第二十六話 暴虐の打壊【★挿絵有】
腰に手を当て、力を抜いたしなやかなポーズで立つティセ=ファル。宮廷の宴の場であるように優雅なたたずまいのその様子は、彼女の周囲を覆いつくす目に見えない、暴風のごとき魔力の様相と激しく乖離していた。
アシュヴィンの中では、アルセウス城前広場で彼女に遭遇した時に受けた、心臓を握りつぶされるようなプレッシャーが再現されていた。現在はその時と異なり距離は恐ろしく近く、そして敵は――臨戦態勢だ。
ティセ=ファルが、そっと一歩を踏み出した。この小さな女性のただ一歩の圧力で、アシュヴィンは不覚にも数歩後方へ下がった。怖い。圧倒的な恐怖に貌は青ざめ身体は震える。
隣で同じ心中と思われたディーネだったが、ぐっと歯をかみしめた後、感情のこもった言葉を発し始めた。おそらく長い間心に押しとどめていただろう思いのたけを、一気に吐き出すように。
「ティセ……姉さん。ボクがこういう行動に出たのは、姉さんと真剣に話をし目を覚ましてもらうためだ。
ボクらは家を滅ぼされ人質をとられ、やむなく“ケルビム”の軍門に下った。仇を相手に戦うこともできず、従わざるを得なかった屈辱。姉さんは泣きながら、彼らへの怒りをボクに話してくれたよね。そして――必ず一緒にアケロンに帰ろう。そう云っていたよね。
今の姉さんの胸の中には、その時の思いは少しでも残っているんだろウカ?」
「……」
「今の姉さんは、冷酷非情な紛れもない“ケルビム”の手先だ。そうとしか、見えない。その目が濁り、道を違えたとしか。姉さんの今の本心を聞かせてほしいンダ」
「……なにゆえ、今だ? そなたが内心ずっとそのように思っていたなら、なぜもっと早くわらわを説得するなり、逆らったりせなンダ?」
「失敗するのが明白だったから。今は違う。ハルメニア人という強い勢力が現れ、“ケルビム”の絶対勢力図を崩しつつある。アンネローゼはここにいる少年の手で倒され、先ほど――ザンダーも討たれたとの報告があった。銀髪褐色一族の少年少女の手によっテネ」
アシュヴィンは驚愕した。ザンダーなるエグゼキューショナーを倒した「少年少女」は、その情報からすればレミオンとエイツェルだ。驚きの後に、安堵が訪れた。彼らを殺したというギガンテクロウの言葉はアキナスの云うとおり虚言だった。そして勝利したのなら、きっと一緒にいるエルスリードも無事だ。彼の目に光明が差した。
「……ほう、ザンダーが。あの頑丈が取り柄の男を殺し切るとは、やりおルナ」
「卑怯と罵ってもらって構わない、これで良く分かったろう。“ケルビム”の力は絶対ではないんだ。そしてその道が道理に反している証明として、そこにいる州王家の人々をはじめとして州民の大半は“ケルビム”を憎んでいる。
姉さんは――かつて“アケロンの輝姫”と呼ばれた、女神のような人だったはずだ。ボクもどれだけ恩義を受けたかわからないし――姉さんをこの世の誰より愛している。他の人間がどうなっても構わなかった。このただ一度の機会を、元の優しい姉さんを取り戻すために、知恵を絞り犠牲を厭わず待ち続けたンダ」
ディーネは必死だった。ついに涙を流し、エグゼキューショナーの巨体を折って身体を下げ、可能な限り姉に近づいて手を伸ばした。
「お願いだ……姉さん。目を覚まして。ボクと一緒に、すべてを捨てて道を正して……。
『あの男』――“ドミニオン”は、確かに姉さんに良くしてくれたかもしれないが、姉さんの力を得、“アルケー”に据えることが彼の最大の目的。彼は姉さんを愛している訳デハ――」
“ドミニオン”、の名がディーネの口から出た瞬間。
ティセ=ファルの形相は、あまりにも急激に、変化した。
歯を見せ目を剥く、「怒り」の形相に。
そして彼女の姿が一瞬、水面の波紋のように歪んだかと思うと。
魔導の奔流は突如、濁流のようにディーネに襲い掛かったのだ!
「――姉――!!!」
その状況を、予測していなかった訳ではない、ディーネ。
彼女は恐るべきスピードで背後から白結晶の翼を出現させ、自らの身を覆い包み隠す様に展開。同時に全身全霊の耐魔を張り巡らせた。
そこへ――。辿り着く、“打壊魔導”と呼ばれるティセ=ファルの技。
凄まじい音が、響いた。グシャアッ! という「硬いもので柔らかい物をすり潰す音」が最も近い。それが大音量で、絶え間ない連続で放出され続けるのだ。
アシュヴィンが見たものはまず、瞬間的に展開された目の錯覚としか思えない、巨大結晶翼が上下方向にぺしゃんこに潰される様子。そしてそこから噴き上がる、大量のディーネの血。こちらも強力な耐魔をもって魔導の方向を若干そらし、左側の翼を死守したディーネ。そして右側の潰れた翼が引き寄せられ、さらなる打壊によって破壊されるディーネの右結晶半身、大きく身体をぐらつかせる白いドラゴンの巨体。一連の攻撃が終了するまでの一瞬の場面が、矢継ぎ早に展開されたのだ。
「あああっ!!! ぐっうううううううーーーー!!!! ううううぐうウウ!!!」
そして最後に目に入ったのは、激痛に耐え兼ね叫びを上げる、ディーネの痛々しい表情だった。
「ディーネっ!!!!」
思わず必死に叫んだアシュヴィンの目前で、女神から修羅の様相に変化したティセ=ファルは、ディーネを見上げ睨み据えた。その白髪にも、豪奢なケープにも妹が流した大量の血が降り注ぎ、身震いするほどの壮絶なる姿へ変貌を遂げていた。
「『あの方』のことを――知った風に口にするな!!! そなたごときに、何がわかる!!!
レアモンデ様は、わらわの、光だ。
あの方が闇に足掻く妾を救い、引き上げ、そして『愛してくれた』からこそ――わらわは死を選ぶことなくこうして生きることができておるのだ。
心から失望したぞ、ディーネ。そなたはわらわの目が濁り、道を違えたという。だがわらわに云わせれば、目が濁っておるのはそなただ。
“ケルビム”の勢力図が、崩れただと? 笑わせてくれる。エグゼキューショナーごときの頭数が減ったところで、何だというのだ。戦とはな、総力の優劣なのだ。ハルメニアなぞの有象無象がいくら頭数を揃えようが、このティセ=ファルの足元にも及ばぬ。わらわは“ケルビム”の、レアモンデ様の理想に従う。その決意は誰から何を云われようと、揺らぐことは決してない。――このようニナ!!!」
叫ぶや否や、ティセ=ファルは打壊魔導を再び発動した。
今度は――宣言通り、組織“ケルビム”に仇なす存在への攻撃であった。
あまりに濃密で爆発的な魔導の奔流が2つ。一つは、フェリスとハロランの州王家騎士へ。そして今一つはアシュヴィンへ。
「う……あ……!」
アシュヴィンは耐魔を張ったが、エグゼキューショナーでも上位に位置するらしい実力者のディーネですら瀕死の重傷を受けた攻撃だ。ディーネは半不死の身体だがアシュヴィンは通常人の肉体。受けるもしくは受け流すという選択肢はなく、回避のみが唯一生き残る道。
打壊魔導は馬鹿げたエネルギー量をもって、直径5mほどにもなる恐るべき攻撃範囲を誇っていた。アシュヴィンの敏捷性ならば、冷静に対処すればギリギリ避けられる攻撃であるはずだが、彼は恐怖で足が竦んだ。経験の浅い少年としての限界もあるが、これまでとも比較にならない死のプレッシャーが、アシュヴィンの対処を完全に遅らせたのだ。
目前に迫る、巨大な圧搾エネルギー。死に方としては、死体も残らない最低のものだ。遅れて動作した彼は、己を殺すその魔導を現実感のないぼんやりとした視線で見たが――。
「アシュヴィン!!!! こちらを向け!!!!!」
――突如の、聞き覚えのある必死の声。敵と垂直であるその方向、斜め上方を見たアシュヴィンの前に、巨大な「光の刃」が迫った。
「ぐあっ!!!!」
光の刃――“氣刃”を、すでに張っていた耐魔を帯びた剣の面でガードしたアシュヴィン。彼の身体は衝撃を受けて弾き飛ばされ、打壊魔導の線上から外れ回避に成功。魔導は壁に到達し、恐るべき咀嚼音を立てて壁を圧縮・消滅させて消えた。
驚愕する彼の視線の先、天井に近いテラスの上でブレード“神閃”を抜き放って氣刃を撃ち、窮地を救ったのはもちろん――。
「ロ――ロザリオン様!!!」