第一話 魔工船【★挿絵有】
生命を育む源である、大いなる水の世界、「海」。
この世界オファニムにおいては、地表の大部分を覆い尽くす存在だ。
そこには海流があり、流れがもたらす空気が気候に影響を及ぼす。
また多種多様な生命が棲み、豊富な魚介類はハルメニア大陸においてもディアリバー港、シェアナ=エスラン港、ガリオンヌ海岸など各地で水揚げされ、海沿いの国家を中心に重要な食糧源となっている。
しかしながら――。
それらは人類に欠かせぬものでありながら、同時に大いなる牙――いや、神罰とでもいうべき危害を成すものでもあるのだ。
暴風や地震のもたらす暴虐な波は、過去無数の災害を大陸にもたらしてきた。
そして強い海流は、帆船という航行手段を持つ人類が、自由な場所に到達することを阻んできた。
そして何より――海に棲む生物こそが、海に浮かぶ大陸の人類同士を歴史上切り離してきた、最大の障害であったのだった。
これら恐怖によってハルメニア大陸においては、生命より「死」の象徴である印象が極めて根強い。
こうして古来より海は――
“死洋”の名をもって、大陸にとって畏怖される大自然であり続けたのだった。
*
アトモフィス船の船底部に設けられた、10m四方ほどの部屋。
全面木板の壁。窓一つない、空気のこもった蒸し暑い部屋。
環境の悪さに加え、時折船が横腹に受ける波の影響で、大きく揺れる。
そのような過酷な環境下、アシュヴィンは目を閉じ静かに集中していた。
彼は木の簡易な椅子に座り、目の前の掌サイズの水晶球を素手で握り、魔力を送り込んでいたのだ。
水晶球は、イクスヴァ製の太い鋼線を何本も介して――部屋の中心にある巨大な水槽に繋がっていた。曲面を描く水槽の内部には、魔力を蓄える性質をもつ何十種類もの鉱物が溶かされた液「エーテル体」が満たされている。その放つ光は、密閉された広大な室内を明るく照らすほど。ここに魔力を送り込むことで、大量に蓄積することが可能なのだ。恩師アリストルが利用していたエーテル・タンクの原理を応用し、ナユタが考案したものである。
蓄えた魔力は、魔工船の誇る数々の魔工のエネルギー源となるのだ。
末端の水晶球は一つではない。計10個あり、それぞれにアトモフィス船に乗り組む“レエティエム”の一員らが座り同様に魔力を送り込んでいた。弱い魔導をたやすことなく発動しているような状態であり、魔導士が行っても消耗が激しい。ましてや魔導士でないものが行えば、その消耗度は数倍である。ローテーションで常に魔力を24時間送り込まねばならないため、1時間ごとの交代を繰り返すことが求められる。順序が回ってくるのは20時間ごとだ。
その1時間をまもなく迎えるタイミングで、アシュヴィンの額には室温や湿度からではない汗が大量に吹き出していた。息も浅く、荒げるようになり、上下するようになったその肩を――。
後ろから、叩く者がある。
ハッとして後ろを振り返ったアシュヴィンの視界にあったのは――。
導師ラウニィーの笑顔であった。
「ご苦労さま、アシュヴィン。交代よ。
――さあみんな、終わりよ、出て。今からは私一人で2時間やるから、皆よく休んでね」
落ち着いた優しい声を聞き、アシュヴィンを始めとする10名は一斉に目を開け、「一人を除き」大きく息を吐き出して脱力した。中には、椅子から崩れ落ちて床に膝を付く者もいた。
「助かり、ます、ラウニィー導師……。恐ろしく疲れますね、これは。次の順番までにしっかり身体を休めます」
アシュヴィンの弱々しい声を聞きながら、ラウニィーは涼しげな表情で彼と椅子を代わり、膨大な魔力を放出しはじめていた。
「そう。慣れるまでは大変よ。覚悟しておいてね。最初は私が十分サポートしてあげるけど」
「いや~~ほんと! 助かりますよおお! ラウニィー様が我が国の船にいてくださってええ!」
突然――アシュヴィンの隣に座っていた女性がけたたましく高い声で、ラウニィーに向かって云った。その女性をよく知るアシュヴィンもラウニィーも苦笑を浮かべたが、彼女はたたみかけるように言葉を続けた。
「我がアトモフィスには『魔導士』がいませんからねえ! 他国と同じくボルドウィンの魔導士の方々を割り振ってくださるとは聞いてましたが、まさか――。“レエティエム”最強の魔導士ラウニィー様がご乗船くださるなんてねっ!
もう最高! 大船に乗った気分で、てのはこういうことよね。そう思わなあい? アシュちゃん!! あははははは!!」
少女のような金切り声で大笑いしながらアシュヴィンの背中をたたくのは、身長150cmそこそこの、極めて小柄な「サタナエル一族」女性だった。
身体もきわめてスリムでやや幼児体形、小さな八重歯を覗かせる無邪気で可愛い褐色の笑顔、頭頂部に近い位置で縦ロールツインテールにした銀髪。サタナエル一族に似つかわしくない、ごてごてした重装鎧と白いアルム絹を使用した衣装は異色だが、外見はどう見てもアシュヴィンよりも年下の少女のものだ。
しかし彼女の年齢は10も年上の――26歳。あの組織サタナエルの地獄を生き抜いた、歴戦の強者なのだ。
「メリュジーヌ将軍。その呼び方はやめてください……。もう僕だって……」
「アシュちゃん」という呼び名に貌を赤くするアシュヴィンだったが、女性――アトモフィス左将軍メリュジーヌ・サタナエル准将にとっては火に油を注ぐ結果になったようだ。
「子供じゃないんだから、って? あははは!! 何いっちょ前にカッコつけてんの? あたしはキミのオムツだって替えたし、ちっちゃい頃から世話したげたお姉さんなんだぞ!? アシュちゃん、以外にどう呼べって? あはははっ!!!
もしシエイエス様の半分でもダンディになれたら、考えたげてもいいぞ♪ あとな、あたしのことはメリュジーヌ様と呼べ? “レエティエム”では位階級で相手を呼ぶのは禁止なんだぞっ?
それじゃ、あたしは先に行ってるからね~~!!」
そう云って、他の面々と一緒に早々に階段を駆け上ってしまった。
メリュジーヌに頭が上がらず苦手なようであるアシュヴィンは、大きなため息をついてぐったりしてしまった。その様子に、ラウニィーが悪戯っぽく微笑む。
「フフッ、相変わらずね、メリュジーヌは」
「ええ、本当にいつも困ってますよ。良い人ではあるんですが、僕をからかってばっかりで。本当は凄い人で尊敬してるんですが……」
「ええ、そうね。彼女だけ息一つ上がってない。サタナエル一族『初の魔導戦士』にして、大導師府師範代まで登り詰めた凄さは本物よ。彼女もね、過去『あんな』ことがあったから……意識して明るくしてるのは理解してあげてね」
アシュヴィンは、ラウニィーの言葉にやや影を落としながら、言葉を返した。
「ええ、それは――わかってますよ」
メリュジーヌの後を追って甲板まで上がってきたアシュヴィン。
幅18m、全長60mの巨躯を誇る魔工船の甲板は、思いのほか広い。アシュヴィンは1時間と少しぶりの直射日光による眩惑と、魔力を消費した疲労で少しよろめいた。
その彼の腕を――大きな腕で掴んで身体を支えてくれる者がある。
「おお、大丈夫かい、アシュヴィンよ」
極めて鷹揚でおっとりとした、大人の男性の声だ。
それを聞いたアシュヴィンは、ハッとして意識を戻し、体勢を立て直した。
「あ、ありがとうございます! モーロック将軍――いえ、様。
ちょっとだけ目眩がしてしまって。僕もまだまだ軟弱ですね」
それを聞いたアトモフィス右将軍――モーロック・サタナエル。
銀の短髪に、丸こい貌。小さな金色の目に大きな鼻と、ぽってりとした唇、髭。そして195cmは優にある身長、150kgはあるであろう体格。現在の一族でも最大級の巨体だが、威圧感は感じない。むしろまるで熊のぬいぐるみか何かのように、人に安心感を与える包容力を持っていた。外見に似合わぬ実力の持ち主で、メリュジーヌに次ぐ右将軍の地位にあるにも関わらず、皆は彼に畏怖でなく親しみを持って接するのだ。
モーロックは、まるで老人のように鷹揚な笑い声を上げた。
「ほっほっほ……! まあそうでもないぞ。おれもさっき魔力の注入はしてきたが、あれはキツい。本業じゃないおれらにはちょっとなあ。まだ大分疲れが残っとるよ。
だが……見てみい、この光景。これを見ることができただけでも、任務に出たっちゅうことが実感できて、目が覚めるぞい……」
云われてアシュヴィンは、初めて船首を中心に周囲に目を向けた。
そこには――息を呑む光景が広がっていた。
「――これは――」
まず眼前で目を奪われたのは――。
どこまでもどこまでも――広がる水平線。
ぐるりと頭を回し見渡しても、全てが抜けるような紺碧の、海の稜線に囲まれていた。
先程アシュヴィンが船底に潜る前には、確かに小さいながらもハルメニア大陸は見えていた。
しかし今、それも見えなくなった。海の色の濃さから云っても、浅瀬の領域は確実に抜けている。
今こそ“レムゴール調査船団”は――。
完全なる「外洋」へと、踏み出したのだ。
そうなると恐れるのは――サーペントやクラーケンなどの、「超巨大海洋生物」。
大陸棚の浅瀬を超えた、水深数百mの場所にまで至ればそこは、彼らが進出して来られる領域であるからだ。
それに備えるのが、この船が魔工船である所以の、数々の魔工。
船をぐるりと取り囲む外壁部分、柵のすぐ下の位置には――。直径1mほどのランプのような形をした魔工具が、フクロウの「目」のように2つ並んで取り付けられている。これが一隻あたり10組み、外壁に均等に取り付けられている。
この「目」は、それぞれ「音」と「光」を外部に向かって打ち消す効果をもつ魔導を、常に絶えることなく放っている。戦女神レエテが“魔人”ヴェルに打ち消されたように発する音を相殺する音をぶつけ、そしてまた魔導生物クピードーが透明に見えるように光を屈折させる、恐ろしいエネルギーを必要とする魔導だ。
そのエネルギーこそ、先程までアシュヴィンが魔力を込めていたエーテル・タンク。
超巨大怪物に対抗する術などない、虫けらのような人間。それを補うべく、人間の知恵によって怪物の目を欺く、唯一の手段だ。
その魔工具「目」は――。極めて幻想的な色の力場を船の周囲に形成していた。
「音」は淡い赤色、「光」は淡い紫。
それぞれの色に見える魔導の障壁が模様をなして混ざりあい――幻想的な薄桃色の見た目を形成していたのだった。
それは言葉にできない美しさであり、現に上がってきたメリュジーヌなど女性たちは大きな声でそれらを指差し騒いでいる。
きっと――。
「きっと、エイツェル姫様とエルスリード様も、この美しさに見とれておるのだろうなあ」
モーロックに心中をピタリと云い当てられて、アシュヴィンはビクッと肩を震わせた。
「そ、そうですね」
「各船に散らばった一族の皆も、少しでも楽しみ心安らいでくれると良いなあ……。
おれは元組織の“屍鬼”最後の生き残りとして、29歳の生先短い爺いだ。けども姫様も皆もまだまだ生きる年数があるからなあ。少しでも、寿命を縮めずにいてくれることを願っとるよ」
モーロックのその台詞を聞いて――。
アシュヴィンは、貌を青ざめさせた。
そう。モーロックは、滅びた非道の組織サタナエルにおいて絶対のエリートだった男子“屍鬼”の一人。
殺された仲間の死体に隠れて生き延び、戦後に囚われ、レエテにほだされて改心を遂げたと云われる人物だ。
しかし――曲りなりにもサタナエルの歪んだ優生教育を受けた彼が、内心怨恨を秘め続けていたのだとしたら?
組織を滅ぼしたレエテを実は憎み、その希望をくじきたいと思っていたのだとしたら?
サタナエル一族の彼は“真正ハーミア”とは相容れないが、寿命を間近に控えた自暴自棄で協力を申し出れば、敵は受け入れるだろう。
もちろん、子供のころから世話になってきた恩人で、現在は人格者である彼に、そんな疑いは持ちたくないが――。
「失礼します、モーロック様。やはり少々、気分が優れないので……」
「おお、そうか。大事にな。よく休むといいぞお。お前はアトモフィスに絶対必要な人材なんだからな……」
左手で額を覆い、モーロックの声を遠くに聞くアシュヴィン。
(こんな……こんな疑心暗鬼を……恩のある人の裏を勘ぐって疑いを持つなんてこと、絶対にしたくないけれど……。
どこに潜んでいるか、わからない、けれど絶対に探し出さなきゃいけない敵。それを見つけるには……仕方がないんだ。
皆、大丈夫なんだろうか……僕以上に皆だって辛いだろうし、心を結束させなきゃいけないこの任務で、こんな有様で……大丈夫なんだろうか。
義父さん……母さん。僕は……)
突如訪れし苦悩に駆られたアシュヴィンの足は――。
自然と、母シェリーディアの居室に向かっていたのだった――。