第五話 天使の羽を広げし悪魔
ティセ=ファルは群衆が静まるのを待って言葉を続けた。
(ところで、先日この場でもお話した、「他大陸からの侵略者」の件であるが……。
どうやらイスケルパ大陸ではなく、渡航のなかったあのハルメニア大陸からの軍勢であるらしきことが判明シタ)
アシュヴィンは身体を震わせて、周囲を見渡した。自分達に疑いを持っている者は誰もいないが、感じられたのは――。得体の知れない異大陸からの不気味な魔手、に対する恐怖であった。それは“ケルビム”に対するものよりもさえ、強いものに感じられた。
(彼らハルメニア軍は我が軍勢に問答無用で襲いかかり、このダルダネスにも魔の手を伸ばそうと狙いを定めておる。
彼らは武装した戦闘者であり、魔導も法力も操り――中にはかの、“銀髪褐色肌”の一族も紛れており、結晶武装で幾人もの我が兵達を殺害シタ)
群衆がどよめく。「敵」の勢力に対する恐怖。ことに――“銀髪褐色肌”の一族という言葉を受けた群衆の動揺が手に取るように伝わり、アシュヴィンは衝撃と悲しみを感じた。この異大陸でもなお――サタナエル一族は忌むべき恐怖の対象なのか。宿命は変わることがないのか。
ただしエグゼキューショナーを斃したことは、伏せられていた。民衆の憎悪を一身に背負う悪を斃したことが知れれば、ハルメニア勢力を英雄視する者も出る。そう危惧してのことであろう。彼らをしのぐ悪に、ハルメニア勢力を仕立て上げたい意図が見え隠れした。
(このダルダネス内にも、すでに潜入している可能性がある。聞いたことのない奇妙な言葉遣いで話す者、おかしな所作をする者があれば、すぐに衛兵・憲兵に報告せよ。敵の首級につながる情報を提供した者には、ダルダネス上級官民の生活を保証し、かつ1000万ダラスを授ける。我がダルダネスの、レムゴールの平和に寄与する偉大な働きを、わらわは期待する。以上である。ご清聴、感謝スル)
思わぬ至高の報酬に気勢を上げる群衆に向けて、言葉を区切り手を振るティセ=ファル。
その視線が、不意に――。
アシュヴィンのそれと、合った。
「――あ――」
アシュヴィンは思わず、胸と喉をかきむしった。一瞬、息ができなかった。
蛇に睨まれた、蛙――。その意識を、感じた。また同時に射るような不思議な魅力を放つ眼光に、周囲の時が止まるのではないかという程に心を射抜かれた。
ティセ=ファルは数秒間、アシュヴィンから目を離さなかった。そしてようやく彼女が踵を返し、奥へ退出した瞬間、アシュヴィンは身体を折って荒い息を吐いた。背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
隣のアキナスを見ると――。彼女は何と、脚をガクガクと震わせていた。胸を掻き抱き、青ざめた貌でブツブツと呟きを発していた。
「ありえ――ねえ。何万人もに同時に、あれだけはっきりと念話を送りやがった、だと? しかもその間、バカみてえに分厚い“障壁”を一瞬たりとも絶やさなかった、だと?
バケモンだ、本当に、バケモンだ……! もしかしたら……もしかしたら……お、お師匠……よりも……」
アシュヴィンはアキナスに駆け寄り、肩を掴んで揺さぶった。
「アキナスさん、しっかりしてください!!」
我に帰ったアキナスは、緊迫を貼り付けた眼光でアシュヴィンを見返し、云った。
「想像以上に、マズイ事態だぜ、アシュヴィン……! すぐに、ムウル様達の元に戻る必要がある。もう……もう、アタイら6人が総掛かりでも、手に負えやしねえ。エグゼキューショナーごときの実力を基準にしてたのが、間違いだった。奴らなんざ、雑魚もいいとこだ。今ここのどこかにいるかも知れねえシエイエス様、これから駆けつけてくれるシェリーディア様が居てくれて、どうか……。ラウニィー様の力も必要かもしれねえ。総力戦だ。障壁を感知して、あのバケモンの魔導の種類も、知れた。恐ろしい力だ……。それにさっきのあいつの懸賞金の効果で、職人の爺さんも心変わりしちまうだろう。すぐに、ここを脱出しねえと!!」
そして凄い力で自分の腕を引っ張るアキナスに続き、アシュヴィンはアルセウス城広場を後にしていったのだった――。
*
アルセウス城内に戻ったティセ=ファルは、一つため息をついた。
そこへ、瀟洒な貴族服を身にまとった中年男性二名が近づいてきた。手もみをしかねないほどの媚びた様子で、そのうちの白髪まじりの男性の方がティセ=ファルに話しかける。
「相変わらず、お見事な演説にございますな、アルケー。かつての我が粗王、マレイセンなど足元にもおよばぬ手腕、このガユスを始めダルダネスの民すべてが毎度のごとく心奪われておりマス」
ティセ=ファルは男性の方を見ることもなく、無感情に答えた。
「そなたはマレイセンの前でも同様に、『フォーマ・ギブスンなど足元にもおよびませぬ』などと申していたのであろうな、ガユス。
丁度良い。そなたの祖国の民、軍属に即時命じたきことがある。先ほどのハルメニア侵略者の件デナ」
“ケルビム”に降ったダルダネス州王家の旧臣ガユス、その隣の禿頭の同じく旧臣ランジェラは深々と頭を下げた。
「何なりとお申し付けくだされますよう、我ガ主ヨ」
「先ほどの群衆の中に、ハルメニアの間者が二名、居た。男と、女だ。場所は旧税庁舎の前ほど。変装し、魔力を抑えておったようだが、このティセ=ファルの目は誤魔化せぬ。フュークス街路を城門に向けて走っていったようであるゆえ、すぐに追跡さセヨ」
ガユスは貌を上げ、返答した。
「畏まりましてございます。ランジェラ、すぐにアルケーの思し召し通りに。
それにしてもご婦人としてご決断可能な範囲もございましょうが……アルケーほどのお方であれば、バルコニーから直接その狼藉者を仕留めることも、群衆に告げて捕縛させることも可能でございましたでしょうに。なにゆえそのようになされなかったのでしょウカ?」
歩み去ろうとしていたティセ=ファルの脚が、突如止まった。
同時に、ランジェラの貌が恐怖に凍った。
「ガ――ガユス……!」
ガユスもすぐに、己の致命的失言に気づいたのか、極限の恐怖とともに、その場にひれ伏そうとした。
「ア、アルケー――どウカ――」
その願いも、動作も、無情にも中断された。
暴虐そのもののの、力で。
空間が、不自然に、歪んだ。円形に映し出された水面のようにガユスの姿が歪んだ一瞬の像、グシャッ! という嫌な音と同時に――。
彼の姿は、前後に「叩き潰された蚊」のように平らで真っ赤な肉板に変貌した後、間髪入れぬ上下左右同時の暴虐的圧力によってさらなる小さな肉塊になった。そのまま弱まることのない力に圧縮され続け、彼の細胞は霧散、もしくは消滅していった。
1秒とはかからぬ、惨劇。消滅した同僚の、空中にぶちまけられた大量の血液と臓腑の残滓を全身に浴びながら、ランジェラは恥も外聞もない恐怖の叫びを上げた。
「ヒッ、ヒッ!!!! ヒイイイイイ!!!!! ヒイヤアアアアアアアーーーー!!!!!」
「そなたのごとき無知なる痴れ者に、女だからと愚か者扱いさるるは、わらわにとって最も耐え難きこと。この世から消滅せし結果こそ、無価値なる者に相応しい。『紅玉を呑す豚は、肉ともならざるべし』。
わらわがあの場で奴らに手を下すなり捕獲を命じれば、民に対する光の存在としてのわらわの価値に陰りが生ずる。手を汚すのはわらわでない、そなたらでなければならぬのだ。その程度の事も解せぬとは。
分かったらすぐに動くが良い、ランジェラ。わらわを害そうなどという不届き者どもを捕縛する為ニナ」
云いおいて、ティセ=ファルは城内奥に向けてヒールの音を響かせていった。
一貫して、周囲に一切の関心も、視線も投げかけることすらなく――。