第二話 悪の種子
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そこは懐かしい、緑の地だった。
ハルメニア大陸で最も危険なジャングル。だが彼にとっては、出生の地であり故郷だった。
100mの大樹で埋め尽くされる秘境の中、カルバネラの樹で構成される安住の地。
“家”だ。
彼は、密集した枝でできた壁の中にある空間の中で、一人テーブルに向かい本を読んでいた。
彼の9歳という年齢にそぐわない、難解な哲学書だ。
めくる際に持ち上げた表紙で、そのタイトルが見えた。「我思う、ゆえに我あり」。そう、書かれていた。
時々目の端にかかる長い金髪をかき上げながら、必死で紙面に目をこらし読み込もうとする彼。
その彼に、背後から言葉がかかった。
「アシュヴィン。まだ、本を読んでいたのね。
そんな難しい本を読めるなんて、すごいわ。あなたはとても賢い子だし、将来はきっと偉い学者さんになれるわよ」
彼、アシュヴィンが振り返った先には、彼が母親に次いで尊敬する偉大な女性がいた。身体を前かがみにして上からアシュヴィンを覗きこんでいたのだ。
何度見ても、吸い込まれそうな絶世の美貌。褐色の肌、長い白銀の髪。アシュヴィンを見つめる深い深い金色の瞳。“血の戦女神”レエテ・サタナエルであった。
アシュヴィンはその貌を見てはにかむような笑顔を見せ、答えた。
「あ、ありがとう、レエテおばさん……。面白いからずっとよんではいるんだけどぼく、やっぱり半分もりかいできないや」
「いいのよ、それで。そういう勉強熱心なところとか、真面目で賢いところがあなたの良いところだから。あなたのお父様も、道を間違ってはしまったけれどそういう所はあなたと同じだったわ。受け継いでくれてシェリーディアも喜んでいるし、鼻が高いそうよ」
愛する母親からの褒め言葉を間接的にとはいえ聞き、アシュヴィンはさらなる笑みを抑えきれなかった。が、すぐにレエテに向き直り、おずおずと尋ねた。
「お父さんは……すごい人だけどとても、わるい人、だったんでしょ? レエテおばさんをころそうとしたり、たくさんの人をころしたりじっけんしたり。この前もまた、いわれたんだ、“あくまの子”って……。
ぼくも……今はそうじゃなかったとしても……おとなになったら、あくまみたいな、わるい人になるのかな……? レミオンやエイツェル、エルスリードをころそうとしたり、しちゃうのかな……?」
それを聞いたレエテの貌からは瞬時に笑みが消えた。そして即座にアシュヴィンと同じ目線までかがんだ上、彼の肩に手を置いて自分に向き直らせた。
「アシュヴィン。それは絶対に、ないわ。絶対に。あなたは今もこれからも、愛情のある正しい、素晴らしい子なのよ。決して間違いなんて犯さないのよ。“悪魔の子”なんかじゃ絶対に、ない。
あなたのお父様ダレン=ジョスパンはね……。悪い行いをしてしまったけれど、本当はとてもとても純粋で一途で、愛情の深い人だったの。昔の周りの人たちが、お父様にひどいことをして悪い人にしてしまったの。
死ぬ時までシェリーディアや、オファニミス叔母様や、子供のあなたのことだけは愛しぬいてくれたのよ、お父様は。そのことは決して忘れないで」
「ほんとう……ほんとうに……?」
「ええ、本当よ。今まで私があなたに、嘘をついたことがあったかしら? お父様だけじゃない。あなたはシェリーディアという愛情の塊のような人の息子でもあるのよ。自分を信じて。少なくとも私はあなたをとても誇りに思ってる。決して、迷わないで――――」
*
「――アシュヴィン! おい、アシュヴィン! どうしたんだよ、しっかりするんだよ!」
――横合いからかかる、小声だが強い調子の呼び声に、アシュヴィンは我に返った。
「アキナス――さん?」
声をかけた女性、アキナス。艶やかな魔導衣を隠し、今はボロボロの農婦服と頭巾を身に着け、全く別人の装いだ。その美貌も黒い泥だらけになり、見る影もない。
「アキナスさん、じゃねえよ。急にボーッとしやがって。ここはもう完全に『敵地内』なんだぜ。下手をうてばオメーもアタイも命の保証はねえ。頼むから気を張ってくれよ」
「す、すみません……」
強い不安から、つい現実逃避をし思い出にふけってしまっていたようだ。
だが潜在意識の中で持っていたある不安が、その思い出ともリンクし、強い想念となって襲いかかってきた。
アシュヴィンは目の下で両掌を広げた。
自分自身も今、農夫の衣装に身を包んでいる。剣の鍛錬でマメだらけになっているその両手も、自分でそうしたとはいえ泥だらけだ。
(僕は――未だに確信が持てていないんだよ、レエテ小母さん。
あなたは僕の中に悪魔の血はないと云ってくれたけど、僕の祖母ナジード・エストガレスはサタナエルの、本当の悪人だった。そして父さんを虐げた周囲の悪人の多くは、エストガレス王家の一族だった。成長してからそうだと知った。この手に、僕の中に、実際には悪魔の血が流れていないわけじゃない。
これだけの血みどろの戦いの中で、僕の中の危険な『何か』が、目覚めない保証はどこにもない。血に飢え、いたずらに人を殺すだけじゃなく、これからさらなる血を流そうとする“真正ハーミア”の裏切り者にも、加担するような可能性だってない訳じゃない。何か歯車が狂えば、僕だって父さんのように、狂信に取り憑かれて罪を犯してしまうかもしれない。そんな思いが拭いきれないんだ――)
手から目を上げたアシュヴィンの目前に、それはもう迫っていた。
『城壁』だ。
鈍色の金属――加工されたアダマンタインで出来ている現世最硬の壁。あまりにも高く高くそびえ立つダルダネスの城壁が、天から覆いかぶさるように迫っていたのだ。
アシュヴィンとアキナスは、その城壁に構えられた『城門』に続く、長い長い行列に、並んでいたのだ。
事前にアキナスが農民から聞き出した情報によれば、彼らは農場の使役の主な担い手だが、定期的に城内入門の許可と、城内市場での買い出しが許されている。そこに紛れ内部に潜入し――。情報収集を行うのが二人に課せられた任務であった。
長く感じられた、実際には短い待ち時間のあと、アシュヴィンとアキナスには番兵らしき兵士に尋問を受ける順番が回ってきた。
「次、貴様らだ!! 貴様らハ何者ダ!!!」
威圧的で事務的、簡潔な問いを受けたアキナスは、即座に怯えたような様子を作ってこれに答えた。
「は、はい! すいませんです!! わ、わたしはリニー・カーチスって者で、こちらは弟のアリーです! 南西のウェアバンクス農場でやらせてもらってまして、今日はようやっと、一ヶ月ぶりの買い出しになるんです!! どうか、どうか中に入れてください!! ほらお前も、ちゃんとあいさつせナア!!!」
そう云って隣のアシュヴィンの頭を押さえつけて無理やり下げさせる。アシュヴィンはもごもごと、下を向きながら言葉を発した。
「は、はぃ……! ど、どうかよろしく、お願えしマスゥ……!!」
両者とも、あまりに朴訥とした、しかも完璧に近いレムゴール訛り。実在する農民の姉弟を捕え食料で懐柔しなりすましたその演技は、厳しい目で彼らを監視する番兵をもってしても何ら疑いを持たせないレベルのものであったようだ。番兵は手元の分厚い冊子で二人の身元を確認できたようで、渋い貌をしながらも顎をしゃくって促してきた。
「入れ! いいな!! 日没までには、必ず門へ戻れ!
貴様ら“マニトゥ”にかける慈悲は、それが限度だ! よく覚えてオケ!!」
這々の体で頭を下げながら走り、城門に向かうアシュヴィンとアキナス。
サタナエル一族の外見を持たず、かつ上手く演技ができる彼らが今回の潜入役となった。
――ロザリオンはアシュヴィンとの同行を熱望したが、恐ろしく不器用な彼女にはレムゴール訛りも演技も不可能であったので、不服ながらアキナスに役目を譲ったのだ。
二人は走りながら、周囲の目を盗み会話を交わしていた。
「頼んだよ、アシュヴィン。今アタイらは武器も、魔導も使えない。作戦と、隠密と、いざって時の知恵と体力がすべてだ。下手を打つんじゃないよ」
「わかっています。実情を探り、地形を頭に叩き込み、無事生還する。その目的に向かって、常に臨機応変に対処する。
もしも――エグゼキューショナーに、出会ってしまったら――」
「逃げろ。尻尾巻いて全力で。お互いを助けようなんて思わねえこと。どっちか一人が、生きて帰りゃあいい」
険しい表情で呟くアキナスは、改めて天高くそびえ立つ城壁を見上げた。
この途方も無い、現世最硬の物質でできた、内部に半獣半人の化け物を幾人も抱えた、鉄壁の要塞。
自分たちの行いが、いかに命知らずなものか、実感せすにはいられなかった。
どちらか一人、などではなく――ひとりも、生きてこの門を再びくぐることはできないのではないか。
そんな悪い予感を、必死で払拭せざるを得なかったのであった。