第九話 渇望の陸地
法王庁・ネルヴィル船に続く、エストガレス・ダフネ船の全滅、そしてその指揮官たる英雄ダフネの凄絶なる死。
その姿は“レエティエム”の一部の者には勇気と、遺志を継がねばならぬという強さを与えたが――。
大半の者に対しては、さらに200名が命を落としたという事実だけが重くのしかかり、死への恐怖と重圧がいたずらに増したに過ぎなかった。
アトモフィス船。ダフネとゆかりの深い人間も多いこの船もまた、例外ではなかった。
彼女以外でも、ダフネ船に乗り合わせていた同胞10名あまりを失ってしまった、サタナエル一族の者の悲しみもことに大きかったのだ。
船底の、エーテル・タンク室。現在魔力注入の順番が回ってきていたレミオンは、沈痛な表情で水晶球を握りしめていた。
アシュヴィン同様彼にとってもダフネは、旧知であり良くしてもらった恩人である。その死にショックを受けてはいたが、レミオンがより衝撃を受けたのがダフネ船に乗り組んでいた親友の死であった。
(ディナダン……)
ディナダン・サタナエルは、レエテがサタナエル滅亡時に、施設の上階で発見した男児だ。
生まれたばかりの彼は一族男子として、女子と雲泥の差の手厚い待遇を受けていた。その後アトモフィスの一員となり、同い年で施設にいたエイツェルの幼馴染として育ち、レミオンら3人ともよく遊んだ。やんちゃなディナダンは中でもレミオンと最も仲がよく、成長しても気の合う友人として付き合いを続けていたのだ。
魔力の注入を交代し、エーテル・タンク室を出ようとするレミオンの肩に、大きな手を置く者がいた。
「モーロック様……。感謝はしますが、あんただって……ダイモス様を失ってんでしょう? お互い様ですよ、お気遣いは無用ってもんです」
振り返ったレミオンの視線の先にいたのは、案の定モーロックだった。
彼は気丈に振る舞おうとしていたが、レミオンが口にした一族友人の名を聞いて、温厚な表情をやや歪めた。
「そうだのお……お互い様ってもんだよなあ……。
覚悟はしておっても、いざ無情な現実が目の前に突きつけられると、所詮は人間、弱いもんじゃ。
だが人間、こういうときこそ真価が問われるものよ。戦士なら尚のことよなあ。
強く自分を持つんじゃ、レミオン。己が常に強者でありたいと思っているおまえなら尚更なあ」
「……ありがとうございます。もう、俺あ大丈夫です。ご心配おかけしましたね」
云いおくとレミオンは部屋を後にし、廊下を進んだ。
角を曲がったところで――。彼の目に飛び込んできたのは、幼馴染の見慣れた後ろ姿だった。
見慣れているからこそ、すぐに分かった。その後ろ姿が漂わせる苦悩と疲労の色が。
「よう、アシュヴィン。
――すいぶん沈んでやがるようだな。どうだ、ちょっと見晴らしの良いとこで話さねえか?」
アシュヴィンはやつれた表情で親友を振り返り、云った。
「レミオン……。いいよ、ちょうど日に当たりたいと思ってたところだった」
*
アトモフィス船の艦橋の頂上。海抜にして30mほどの位置にある、マスト上を除けば最も高い場所の屋根上に、アシュヴィンとレミオンは並んで足を放り出して座った。
見渡す限りの大海原と、抜けるような晴天、順風を受けてなびきはためく帆が視界を占める。
死の洋上でなければそれは、平和そのものの癒やしの絶景といえた。
「気持ちいいな……。ただの旅行だったら、何もかも全部忘れてだらけてえところなんだがな」
「ただの旅行で……君は満足しやしないだろ? 戦いのない平和な旅行なんてね。
……ディナダンのことは残念だった、レミオン。僕もとても、悲しい」
「……ありがとよ。ダフネ様も、残念だったな。
いずれにせよ二人共、天国で母さん達に会えて嬉しいだろうってことが、唯一の救いだな」
「そうだね……。
僕はダフネ様の勇姿や、ヨシュアが生きてくれたことで救われはしたけど……。あれから10日。時間が経てば経つほど、僕の中で不安感が増大しているんだ。
こうやって仲間があっけなく死に続ける、生存競争みたいな苦行にこの任務はなっていくのか。
そして裏切り者は、いつ行動を起こすんだろうか。上陸までに見つけることはできないんだろうか。そんなことばかり考えてしまって」
「それで、そんなしけた面してやがったのか。お前らしいな。
たしかに、出港してもう40日。そろそろ精神の限界ってやつが皆に来てるのは、間違いねえな。
実際、リーランド船で暴動手前の騒動が、ジャーヴァルス船で集団自殺まで発生しちまったって話だし」
「そう、皆が、この“レエティエム”がどうなってしまうのか。それも心配だ。
これから上陸できたとして――。壮大な作戦はそこからなんだ。僕らは甘かったし、自分達で思っていたほど強くはなかった。皆が団結し、組織として完璧に動くことができなければ、いずれ任務は失敗し全滅の危険すらある」
「心配性のお前は、もうそれ以上考えんなよ。俺はな、まだ自分が強えと信じて疑ってねえぜ。お前もだ。今俺たちが生きているのは運だろうが、強運だって立派な強さだ。
上陸したら、拠点の建設なんて面倒くせえ作業と、そこを防衛するお役目ってやつがある。俺はどうやってそいつから逃れ、調査部隊に入れるように強さをアピールするか、それしか今は考えてねえんだぜ。
それにお前だって、早くエイツェル姉ちゃんや――エルスリードに会いてえだろ?
前向きな思考、てやつさ。今は良いことだけ考えてりゃいいんだ」
「君の……そういう強さは見習わなきゃいけないかもね」
応える代わりに、レミオンは不敵な笑みをアシュヴィンに返し、屋根の上に両手を後頭部に回して寝転がった。
空を見上げるその様子が気持ちよさそうで――。アシュヴィンもふっと笑みをもらしながらそれに従った。
二人が見上げる空は限りなく澄み、心が洗われていくようだった。
心配すべきこと、やるべきことは限りなくあるかもしれない。だが今は、全てを忘れて安息の時間に浸れそうだし、浸っていたかった。
そうしているうち、アシュヴィンは強烈な眠気を覚え、寝入りそうになった。
その時、だった。
二人の頭の中に、強い念話が響いた。見えぬほどの上空から魔力を発信してくる、クピードーの念話が。
(――皆様、朗報です。
どうやら、現れたようです。目的の、地が。
真東の方角、推定100km。雲の間から視認できました。
完全なる、大陸の陸地です。海岸です)
その内容に――。
二人は反射的に、飛び起きた。そして東の方角――。まさに自船の船首方向に目を向けた。
下の甲板からは、同じ内容を聞き取った“レエティエム”の面々が歓声を上げている。
ややあって、指揮官のシエイエスとシェリーディアが甲板に上がった様子が見え、主人の命で矢のように飛んでいく隼、ザウアーの姿が目に入った。
アシュヴィンとレミオンは――。
先程とは打って変わった輝く貌を見合わせ、頷きあった。
そしてすぐに艦橋を飛び降り、これから自分たちがなすべき任務に備えるべく動き始めたのだった。
*
クピードーの第一報。それを受け即座に偵察に向かったザウアーが報せてきた、確かな「陸地」の状況。
それを聞き、“レエティエム”が構成する“レムゴール調査船団”は大いなる喜びに包まれたが、その後陸地が近づくにつれ――。
歓声は止み、固唾を飲む沈黙に変わった。
大陸と思しき場所が近づくにつれ、海底も徐々に大陸棚に入り、深海域を完全に抜けた。
今はもう、あきらかに浅瀬と呼べる域まで海の色が変わってきているのがわかる。
したがって――。超巨大生物の目と耳を欺くことが目的の魔工はもう、必要ない。
シエイエスとラウニィーの判断で各船の魔力注入作業は停止され、エーテル・タンク室の機能は止められた。
今ではもう、あの独特の色彩の“障壁”は消え、完全な視界が広がっていた。
そうしてほぼ全員が、甲板に出ることを許されたのだった。
座礁に注意しつつ、慎重に進む船。
靄のようなものがかかる視界の中――何が現れてくるのか。不安と期待の入り混じった1600人の視線は、東の一点を見定めていた。
そして、ついに――。
「おおい!!!! あれ、あれじゃあねえのか!!!!」
声の大きな男性が、叫ぶ。
指差す方向には――。間違いなく、見えていた。
海面の向こうに稜線を描く、長くなだらかな砂浜と――岸壁。その向こうに見える、生い茂った広大なる森林。その向こうに広がる、白い尾根――。
ハルメニア大陸と、同じ。人間が住むべき母なる陸地が、そこには広がっていた。
人々の様々な想像を超え、その風景は心洗われるような、絶景であった。
「――――やった!!! やったああああああああ!!!!!
ついに、たどり着いたぞ!!!!! レムゴール大陸に!!!!!」
「助かった!!!!! 俺たちは助かったんだ!!!!!
あの“死洋”から完全に逃れたんだ!!!!!」
「オオオオオ!!!!!
万歳・レエテ!!!!! 万歳・アトモフィス!!!!! 万歳“レエティエム”!!!!!」
「万歳“レエティエム”!!!!! 万歳“レエティエム”!!!!!」
地響きのような、歓声と足踏みが――。
またたく間に、船団全体へと、広がっていった。
そう、まさしくこれが、最初にして難関、“死洋”の試練を完全に超え――。
ハルメニア大陸の民が初めて、レムゴール大陸への到達を確実なものとした、歴史的な瞬間であった。
犠牲は、払った。想定を超える膨大かつ尊き犠牲は。
だがその確かな代償として、偉業は――ここに実現されたのである。
アシュヴィンは周囲の人々と抱き合い、喜びを分かち合った。
レミオンとも、モーロックとも、メリュジーヌとも。ラウニィーとも、シエイエスとも、シェリーディアとも。
その他全ての仲間と。
きっとエイツェルとエルスリードも、ボルドウィン船で喜びに沸き返っていることだろう。
だがアシュヴィンは、彼の気性は――。
喜びの中にもすぐに、負の感情と緊張感を発生させていたのだ。
すなわちこれは、喜ばしき勝利であるのと同時に――。
新たな戦いの始まりであるということ。ようやく真のスタートに立ったに過ぎないのだということ。
素晴らしい情景、その向こうに存在する試練が巨きく過酷であるのだということ。
“死洋”に勝る、真の地獄が待ち受けるのだという、その予感を、骨の髄で知覚していたのだった――。