを無碍に断るだなんて、あなたらしくないわよね。
まあ、気持ちは分かるけれど。あの人の性格じゃあ、後がいろいろと怖そうだしね」
それは先刻までとは真逆に、レミオンにとってできることなら今一番側にいて欲しい女性の声であったからだ。
「エ……エルスリード。どうして……ここに?」
同じ紅い髪の女性ではあるが、夜の闇の中でもエルスリードの透き通るような美貌はレミオンにとってこの上なく輝いて見えた。
ひっそりと立つすらりとしたシルエット。その手にはアルコールではないであろう飲み物と、シェリーディアから支給されたダルダネス料理の皿があった。
「どうして……? 生まれたときから一緒だった幼馴染が、隣でお相伴して悪い理由でも、あるの……?」
レミオンは一も二もなくかぶりを振って、己の隣を空けた。
エルスリードはゆっくりと歩みよって、女性らしい横すわりでレミオンの隣に腰を降ろす。
「これ、一緒に食べない? すごくおいしいわよ。“バーガー”って云ったかしら? 牛と羊の合い挽き肉を焼いて、ソースや野菜と一緒にパンの間にはさんでるの。シェリーディア様の料理だからおいしいのもあるけれど、今まで食べたことのない感覚よ」
皿に盛った料理を半分にちぎって分け、レミオンに渡すエルスリード。その行為は子供の頃菓子を分け合った光景そのものといえばそうだが、お互い成長した現在では同じ気持ちで無邪気には受け取れない。女性の扱いに慣れたレミオンだが、予想もしなかったエルスリードが相手ではそうもいかなかった。
「お……おお、ありがとな……」
受け取った料理を、大口を開けてかぶりつくレミオン。それを確認し、エルスリードも口を開けてかぶりつき口元を動かす。
レミオンは味わった後で、破顔してエルスリードに云う。
「ほんとだ! こいつあ旨えな。なんてんだ、一口でもこんなに舌も腹も満足する食い物はそうそうねえ。この付け合わせの揚げた芋も最高に合うな」
「そうでしょ。私もこの身体が太ることがなかったら、ずっと食べ続けたいぐらい」
割と大きかった料理をペロリと平らげ、口周りを小さく舌なめずりするエルスリード。その様子に少し胸がざわつくのを隠すように、レミオンは視線を真正面に向けた。そこには――17歳の成人として大人たちに混じって麦酒の杯を手にし、赤ら貌で酔っぱらうエイツェルの姿があった。
「ハッ! 姉ちゃんいつもに増して出来上がってんな。酒は結構姉ちゃんも好きだし、何せこのダルダネスの麦酒、本当旨えもんな」
姉の様子を見てそこまで云って――。レミオンは、彼女とエルスリードの心の裡が理解できたように思えた。いつも以上に酔うのも、いつもは見せない無邪気さと饒舌さも、同じ理由に端を発しているのだ。
察したレミオンは、かなり躊躇しながらも、思い切って腕を伸ばし、エルスリードの肩を優しく抱いた。
「――!」
少し目を見開き、身体を一瞬震わせたエルスリードだったが、拒絶することはなかった。
むしろ――その所作に安心したかのように、身体の力が抜けてくる様子がレミオンに伝わってきた。
レミオンは目を細め、エイツェルの方を見ながらではあるが、エルスリードに小声で囁いた。
「……安心しろよ。
アシュヴィンの奴は……必ず俺たちの所に帰ってくる。
俺は、信じてる。お前もそうしろよ……」
「うん…………。
ありがとう…………」
短い応えではあったが、安心感を感じる言葉。
一言云うとエルスリードは、膝を抱えて腕に貌を伏せたのだった。