第三十二話 好敵手
「なあ、狼さんよ……」
「無駄口を、叩いている暇があるのカナ――!?」
「俺あ今最高の気分だぜ。ここまで全力を出せる、正々堂々やれる敵さんに巡り合えてよ――!!」
言葉を途切れさせ、ムウルはフィカシューの“牙撃”を受け流した。見上げるような結晶巨体の狼が、人間の“純戦闘種”もあわやというスピードで迫り、牙を変形させた水平剣――長さ3mの馬鹿げた巨大さだが――を浴びせかけてくるのだ。地上最硬の剣で斬り伏せてしまえばいいという問題ではなく、敵に物理的に押しつぶされないようにかわす必要があるのだ。ムウルほどの剣士でなければ、とうに身体を数等分にされるか、すり潰されて終わっているところだ。
受け流すも突進の余波で吹き飛ばされ、屋根を破壊しながら両脚を踏ん張り10mほどで留まったムウル。水平に構えた剣を背後に回して振りぬき、そのまま敵に向かって振っていった。
「こいつあ、どうだ!!!」
――フィカシューは、目を剥いた。敵のそれは先程と比べものにならない、超速の踏み込みだ。だがフィカシューも、同様に本気を出してはいない。ムウルが居た場所の屋根瓦が爆発的に吹き飛ぶのを視認すると同時に、フィカシューは牙撃を使用した迎撃態勢に入った。予備動作、瓦の飛ぶ方向、ムウルの剣筋、自分の急所に当たる部分を総合すれば、敵が狙うのは自分の狼の首であることは読んでいた。
――が、それでもかわし切ることはできない程敵の技は想定を上回り、半身ながらも自分の胴体を捉えた。迎撃を交錯させて十数m先に着地したフィカシューの身体には大きな亀裂が入り、それが大傷に姿を変えると同時に、大量の血を噴出させつつ巨体を大きく揺らがせた。
しかしながら、攻撃を終えて振りぬいた体勢のムウルの身体からも――血が噴き上がる。相討ちだった。脇腹から背中までを、フィカシューの神速の牙撃によってえぐられたのだ。大きなダメージと激痛で、ムウルは貌を歪めて膝を曲げたが、それが地に着くのだけは気力で阻止した。
「――やるじゃ、ねえか――お互い、本気が出たとこで相討ちたあな。てめえ、さてはエグゼキューショナーん中でも別格だな……? 少々当てが外れちまったみてえだ……」
ムウルの苦し気な声に、同じほどのダメージを感じさせながらフィカシューが言葉を返した。
「その言葉……そっくり返したい所だ。拙官は確かにアルケー麾下最強を自負するが……この手で屠れぬハルメニア人が貴殿のほかに多くない事を祈りたイナ……」
そう呻きつつも、うずくまった狼の巨体を早くも再生し始めているフィカシュー。今は相討ち状態でも、有利なのは彼だ。2分もあれば立ち上がるに十分な回復を遂げ、襲撃を再開できる。かたやムウルは取り出した止血膏で処置を施すが、背中まで塗布はできず、かつ回復の程度と要する時間がエグゼキューショナーとは比較にもならない。このままでは迎撃を敢行しても抵抗にすらならず、太刀打ちできないまま一撃の元に殺されるだろう。
距離をおいて戦闘中のメリュジーヌとモーロックの勝利を祈りつつ、合図を送るべく信号弾に手を伸ばしたムウル。が、その手が到達する前に――傷口に塩を塗りこまれるような強烈な「圧」を身体全体に感じて彼は悲鳴を上げた。
「ぐっ――はあああ!!!」
ムウルの後方で同じく「圧」を受けるフィカシューにはしかし、その刺激以外に別の事象が起きているようだった。狼の巨体の上にある彼の本体を起き上がらせ、ある一点を見つめながらフィカシューは大きく頷き返した。
念話が、送られているのだ。フィカシュー一人だけに。
「……承りました、アルケー。神はどうやら、この戦局の天秤を我らに傾けぬ。御身の元で体勢を整えましょうぞ。
ムウル・バルバリシア。できうるものなら貴殿の首を取って凱旋したいところであったが、その猶予はないようだ。拙官は一旦、退く。神が導けば、貴殿というまたとない好敵手と、いずれかの地で相まみえる事もあロウ」
フィカシューは、血が止まったばかりの状態の巨体に鞭打ち身体を大きくたわませた。そして極めて苦し気な表情で一気に跳躍した。屋根を衝撃で一瞬のうちに破壊し、全長5mにもなるその巨体は空高く舞い上がり、地上50mほどの地点と思われる塔の上に乗った。そしてまた跳躍――を2度繰り返した段階で、狼の姿は建造物の陰に隠れて見えなくなった。
傷をかばいつつ、大きな舌打ちをしながら、見逃された屈辱をかみしめるムウル。
自らの荒い息の音が入る耳に、別の音が背後からするのを感じていた。
すぐに――建物の下方から、人外の跳躍力で飛び上がってくる人影が、目に入る。
その人物を視認したムウルは――やや己の目を疑いつつも、一気に殺気を緩めて笑顔を作った。
「おい……おい……。何でお前がここに居るんだよ……?
お前はハルマーで謹慎中の身だったはずだろ……レミオンよ……」
そう、轟音とともに屋根に着地し、青い貌で自分に駆け寄ってくる男。銀髪褐色の、長身で逞しい少年は――。
まぎれもなく、ムウルの弟分といえる人物、レミオン・サタナエルに他ならなかった。
そして更に彼に続き、同行してきたと思しき姉エイツェル・サタナエルが、エルスリード・フェレーインを抱きあげつつ跳躍してきた。彼女らを含めた少年少女3人が、一斉にムウルに駆け寄る形になる。
「ムウル兄貴!!! 無事か!?
驚いたぜ!! 坑道から地上に上がるなり、でっけえ建物の上で兄貴が、狼のバケモンと剣でやりあってんのが見えるんだからよ。それも血い噴いてるなんて状態とくりゃあ、気が気じゃなかったぜ!
う……ひでえな、こいつあ……。すぐ、止血膏を塗る、貸してくれ!!」
「大変、ムウル様! レミオン、あたしがやるから貸して!!」
自分を介抱する弟分たちに身体を預け、ムウルは笑みをたたえながら云った。
「そうか、お前らが……来てくれたお陰で野郎は這う這うの体で逃げたって訳か……。
アルケーがお前らの魔力を感知し、野郎に帰還命令を与えたんだ。礼を云うぜ、レミオン。それにエイツェル、エルスリード。お前らは俺の命の恩人だぜ……」
自分の膝にムウルの身体を乗せ、レミオンは笑顔を返して云った。
「礼には及ばねえよ兄貴。俺なんざ兄貴にどんだけ窮地を救ってもらってきたかってんだよ。恩返ししきれねえ程によ。とにかく……無事でよかった」
ムウルの背に止血膏を処置するエイツェルから視線を外し、エルスリードは立ち上がって後方に目を向けた。ここへ上がってくる間に、彼女の目には入っていた。自分の魔導の師匠の一人でもあるメリュジーヌと、その恋人モーロックが激戦を繰り広げていたことを。そして、その相手を。
巨大なカラスの結晶体を持つ、怪物。自分たちが手も足も出なかった、エグゼキューショナーの一員ギガンテクロウ・テオスに相違なかった。
自分のミスもあるとはいえ、子供達の母親セレン・コルセアを手にかけ、大事なエイツェルとレミオンを傷つけた憎き相手。自分も加勢しなければと思ったのだ。
しかし――。数歩前に踏み出したところで、エルスリードの目前で決着はついた。
テオスの巨躯は、モーロックの強撃によって脳天から真っ二つにされたのだった。
自分の手では成しえなかったが、尊敬する先達、仲間の手で悪魔が成敗されたことで――エルスリードは溜飲を下げた。
そしてリザードグライドに乗るメリュジーヌとモーロックが、こちらに向かってくるのを雷撃の光で誘導し、不安定な屋根の上で足を取られながらも彼女らを出迎えたのだった。
「メリュジーヌ様、モーロック様!! お見事な戦いでした」
「おー!!♬ エルちゃんじゃん!!! 来てくれて嬉しーけど、あんたハルマーに帰ったんじゃなかった? 何でここにいんの? エッちゃんと……あー『あいつ』も、来てるのか……」
「宿敵」レミオンの姿を見て貌をしかめるメリュジーヌに代わり、モーロックが尋ねる。
「何にせよあなたらが無事でいてくれて良かった、エルスリード様。ムウルは大丈夫なんか? あれだけ強い剣士のあいつが、結構な苦戦しとったようじゃが」
エルスリードは頷きながら言葉を返した。
「はい、お命に別条はありません。ですがかなりの深手を負っておいでです。内臓もかなりの損傷があるかもしれなくて――おそらく法力の力を借りなければすぐの回復は難しいかと」
「むう、そうか……。戦線離脱やむなしとなるなら、誰か警護し介抱するモンが必要じゃな……。
そういう意味では、今あなた方が来てくれたんは天の思し召しかもしれん。
どのみちおれらは直ぐに、地下に行っとるロザリオンと合流せにゃならん。そこでアシュヴィンを救出し、あいつにも残ってもらわねばならんのお」
アシュヴィンの名を耳にし、エルスリードの表情は目に見えて明るくなった。
「アシュヴィン? アシュヴィンは今無事で、ここに居るんですか? ……え、『救出』?」
その目線を向けられたメリュジーヌとモーロックの表情は険しかった。
「うん、そう……無事、とは信じてるんだけどねえ……。状況は決して良くないのよ、エルちゃん。
アシュちゃんは今、ここダルダネスの州王家の連中なんてのとつるんで、“ネト=マニトゥ”って云われてる子供達を救出してるらしくてね。間違いなく敵に囲まれてて、しかもあたし達やムウルが出会わなかったってことは、あの――アルケーがアシュちゃんの所に向かってる可能性が高いんだよ……」
貌色を天から地までに激変させ、動揺をにじませたエルスリードが震え声で云う。
「そんな……大変……!! すぐに、行かないと。
……私も……私も、同行します。ムウル様を二人に任せて、私たちはすぐに地下に向かいましょう!」
それに言葉を返そうとしたメリュジーヌだったが、不意に感じた強大な「魔力」に表情を硬くして急激にその方向に貌を向けた。同じく気づいたエルスリードも。
それは――彼女と離れた場所にいたエイツェルも全く同様の反応を見せた。
その時点で、音でも分かった。長く柔軟性のあるもので身体を支え、空中を移動して近づいてくる事のできる、そんな人間なのだ。ここへ近づいてきているのは。その為に、強大極まりない魔導を駆使している、そんなことができる怪物的な存在なのだ。
やがて、彼ら全員が居る収容所の大屋根の鉄塔に、長い漆黒の鞭が巻き付いた。
さらに、隣の鉄塔に白蛇のような長尺の物体が巻き付き、それを巻き取るようにして近づいてくる、一人の男。
それは――長尺の物体、すなわち髪の毛の持ち主である、すでにトレードマークである眼鏡も付けた黒革黒衣の壮年の男。
今行動の選択に窮するレエティエム一同にとって、ある意味最も存在を欲する人物である、その男。
総司令官シエイエス・フォルズに、他ならなかった。