第十話 サタナエル一族
*
アシュヴィンは、壁のない――真っ白な床の空間にいた。
頭のどこかで、理解はしている。自分はおそらく、まどろみの中にいる。
自分の中に居る、強い想いを向ける相手と自我の中で相まみえる空間。それを意識消失下で見ているのだろうとは思う。
けれども、今のこの感覚は、現実のものと変わらない。
だから交わす言葉も、現実にいる人とのそれと何ら変わらない。
佇む自分の背中に、感じる誰かの感触。
それが貌をうずめられたものと理解したときには、すでに自分の胴はその人物に抱きすくめられていた。
(アシュヴィン――お前に、会いたかった)
記憶に新しい、安らぎを感じる、女性の声。
アシュヴィンはこみ上げるものをぐっとこらえ、抱きすくめてきた腕に手を添える。
(ロザリオン――。
好きだったあなたが、そう云ってくれるのは、とても嬉しい。
けれど僕は、あなたに再会する資格のない、最低の男です)
姿の見えないロザリオン、は――。
アシュヴィンの背中で、貌を横に振る仕草を肌越しに伝えた。
(それは、違う。あのときのことは、私自身が心から、望んでしたこと。お前が生きてくれることを願って。
お前がそうやって、自分の罪の意識を強くするほど――私は悲しいし苦しい)
(――っ!
でも僕は、絶対にあのとき、何かができた。
あなたが死なずにすむ、何かを。
でも未熟で――愚か過ぎて回りが見えていなくて――だから、あんな!
僕はきっと一生、忘れられない。一生、後悔する、し続けるしかない)
(私はお前の未熟なところも、一途なところも、全部が――好きだった。
それは同じように、お前自身にも、受け入れてほしい。
お前には今、死んだ私より大切な人が、いるだろう?
自分を認めて前に進んで……そして助けてやってくれ)
(ロザリオン……)
(そして今お前のすぐ近くで……蠱惑をはなつ者には……注意するんだ。
決して気を許すな……あれは今、どう見えようと、いずれは……お前を喰らう……)
その警告を聞いたアシュヴィンは、さらに苦しい表情になり、ぐっと歯を食いしばった。
(そのことは……ごめんなさい……ロザリオン。
わかって、います。ありがとうございます。
油断は、しない。僕は何があろうと、同じあやまちを繰り返したりは、しない。
大切な人を、生きて取り戻してみせる)
そしてアシュヴィンは、未だに想いを残すそのひとを、視界に収めようと振り返ろうとした。
(アシュヴィン。ダメだ――)
ロザリオンの警告も虚しく――。
アシュヴィンは、己の背に目を向けてしまった。
そして、見てしまった。
柔らかなボブカットの金髪、銀の鎧につつまれたしなやかな身体――。
しかし下半身があるべきその場所に、滴り落ちる大量の血と臓物を――。
鮮やかな切り口から上の半身のみでアシュヴィンにぶらさがる、その無残な姿を――。
*
「うっあああ――っっつ…………!!!!!」
一気に覚醒し、恐怖の形相で絶叫しようとしたアシュヴィンの口はしかし、即座に白い女性の両手で塞がれ、止められた。
そして、小声で制される。
「落ち着きたもれ……アシュヴィン。
今は市場、外は賑やかしなれど、声を張れば我らの存在は充分に知られようぞ。
何か悪夢にうなされておったが、後ほどわらわが慰めるゆえ――今は静かニナ」
そこは、大きな木箱の内部。そして絶え間ない振動が表すとおり、現在それが在る場所は馬車の荷台の上。
隙間からの日光でようやく視認できるアシュヴィンの視界に、暗がりの中、フードを目深にかぶった女性――ティセ=ファルの姿が入った。
続けて、同じく布を頭からかぶったヨシュアが小さく声をかけた。
「アシュヴィン。今はドラギアの中央市場を抜けようというところだそうだ。
本当、あのエトルシャンという奴に会えたのは、最大の幸運だったかもしれないな。
山脈鉱山の見張り小屋の番、て立場が、あんな信用あるすごいものだったなんてな」
そう――。
今アシュヴィン、ティセ=ファル、ヨシュア、エトルシャンの4人は――。
すでにドラギアにあっさりと入門を遂げ、市中の中心を抜けようとしていたのだ。
目指す先は、城塞にほど近い城下町。
ここに潜入し、“騎士”アンヴァー・マクライアンの帰還を待ち、機を見てこれを襲撃。彼女の持つ貴重な、首都ギルディ=デボネアの城塞に出入りできる鍵を入手することが目的だ。
この作戦を聞いたエトルシャンが、自ら提案してきたのが――。馬車を買い、自分は御者として荷の木箱の中に3人を隠し、目的地まで案内するという手段だった。
建前の目的は、山脈の見張り小屋の物資切れに伴う、買い出し。そのため空の木箱を持参したという設定だ。まだ荷の入っていない箱と云っておけば通常は検品も逃れる。
しかし、通りのいい話も、怪しまれればどのみち効果はない。それに対する最大の恩恵が、エトルシャンがドラギアで得ている圧倒的な信用であった。“監視者”の身体の一部である山脈に常駐するという危険を一身に背負い、鉱脈の情報を逐次伝える彼の仕事。それはアシュヴィン達ハルメニア人はもとより、市井の実情を余り知らないティセ=ファルにも想像もできないほどに、市民の尊敬と感謝の情を集めていたのだ。
どの門や検問所に行っても、どの衛兵たちも例外なく『よお、ひさしぶりだな、エトルシャン』、『親方に宜しく云ってくれよ』、『身体に気をつけろよ』など、極めて親しい言葉をかけてきていた。当然検問など実質ないに等しく、貌だけで通行手形として通用する有様だった。これによって一行は、まるで無人の街道を進むように敵地ドラギアの内部を順調に移動できていたのだ。
「全くもって、左様よの。ただの子供と侮っておったが、これほど使えるとは。おかげで、最大の難関が拍子抜けするほど容易に片付いてしもうた。
これには、あやつにも何か、褒章をとらせねバノ……」
ヨシュアは少しぎょっとしてティセ=ファルを見た。褒章といって、傍目にみてもエトルシャンにとって一番のそれにあたる物とは、外ならぬティセ=ファル自身だ。それを自覚してのことなのか? とは一瞬思ったが、実際はエトルシャンに無関心な彼女は、すでに別の事に思考が向いているようだった。
と、そのとき――。
箱の外から、明らかに異様な喧騒が、耳に入ってきた。
通常の雑踏の賑わいとは全く異質な、怒号と、何かがぶつかるような、物音が大量に入りまじった、それ。
ただならぬ状況を察知したアシュヴィンは、ようやく息の整った口から、言葉を発した。
「なんだ――いったい? 反乱や、デモでもあったっていうのか――?」
それを聞いたティセ=ファルの目がすっと細められ、急激に冷淡な雰囲気を帯びた。
そして乾いた口調で、言葉を継ぐ。
「そうか、そなたらは知るまいの……。
何ら珍しいことでは、ない。あやつらが……『あの一族』が現れたならば、人として当然見せる反応だ。
おそらく現在のこの状況は――そなたらハルメニア人が攻め寄せたことで、時を合わせたように決起してきた“ルーンの民”への対策であろうが――。
戦を想定し、その尖兵としてあれらが送り込まれる。そんな時は大抵、こうなるもノダ」
「一……族?」
猛烈に嫌な予感がして、アシュヴィンは木箱の隙間から外を見た。
そしてすぐに、嫌な予感の的中を思い知らされることとなった。
市場には、『護送車』が現れていた。
馬車の荷台に格子を組み、その中に人間を閉じ込める形態ではあったが、その格子が尋常なものではなかった。
構造材一本あたりの太さは10cmを軽く超えている。そして材質は、総オリハルコン。
通常はそれが組まれないであろう足元の台車の部分までも格子が組まれ、堅牢な立体構造となっている。
そのような格子の中に座らされていた、5人の男女。
全員が銀髪褐色の肌という特徴をもつ――サタナエル一族、に他ならなかった。
存在する話は伝え聞いていたものの、上陸後にレエティエムが初めて遭遇する、レムゴール人としての一族であった。
粗末な服を着させられ、全身にオリハルコンの鎖がかけられている。
一様に、虚ろな表情、生命の感じられない目が痛々しいとしかいえない状態だった。
そして、その一族に対する群衆の反応は――。
考えられる限りの、最悪のものであった。
罵声を叫び、殺到し、物を投げつける。
ゴミのように嫌悪を表すもの、石礫のような物理的なもの。挙句はダガーのような刃物。
あらゆるものが執拗に投げつけられていた。
一部は当然一族の者にあたり、石や刃物があたれば負傷し、傷は再生される。
見てさらに群衆がヒートアップする。それが繰り返され続けた。
アシュヴィンらは詳細に伝え聞いているサタナエル・サガの中でも、特に悪名の高い一節。
都市ドゥーマで捕縛・拘束されたレエテ・サタナエルが群衆から憎しみの攻撃を受ける、その様子を現実のものとして見させられた。そうとしかいえない状況、であった。
「――っ! ひどいな……」
ヨシュアが貌をしかめて呟く。サタナエル一族と特別の関係性のないヨシュアでさえ、その反応である。
当然、サタナエル一族の人間と家族に等しい関係にあるアシュヴィンが、これを目の当たりにして耐えられるはずはなかった。
彼はバリバリと歯を噛み鳴らして、怒気を露わにした。外へ出て行こうとする身体を押しとどめられたのは、最低限の理性であった。
「……!!! ……!!!!
何てひどいことをっ……よくも……よくもこんな!!!」
そして、ティセ=ファルに詰め寄り、彼女に問うた。
「……ハルメニア大陸でも、過去に同じ状況は正直あった。
それは、一族のある人物に自分たちの英雄を殺され、名誉を汚されたという恨みをもった人間たちの仕業だった。
教えるんだ……でないと、納得がいかない。
なぜレムゴール大陸では、サタナエル一族という固有の民族が、これほどの特別な憎しみを買っている。何か、あったのか、過去に。恨みを買うほどの、何か過ちがあったのか。
それは、ダルダネスの文献にも情報はなかった、と聞いた。だから知っているだろうお前に聞く。
なぜだ」
ティセ=ファルは一つため息を吐いた。倦みをはらんだ反応だった。全てのレムゴール人を代表するような――わざわざ話したくもない、そんな負の感情が見てとれた。
「仕方ないの。教えて進ぜよう。まあ大方は、今そなたが己の大陸で挙げた例にも近かろう。
人が、恨みを――更にいえば殺意に近い感情、それをしかも何世代もの長きにわたって維持することの背景には、どの場所、どの時代でもあるような、ありふれた血なまぐさい出来事が関わるものであると相場は決まっておる。
ことレムゴールに関していうのならば、ダルダネスではなく三州で特にその感情は強いであろう。怨念もさることながら、怖れもな。
それは今よりおよそ200年の昔。
三州が最も混迷を極めた戦乱の時代に起きた、ある出来事が全ての元凶なノダ――」