第二話 異郷の森林にて
その地理・情勢に関し、著しく情報が不足するレムゴール大陸。
ハルメニア大陸の北東に位置する広大な大陸であり、そこに間違いなく人類と文明国家が存在することが判明してはいるが――。それ以外詳細な情報は皆無だ。
何しろ、歴史的にハルメニア大陸に渡航を果たしたレムゴール人は、サタナエル一族始祖クリシュナルを始めとして――。誰一人まともな故郷の記憶を有していなかった。
南隣りの比較的近距離に位置し、深海部を経ずして渡航が可能というイスケルパ大陸。ここへレムゴールから渡航した者もまた、同じ状況であったという。
レムゴールに渡航し帰還したイスケルパ人であっても、例外ではなかった。その一人剣聖アスモディウス・アクセレイセスは、レムゴール人が自分の理想に及ばなかった失望は覚えていた。が、「何故か、まるで記憶に靄がかかったようになり、かの大陸について断片的にしか思い出せぬのダ」と、生前語っていたという。
したがって無論“レエティエム”は、自分たちがレムゴール大陸のどこに居るのかも、正確に把握できていない。人類創世期にはあったであろう、未知の土地への冒険行と同様の状況なのである。陸でも海でも、どこに繰り出すのでも、地図を書きながら進めていくしかない手探り。
また、大陸を出れば記憶が失われるというのなら、「記録」で補う以外にない。どのような細かなことも書き記すように、全部隊に専用の書記官が配属され、今回の調査部隊も当然例外ではなかった。
今は、とにかく情報が欲しい。どの程度のレベルか分からぬが文明があるのなら、そこに住む民から地理や国家の情報を引き出すことができるはず。まずは接触を図ること。それが第一だ。
シエイエス自らが率いる、陸の調査部隊一行300名。彼らは広大な森林地帯を抜けるべく、丸3日にわたって徒歩での行軍を続けていた。
シエイエスの副官として指名されたのは、彼にとってサタナエル大戦の折からの同志である、連邦王国のムウル。そしてノスティラス皇国の高名な剣豪将軍ロザリオン。二人に部隊を割り振り、別行動が可能なように綿密な編成がなされていたのだ。
それぞれ自国勢力を率いつつ、ムウルは後衛ボルドウィン勢力を。ロザリオンは前衛アトモフィス勢力を任されていた。
そのような経緯で――。今アシュヴィンらの前には、部隊長として就いたロザリオンが行軍の先頭を歩いている。
大戦の英雄四騎士の一人、レオンを父に持つ高貴な血統の彼女。23歳という若い女性の身で将軍位にある実力を証明するかのように、全く隙のない堂々たる佇まいだ。180cmに届こうかという長身の重装鎧姿、それに見事な調和を見せた剣聖の遺品、大太刀の名刀“神閃”が長いマントの裾から覗く様。抜かずとも戦わずとも、超一流の騎士、剣士であることに一寸の疑いもない。
それでいて、首周りで切りそろえられた、ストレートでさらさらの金髪。そして気品と艶やかさを備えた美貌、筋肉に覆われた中でもあまりに主張する胸や腰回りなどの悩ましさに――。初なアシュヴィンは挨拶しながらも目のやり場に困って赤面し、エイツェル達から白い目で見られたほどだった。
彼女はダフネの高弟子。だがアシュヴィンがダフネの指導を受けた時にはすでに、免許皆伝を得て祖国に帰還していた。よって噂は耳にしていても、面識はなかった訳だが――。部隊の長として貌を合わせ、それから三日間一緒に行動してきた結果、どのような人物かは大体分かってきていた。
その人物理解の結果としてアシュヴィンがロザリオンに向ける表情は、著しくすぐれないものだった。
彼の鋭い視線の先には、先頭をゆくロザリオンの元に正面遠くから駆け寄ってくる、エイツェルの姿があった。
エイツェルは、ロザリオンの前で膝を着くと、大声で報告を始めた。
「報告します、ロザリオン様!! 前方範囲500mに人影なし!! 行軍に障りございません!!
――!」
エイツェルの語尾は、中途半端なところで途切れた。
彼女の頬に強く打ち付けられた、1mほどの棒型鞭の一撃によってだ。
エイツェルはよろめき、頬を深く切られて口から一条の血を流す。
「――ぐっ!! こ――!!」
その様子を見て、エルスリードが激昂して叫ぼうとするが――。
同じく激しい怒りを浮かべたアシュヴィンが、手を上げて制止する。
鞭を右手に胸をそびやかす人物こそは、ロザリオン本人。
彼女は冷酷無比な表情を眼下のエイツェルに向け、云い放った。
「――態度は良くなったな。また、声も張り大きくなった。それは結構。
だが、鈍い。半径500mの捜索に、どれだけ時間をかけているのだ?
以後厳重に、改善せよ、エイツェル・サタナエル」
エイツェルは悲しげな表情で下を向き、深々と頭を下げた。
「――申し訳、ございません。以後は改善いたします」
親友の屈辱的な姿を見て、エルスリードはぎりぎりと歯噛みした。
そう、誇り高き軍人であるはずのロザリオンはかように、エイツェル個人に対し理不尽といえるほどの不公平な待遇と虐待をしていた。
初日に、通常3人一組で担わせる斥候役をエイツェルたった一人に指名し、馬車馬のように働かせた。
さらに――。一日目は態度が悪い。二日目は声が小さい。そして三日目の今日は行動が遅い。
毎日のように難癖をつけては彼女を罵倒し、今のようにむち打ち非道に傷つけていたのだ。
「ふん、やはり通常と異なる血ゆえの、日頃の怠慢がなせる業ではないのか? 何から何までなっておらん。
――どうした? なんだその目は。貌を切ったことが不満か? お前たちサタナエル一族はどうせ、ものの1分もあれば傷など塞がる身体であろう? 蜥蜴の尻尾同様にな」
言葉どおりに傷を再生し始めているエイツェルに対し、追い打ちの罵倒をするロザリオン。差別意識を露わにした度重なる人格否定発言に、抑えてきたエルスリードの堪忍袋の尾がついに切れた。
「いい加減に――してください!! このエルスリード、抗議いたします、ロザリオン様!!
この三日間、私の目から見てエイツェルは、よく命令に従い責務を果たしております!!
そのようなお叱りを受ける謂れは何一つありません! 明日は何ですか? 目つきが悪い、とでも仰って、またエイツェルを鞭打つのですか!?」
その言葉を聞き、アシュヴィンも己の怒りを抑えることができなくなった。
「そのとおりです、ロザリオン様。僭越ながら、私の目から見ても公正なご判断とはいえないかと。
失礼ながら、エイツェル個人を標的にしているようにさえ見えます。彼女がシエイエス様の息女なのは勿論ご存知のはず。ことと次第によりましては――」
「やめて、エルスリード、アシュヴィン!!!」
アシュヴィンの「脅し」になりかねなかった言葉は、当のエイツェルの叫びで遮られた。
エルスリードとアシュヴィンは、驚愕の表情でエイツェルを見た。
「申し訳ありません、ロザリオン様。二人は私の幼馴染で、感情的になっているだけです。逆らう意思はありません。どうか処罰は思いとどまっていただきたく」
エイツェルは膝をついたまま深々と頭を下げた。
エルスリードとアシュヴィンは、屈辱の怒りを感ずると同時に、思い至った。
“レエティエム”においては、ハルメニアの各国家で各々持っていた地位を一切考慮せず敬称すら廃止し、実績と能力のみで指揮系統が定められている。一例を上げれば、少佐の階級でありながら将軍と同等の指揮権をもつアキナスのように。裏を返せばその経緯を経て定められた指揮権は絶対であり、逆らえば軍規違反により重処罰がくだされる。王女であるエルスリードや伯子であるアシュヴィンに対しても、全く例外はない。エイツェルは、自分のために親友達が罰を受けることを恐れたのだ。
またエイツェル自身、己が逆らい罰を受けることで、義父シエイエスを悲しませることも避けたかった。一人前の戦士として志願した以上、辛いからといって義父に泣きつくことなどさらに論外だった。
そのエイツェルの心を理解したエルスリードとアシュヴィンは、拳を握りしめて口をつぐんだ。
ロザリオンは二人にも侮蔑の冷笑を向け、云った。
「フッ、高貴な血を持ちながら、惜しいことよな。サタナエル一族なぞにそこまで入れ込むとは。
良かろう、罪には問わんでおいてやる。因みにアシュヴィン・ラウンデンフィル。シエイエス様に私のことを讒言するつもりなら、好きにして構わんぞ。私は部隊長として何一つ、総司令官に恥じる行為なきゆえにな。
さあ、相手がしばらく現れんことは分かった。あと500m進み、手頃な場所を見つけ次第陣営を張る。総員、行軍!」