第三話 深き海底より来たる、死の象徴【★挿絵有】
マストの上に登り警戒していた見張りの兵士からの警告だ。
その声に――。
甲板に居た50名ほどの“レエティエム”各員は――。
戦場そのものの緊迫の表情に変貌し、一斉に低く身体を伏せ、付近の構造物を全力で掴んだ。
高波や――「巨大物体」の衝突に備えるためだ。総司令官シエイエスから通達された事前訓練の一つとして、“レエティエム”全員が身につけた動き。
エイツェルは柵の側に居たためそれを掴んだが、手はブルブルと震えていた。
身体中から汗が吹き出し、呼吸は浅く、荒くなる。
白みをおびた貌で、エイツェルは極限の恐怖に耐えるしかなかった。
クラーケン――。
それはハルメニア大陸で古来より恐れられる、伝説的超巨大怪物。
“死洋”の渡航を阻む最大の障碍の一つ。
はるか数千年の昔から、大海原に乗り出した外洋帆船をその餌食としてきた。
極々わずかな生存者の証言記録によれば――。
その姿は蛸に似た、全身真っ黒の軟体動物様。中央の頭部兼胴体には3~5個のぬめぬめ光る目をもつ。吸盤を有した捕食用の足を数十本もち、それを縦横に振るって帆船を沈めるのだ。
その体高は約500m、触手を広げた端から端までの最大長は約2.5km、触手の直径は50~100mといわれる。
――山が襲ってきて、上空から隕石を降らせるようなものだ。彼らの前では人間など、全くとるにたらぬ微細な虫けらでしかない。
神に等しい存在を倒すなどあり得ない。追い払うことも不可能。人間にできることは――。
姿を隠し、音を消し、彼らの怒りに触れぬよう静かにおとなしく、過ぎ去るのを待つか全力で逃げること。それが成功することをただ天に祈ることしかできないのだ。
当然ながらクラーケンを実際にその目で見た者など、“レエティエム”の中にも水夫の中にも誰一人として居るはずもない。
大陸でどれほど名を上げた強者、英雄であろうが関係はない。未知の大いなる大自然の脅威をただ恐れ、恐怖に耐える幼子と化すしかない。
(怖い……怖いよ……)
加算されていく恐怖に支配され、ガタガタ震えて丸まるエイツェル。
その彼女に寄り添い、背中に手を添えてくれる一人の女性がいた。
「大丈夫だよ……ゆっくり、深呼吸しな……エイツェル。アタイがついててやるからさ。
オメーは死なない。皆も死なない。絶対に、大丈夫だから……」
「アキナス――さん――」
そう云ってエイツェルが潤んだ瞳で見た、魔導士の女性――大導師府師範代、アキナス・ジルフィリア少佐、21歳。
非常にグラマラスで魅惑的な肢体を、ダークレッドと黒を基調にしたローブとスーツで覆っている。ところどころ素肌をさらした様子は極めてエロチックだ。髪は見惚れるほどにさらさらなストレートの栗色で、長い束を頭頂部に近いところで結び、前髪は眼の下で分けて流していた。貌は大人の色気を存分に感じさせる色気と美しさを備え、しかし武人のような厳しさも備える不思議な雰囲気を醸し出している。
「どうせ運を天に任せるなら、怖気づいて小便ちびってるよりは楽しんだほうがよっぽどいい。
拝んでやろうぜ、そのとんでもない神代の化け物をよ――。
――そうら、見な――現れなすったぜ――。――すげえ――」
余裕あるように振る舞ったアキナスだったが、さすがに息を呑んだ。
目前の信じがたい、この世のものとは思えない光景に対して。
船の、まっすぐ南。その先に、「そいつ」はいた。
エイツェルは、自分の目がどうかしてしまったのだと思った。遠近感が完全に狂ったのかと思った。
霞のかかり方、海面の見え方から、そいつがいるのは確実に10kmは先のはずだ。
だがそいつの身体を兼ねる巨大な頭は――。
明らかに不自然な視点。見上げるような上方にいた。
ゆっくり、ゆっくりと――。すさまじい水の音を遠くから聞かせながら、どれほどの深海からか海上に浮上してくるそいつ。クラーケンは――。
直径数十mはあるに違いない、5つの光る目をぎょろり、と動かし周囲を見回しているようだった。
過去の帆船は、この索敵で見つかり、押し寄せてきた怪物の超巨大触手を叩きつけられることによって――。海の藻屑とされていったのだ。
今回は、違う。大陸人類の叡智を結集した魔工船の力によって、クラーケンにはこちらの姿が見えてもいないし、海中を通じて音を拾ってもいないはずだ。
やりすごせる。大丈夫だ。10隻の魔工船に乗り組む“レエティエム”の全員が祈るように思い続けているのが確実にエイツェルには伝わってくる。
その時――再度の水音が響き。
新たに巨大な頭の周囲から、上がってきたのだ。
数十本の触手が。
まるで火山から噴出したマグマのように、推定高さ800mほどまで持ち上げられた超巨大触手は、死の象徴そのものでしかなかった。
やがて――。
その触手と、クラーケンの目が、こちらに向いた。
そしてゆっくり、ゆっくりと、こちらに向けて動き出そうとする。
おそらく――静かに見守っていた“レエティエム”の面々の全員の全身の血の気が引いたであろう。
たとえ「そいつ」が自分達の存在に気がついていなかったのだとしても、進路として突っ込んでこられては――。それも回避が間に合わないほどの速度で来られては、結果は完全に同じ。
死が待ち構えているだけ、なのだ。
「……い……いや……やだあ……!
助けて……神様……お願い……お願い! ううう……えええ……」
あまりの恐怖心に、ついに子供のように泣きべそをかきはじめた、エイツェル。
先程までは余裕のあったアキナスもさすがに、今は言葉を発することもできない。
そして――。
クラーケンが海上に浮上した際に発生した、10m級と思われる津波が――。
時間差で一気に魔工船を攫い、大きく揺さぶった。
「ああああ!!!」
「きゃあああ!!!!」
「神様!!! 神様あああ!!!!」
エルスリードのものと思われる悲鳴も混じった、恐慌の声がボルドウィン船を支配した。
極めて大きな揺れだったが、どうにか全乗組員がこの衝撃に耐えた。
そして貌を上げたエイツェルの視界は――。
おそらく数km先で反転し向きを変え、遠くに過ぎ去っていくクラーケンの威容を捉えていたのだった。
遠く遠くに――過ぎ去っていくクラーケンの姿。
エイツェルは身体の奥底からの、人生でも経験のないほどの深い息を大きく吐き出し、全身を一気に脱力させた。
「よかった――!! よかったああ――! 本当に――!
あたしは、あたし達は、生きている――」
涙ぐんだエイツェルが周囲を見回すと、抱き合って喜ぶ者、放心状態の者、泣きじゃくる者など反応は様々だったが皆が皆、命を拾ったことを心底喜んでいる様子だった。
エルスリードも、ネメアの胸に飛び込んで涙ぐんでいる。恐怖のあまり、恋い焦がれた想い人の胸に抱かれていることも気にしていないようだった。
エイツェルも勿論安心した心は同じだが、生の喜びの後に襲ってきたのは――脳髄を刺すような、恐怖心のぶり返しだった。
(こんな――こんな現実にありえない恐ろしすぎる怪物から、運を天に任せながら逃げていくしかないだなんて。これがこれからレムゴールまで、何回続くのか分からないだなんて……。
あたし、耐えられる自信ない。きっと何回か繰り返したら――だれかが犠牲になったりしたら――ア、アトモフィス船が沈められるなんてことになったら――。
あたしきっと気が狂っちゃう。怖い、すごく怖い。頭で理解してたのとは全然ちがう。もう引き返せないこの場所でそれに気づいて、あたしこの先いったい、どうしたら――)
青白い貌で胸を掻き抱き震えていたエイツェルの――。
豊満で柔らかい乳房を、背後から鷲掴みにしてくる手があった。
「――き――きいやあああああ!!!!
な――何するんですか、アキナスさんっ!!!!」
アキナスは意地の悪い貌でエイツェルの背後に立ち、容赦なくエイツェルの両乳房を揉みしだいた。動かされることで伝わるエイツェルの乳房の大きさ柔らかさ、性的な魅力に、周囲の男性の好奇と興奮の目が注がれるのが伝わってくる。
エイツェルは羞恥で貌を真っ赤にして怒り、アキナスに抗議した。
「い、いいかげんにしてください!!! 本当に怒りますよ、こんなことして!!!!」
するとアキナスはするりと手を放して後方に飛び退り、両手のいやらしい動きだけを空中で継続しながらエイツェルをからかった。
「おーおー。まあ何ともいえない、やらしいおっぱいだこと。こりゃあオメーと付き合えた男はいつ死んでも悔いはねえほど幸せだろうなあ。
逆にいやあ、そのおっぱいをもってすりゃあ、どんな男だって速攻で落とせるんじゃねえのー?
たとえば、ア――」
「やめて!!! やめてええええ!!!! もう許さない!!!! 許さないんだから!!!!」
沸騰せんばかりに赤い貌で喚き散らし、逃げるアキナスを追いかけるエイツェル。
だが、半分位は本気で怒りながらもエイツェルは理解していた。
アキナスが、エイツェルの危うい精神の動きを察知し――。自分も恐怖の余韻が残る中、無理をしてあえてからかってくれているのだということを。
人智の及ばぬ超怪物に怯え続ける、未知の航海。
それは云うなれば、明確な敵との戦いではない、排除すれば終わりという単純明快な戦いではない――。
ある意味最も厄介である、「己の中の恐怖心との戦い」が主であるからだ。
ナユタもシエイエスも、この精神的な敵との戦いを最も重視した。
“レエティエム”には少年や少女も居る。戦闘の技量があっても精神が未熟な大人も居る。
それに対応し、己を保ちながら決して恐怖にとらわれず、周囲の皆を勇気づけられる「陽」の才能を見込まれ訓練された者。
それこそが、メリュジーヌやモーロック、ネメアやアキナスのような、強い精神を持つ者達であったのだった――。