エピローグ(Ⅱ) 希望を求め、死の航海へ
船出の前の暗雲たちこめるアクシデントに、落ち込みかかったアシュヴィンら4人の心は――。
その後の多くの観衆の声援によって、またそれに気丈に応えようとしたことでどうにか持ち直した。
そして、ついに彼らアトモフィスとボルドウィンの一団は――。
彼ら自身が乗り込むべき魔工船の桟橋まで差し掛かった。
馬を降り、目的の船に近づく一団。
「これが――魔工船、なのか――」
上を見上げるアシュヴィンのつぶやく声に、その場のほとんどの者が心の中で同調していた。
大半の国が地続きであり、海に面しない内陸の出身者も多いハルメニア大陸において、船に乗る機会のある者自体が多くはない。しかも河川の小型船などではなく、貨物船でも無い限り用いられることのない最大級のキャラック船。これだけの巨大構造物がどのようにして海に浮いているか、理解すらできない者がほとんどの有様なのだ。
この一ヶ月間、シェアナ=エスランの港などを借り受け十分な訓練を受けてきた者たちではあるが、大陸の粋を結集した魔工船の威容と外洋へ繰り出す緊張感は得も言われぬものだったのだ。
船の巨大なタラップの前には、見送りの貴人たちが集結していた。
まず一団の中で、アシュヴィンらの姿を見つけて走り寄ってくる小柄な貴婦人がいる。
「アシュヴィン!! シェリーディア!! お待ちしていましたわ!!!」
大王国エストガレスの女王、オファニミスだった。薄青の最高級のドレスをはためかせ、大きな縦ロールの金髪を揺らしながら彼女はアシュヴィンに抱きついた。
「わたくしの大事な大事な『甥っ子』――。本当に武運をお祈りしていますわ。そして必ず生きて帰ってきて、アシュヴィン。ダレンお従兄さまの生まれ変わりの貴方は、わたくしにも大陸にも必要なお方なのですから」
実父の従妹にあたり、高貴にすぎる身分にも関わらず自分を本当に可愛がってくれた女性。そして実父ダレン=ジョスパンを最も慕う信奉者の彼女を、アシュヴィンも大切に思ってきた。オファニミスを抱きしめ返し、身体を離すと、アシュヴィンは力強く彼女に言葉を返した。
「心配しないで、『叔母さま』。僕は必ず無事に帰ってきます――母と、一緒に」
そして実の母を見やるアシュヴィン。その相手シェリーディアはフッと笑みをもらしながら近づき、両手でオファニミスの手を握った。
「そういうこった。今までアタシの実力に全幅の信頼を置いてくれたアンタなら、信じてくれるだろ、オファニミス? アタシの力で何があっても息子を守ってみせる。何より、この子ももう一人前の戦士だ。この任務を必ず成功させて帰って来るから、安心して待ってろ」
「シェリーディア……。ええ、信用しておりますとも、あなたのことを。アシュヴィンや皆もそうですが、最強戦士の貴方も大陸に必要な存在。絶対の生還をお祈りします。
……それでは、夫やダフネの見送りに行かねばなりませんゆえ、失礼。貴方がたに、ハーミアのご加護があらんことを」
そう云って名残惜しそうにしながら、エストガレスの船に向かっていくオファニミスの姿を、アシュヴィンは手を振って見送った。
そして隣のボルドウィンの一団に目を移す。そちらにも、その国ゆかりの貴人が勢揃いして船出の英雄を見送ろうとしていた。
その中の一人、ドミナトス=レガーリア元国王、ソルレオン・インレスピータ。
16年前の大戦時までは、55歳という年齢にしてエスカリオテ会戦でサタナエル一族を相手取るほどの一流の戦士であった彼。さすがに往年の若々しい美男ぶりや筋肉は見る影もなく――。真っ白になった髪とヒゲ、シワだらけの貌にやや曲がった腰という、相応の老人となっていた。190cm以上の衰えた巨体でここまで遠征するのは、相当に辛かったであろう。だが彼には命を捨ててでも見送らねばならぬ――最愛の孫娘がいたのだ。
「おお……エルスリード! 俺は……俺あ未だに可愛いお前に、見知らぬ大陸なんぞに行って欲しかあねえが……。決意は固えんだろうからしかたねえ。とにかく……とにかく無事で帰ってくれ」
幼い頃から自分を溺愛してくれた祖父に、エルスリードは破顔して抱きつき、胸に貌を埋めた。
「お祖父様。今まで可愛がってくれて本当にありがとう。エルスリードは必ず帰ってきます。セルシェで眠るお父様のお墓の前に、必ず任務の成功を報告します」
「そう、そうだ……! ホルスの奴も見守ってくれてる。ムウルを始め、うちの奴らもホルスの娘であるお前に協力は惜しまねえ。とにかく達者でな」
そしてソルレオンの元を離れたエルスリードの前に、ついに現れたのは――。
周囲の人物と完全に次元の異なる存在感を放ち、燃えるように紅い髪をなびかせる女性。
母、ナユタだった。
「…………」
エルスリードは、うつむいて目をあわせず、口を閉ざした。
「エルスリード……」
エイツェルが、心配そうな目で親友を見守る。
本当は、今からでも前言を翻して一緒に来て欲しい。エルスリードにとってそれだけ大好きな母だからこそ、当然今の別離が最も辛い人物であるのだ。気持ちを伝えたい。なのに、言葉が出ないし態度にも表せない。
幼少時からのわだかまりもあるが――。どうしても素直になれないのだ。
ナユタも、口を引き結んで視線をさまよわせていた。心配でたまらない、この世で一番愛する娘に気持ちを伝えたいが、言葉が出ない。逸らせた視線の先に現れたラウニィーが、強い目線を送って自分を促してくるのがわかる。
ナユタはついに深呼吸ののち、言葉を発した。
「――エル――」
娘の名を呼んで、大きく両手を広げ、迎える体勢を取る。
「……!」
エルスリードは、目を見開いた。
そして一度また下を向いて唇を強く噛んだ後。
ついに一歩を踏み出し、ゆっくりと歩みよって――。
母の胸にそっと、飛び込んだ。
ナユタはぎこちない腕の動きで、娘を抱きしめ――。
エルスリードも同じくぎこちない、震える腕を母の背中に回した。
周囲の人間が、この光景にはっと息を呑み――。
感激しているのが、伝わってくる。
強く、強く娘を抱きしめながら、ナユタは一言、云った。
「――気をつけるんだよ――」
エルスリードも腕の力を強くして、小さく言葉を返した。
「うん――。
分かってる――」
そして最大限の力を込めた後――。
自分から身体を、放した。
「もう、行かなきゃ――」
そして踵を返し、足早に艦橋に向けてタラップを上がっていってしまった。
その後ろ姿を見続ける、ナユタ。
近習の女性クローディアが、横から彼女に声をかける。
「良いのですか? あれ以上お声をおかけしなくて――」
それにナユタは、饒舌な彼女とかけはなれた様子で、極めて短く返したのみだった。
「ああ、いい――」
そして英雄たちは一気に乗船を終え――。
各国ごと、ノスティラスとエストガレスは3船ずつ、10船全船に今回任務のキーとなる存在、サタナエル一族を分散して乗船させ――。
いよいよ、出航の準備は整いつつあった。
水夫がいよいよ帆を上げ、ロープを外し始める。
国ごと分かれた影響で、隣船どうしで離れ離れになったエルスリードを、アシュヴィンは船越しに遠く見つめた。
同乗したエイツェルの隣で彼女は艦橋に立ち、見送りの観衆に手を振りつつ――。
母ナユタの方をずっと見ていた。
そしてナユタの方も、エルスリードを見つめ続けていた。
丁度良い頃合いとなった風に合わせて、ついにロープは完全に解き放たれ、帆が一杯に貼られる。
操舵士の巧みな操船でゆっくり動きはじめた船に合わせ――無数の大砲からの轟音と、天空に上がる花火の炸裂音が鳴り響く。
船上まで渡された幾つものリボンが解き放たれ、紙吹雪が無数に上がる。
観衆の興奮はピークに達し、割れんばかりの歓声がディアリバー港全体を包み込む。
「ジーキーヘイル!!!! ノスティラス!!!!」
「エルール、エストガレス!!!! エルール、ダリム!!!! エルール、カンヌドーリア!!!!」
「ジーキーヘイル!!!! ボルドウィン!!!!」
「アトモフィス!!!! アトモフィス!!!! エルール、レエテ!!!! エルール、レエティエム!!!!」
それは、大陸がほぼ一体となって英雄たちの船出――出陣を讃える、大いなる人々の渦、嵐。
歴史上にかつて現れたことのない、奇跡の現象に他ならなかった。
本来ならば、一世一代の声援に見送られる偉大な一人になれることは、至上の名誉である。
現に“レエティエム”の面々の大半は、愛する人との別れからの悲しみよりも、大いなる誇り、誉の表情に満ち満ちていた。
だが、見送るナユタと――。
見送られるエルスリード。どちらにも笑みはなく、険しい表情のまま口は引き結ばれていた。
やがて、絶好の風を捕まえた魔工船は一隻、また一隻と――。
クリスタナ大河の汽水域を滑るように、遠く、遠く離れていき――。
黒い点のように小さくなり――。
大いなる“死洋”に向けて、ついに旅立っていったのだった。
ナユタは――。
直立のまま、小刻みに身体を震わせた。
そしてついに、大粒の涙が眼尻から頬を伝った。
それを見たクローディアがさっと大きな布をナユタの頭からかぶせるのと同時に――。
彼女は、声を圧し殺しながら嗚咽を漏らし続けたのだった。
「うっ……ううう、ううう…………」
同じ頃。
海上の魔工船の艦橋で、エルスリードも同じく――。両手で貌を覆って泣き崩れていた。
その背中をさすり、慰めるエイツェル。
二人の様子を――追従するアトモフィスの船上から遠目に見続けるアシュヴィン。
後ろで仲間たちや母が遠くなっていく大陸の岸を指差して興奮しているのが聞こえてくるが、何を云っているのかほとんど耳には入っていなかった。
その彼の肩を叩いて、隣に立った男。
「――本当に良かったな、別れの前に親子の愛情を確かめ合うことができて。
ナユタも、本当に良い娘を持った。
アシュヴィン。お前がエルスリードを守ってやれ。その気持ちはきっとお前を、強くする」
義父シエイエスだった。
アシュヴィンは彼の方を一度見やって、再び前方に貌を向けると、力強く頷いた。
「ええ、義父さん。
僕は彼女を、守ります。そして――裏切り者の陰謀を絶ち、この任務を成功させることに全力を注ぎます」
シエイエスはその言葉を受け一度険しい表情を浮かべた後、大きく頷き返した。
アシュヴィンはいつしか、自然に北東の方角を、向いていた。
その遥か遠くに存在するレムゴール大陸を、睨むように見続けていたのだ。
かつて、ハルメニア大陸からたどり着いた者は誰一人いないと云われる未踏の地。
その原因となった最大の障害、“死洋”をまずは乗り越えねばならない。
10隻が10隻、全て沈み全滅の危険すらある。
たとえそれを乗り越えても、今度は不気味な未知の土地に侵略者として攻め入らねばならない。
しかも――この10隻の船のどこかに身を置き、心中ほくそ笑んでいるであろう、恐るべき獅子身中の虫とも戦いながらだ。
数々の困難を思い、不安と恐怖に囚われる。しかし同時にアシュヴィンは、感じていた。
大切な人達の思いを継ぎ、同じく大切な者たちを絶対に救って見せる。
その想念が揺り起こす、強烈なる闘志を――。
第一章 受け継ぎ、道を拓く者達
完
次回より、
第二章 死洋への航海
開始です。