第六話 ハルマーの危機
最前線、アケロン南部地域から、南西にヌイーゼン山脈を越えて1000km以上。
ダルダネス州の沿岸に位置する、ハルメニア人唯一の公領、ハルマー。
上陸の日より二か月を数えようとしている現在、要塞などの建築物、住環境は当初より目に見えて整えられていた。
現状、まだ1000名近くの人員が常駐する要の「城塞村」というべき様相になり、生活の賑わいが感じられるようになっていた。
生活必需の機能がそろえば、次に続く快適性、文化の要素に力は注がれる。
娯楽などもさることながら、生きることとある意味同レベルの重要な意味をもつ宗教の設備には特に注力がなされた。
シュメール・マーナの施設も勿論建設されたが、必要な要件にコストのかかるハーミアの聖堂については、当初のころとは見違える石造りと木造を合わせた荘厳な建築物に姿を変えていた。
聖堂内でひときわ巨大なハーミア聖架のかかげられた、礼拝堂。
ここに今、一人の貴人が訪れていた。
聖架に向かい、うなだれ膝を着き、正式なハーミアの祈りを捧げる、美貌の壮年男性。
エストガレス王国元帥にして王配、ジャーヴァルス・ドマーニュ・エストガレスだった。
サロメの甥である彼は、従姉レエテと面差しがよく似ている。
気品を感じさせる整い過ぎた貌と白銀の鎧、白のマントを身に着けた彼は、聖画から抜け出てきたかのような神々しさを持ち合わせる。
祈りを終えたジャーヴァルスに、傍らで付き添っていた高僧が声をかける。
「さすがはジャーヴァルス殿。拙僧が見ても惚れ惚れするほどの、正しく真摯で美しい礼拝。
教徒の皆に、手本として見せたいぐらいですな」
高僧は、青と白の伝統的な高位僧服に身を固めていた。
年齢は35歳前後か。ジャーヴァルスを超える190cm以上の長身と筋骨隆々の肉体をそなえ、僧の中でもいわゆる修道僧に相当する知勇兼備の地位と知れた。貌は無骨さも備えているが極めて厳かで端正、優しさを感じさせる。
その印象のごとく、彼はハルメニア大陸史上最高の宣教者とうたわれ、最大の人徳をもって鳴る存在。
法王庁次期枢機卿で、もっとも次の法王に近いと云われる男、オリガー・ティールパイク司教であった。
「オリガー殿ほどのお方にお褒めをいただくのは、それこそ過ぎて身に余る光栄で教悦至極。
僕はいちハーミアの徒として、当然の行いをしているだけのこと」
心からの神への慈愛にあふれた笑顔で返す、ジャーヴァルス。オリガーは益々貌を紅潮させて、続けた。
「いやいや、そのご多忙を究る御身で、日に二回の礼拝を欠かされないことは凡庸ならぬ信仰心の証。謙遜なさることはない――」
「まったくだ。その品行方正なお利口さんぶりで、王配で元帥なんて地位にいらっしゃる訳だしな。
が、そうだとしてもいい気分じゃねえな。
お高い理想とやらのもと、化けの皮をかぶってシュメール・マーナを弾圧し、サタナエル一族を差別するような偽善野郎が――。曲りなりも自分の大事なダチにのぼせ上んのはよ」
オリガーの言葉を遮り、背後からかぶせられる野太い声。
礼拝堂の壁に腕組みをしてもたれかかる、ドミナトス=レガーリア王国元帥、ムウル・バルバリシアから発された声であった。
その言葉を受けたオリガーは――。表情こそ眉ひとつ変えないながら、色をどす黒く変色させ、こめかみにびっしりと血管を浮き上がらせた。
「異教徒は、神聖なるハーミアの堂に立ち入らないで頂きたいですな……。ムウル殿。
せっかくの純白の気が、黒く汚れる」
これにムウルは顎を上げ、蔑むような笑いを浮かべ、返した。
「こいつあ言葉が悪かった。あまりにもずけずけと核心を突いちまったようだなあ。オリガーさんよ。
この際だから云わしてもらうが、俺は最初から、あんたみてえな奴がレエティエムに加わることに反感を持ってた。
シュメール・マーナの事は置いとくとしても、サタナエル一族を救い、大陸に安寧をもたらす目的には到底そぐわねえ存在だ」
「お言葉を返すようだが。拙僧が加わったのは間違いなく、大陸に安寧をもたらすことこそが大目的。
神の摂理から外れた歪なる存在が人に戻るというならば、それは我がハーミアの徒としておおいに歓迎すべき事象であり、大陸は平穏を得るであろう。
そして拙僧には、そのための『手段』が問題とならぬか、監視する義務があるのだ。
例えば怪しげな血の儀式や、面妖な魔導を用いるなどという手段では、到底人に戻ったなどとは認められぬ。
拙僧は全ハーミア教徒の理解を得、その安寧を護ることが使命であるとご理解いただきたいものだ」
「……ほら見ろよ。まず一族の皆を人、とも思っちゃいねえ。原理教義とやらに毒された狂信者ってやつだ。
あんたが“真正ハーミア”じゃねえってのは、到底信じられねえ。だからシエイエス様は法力の戦力としてガレンス師のほうを伴い、あんたをこのハルマーに留め置く選択をしたと思うぜ。
すでに敵さんとどうにかして通じ、この場所の情報もバラしてんじゃねえのか?」
「あのような暴力集団と同一視されるのは、迷惑極まる。拙僧と法王庁はあくまで事象を正しく見極め、正しい判断を得たいだけだ。
そのうえ憶測で、滅多なことを云うものではない、ムウル殿。貴殿の為になるとは思えん。
拙僧も云わせてもらうなら――」
「そこまでです、オリガー殿。ムウルも、それ以上はもう止せ」
決して大声でないが、有無をいわさぬ威厳と意思のこもったジャーヴァルスの制止の声が響き渡る。
それを聞いたオリガーとムウルは、睨みあいつつも口を閉じた。
「大陸の宗教観の違いは、難しい問題ゆえ僕はどちらかを否定する気も肯定するつもりもない。
ただ、感情に任せて一線を超えた言葉を口にするのは、慎むべきだ。我らレエティエムは出立前、判状にて血の誓いを交わしたもの同士。今は異邦の地で、力を合わせ脅威に立ち向かわねばならない。
……それにムウル。君が嫌いなハーミアの礼拝堂にまで入ってくるほどだ。何か大事な話があって来たんだろう?」
親友の鋭い視線を受けたムウルは、肩をすくめて話し出した。
「ああそうだ。現ハルマー司令として実務の忙しいお前と、差しでじっくり話ができるのはここぐらいかと思ってな。
上申、てやつだ。
俺とメリュジーヌがダルダネスから帰還して、もうそろそろ3週間になる。充分回復して英気を養えた。俺らの力は必ず役に立てるし、何よりロザリオンやモーロックの仇ども――“ケルビム”の奴らを生かしちゃあおけねえ……。
俺はな、ジャーヴァルス。メリュジーヌの奴と二人で、皆のいるアケロン州へ救援に向かいてえと思っている。その許可を出してもらいてえ」
ジャーヴァルスはその進言を半ば予期していたのか、特別驚く風もなく両目を閉じ、首を横に振った。
「ムウル。それは認められん。アケロンからの伝令があるまで、我らにこのハルマーを死守せよとシエイエス様は云われた。君の気持ちは良く分かるが、僕はシエイエス様のご意向に従う。
魔工船を死守し、退路を確実にする。これに残った我ら全員の力を結集する」
ムウルもまた、ジャーヴァルスの性格をよく知る誼で、彼の答えをほぼ予期していたようだ。動じず真っ直ぐに彼の目を見て反論する。
「云うと思ったがよ、以前と違ってもうダルダネスの連中が牙を向いてくる可能性は万に一つもねえし――。
戦力については俺とメリュジーヌが抜けても心配いらねえだろう。
ボルドウィンの魔工船内に眠っている、“あいつ”の力を借りれば。
“あいつ”の手綱は今、ラウニィー様からお前が引き継いでいるはずじゃねえか、ジャーヴァルス?
シエイエス様の戦力想定には、まだ“あいつ”までは含まれていないはずだ」
「――ムウル――!!」
ムウルが発した言葉に、それまで冷静だったジャーヴァルスが突如動転し、声を上げた。
その様子に、オリガーがジャーヴァルスに向けて疑問を発した。
「ジャーヴァルス殿。“あいつ”とは一体?
ボルドウィン船にそのような特別な何かが存在しているなど、私は耳にしたことはございませんが……?」
ジャーヴァルスが目を閉じて一度歯を噛みしめる。オリガーが今云ったとおり。ムウルの云う“あいつ”は大導師ナユタの意思により、法王庁関係者や、一般兵卒には秘匿されている存在なのだ。
自分の我を通すために、ムウルはわざとここで口にしたと思われるが――。
事ここに至っては、オリガーにも事実を話さざるを得ない。
「オリガー殿……。
非常にお話し辛い事ではあるのだが、あのボルドウィン船の船底には――」
歯切れ悪く話し始めたジャーヴァルスの言葉はしかし、突然扉を叩き開けてきた兵士の叫び声で完全にかき消された。
「――ジャーヴァルス司令!!!! 火急中の火急の用件にて、失礼仕ります!!!
敵襲に、ございます!!! 数は不明――そして、敵は人に、あらず!!!」
顔面蒼白の兵士から告げられた、驚愕の言葉。それに驚愕の反応で返す一同だったが、“人にあらず”の言葉を聞いていち早く反応したのは、まさに2週間以上前にその人外を相手どった、ムウルであった。
「野郎――おおおお!!!」
*
礼拝堂への火急の報告より、時を遡ること10分程前。
メリュジーヌ・サタナエルは一人、ハルマーの防壁の外で佇んでいた。
見た目は可憐な少女のような彼女が、夕焼けの空を前に草原に佇む様は、非常に景色に映えてロマンチックに見える。
メリュジーヌの様子は、2週間以上前に比べれば大分復調していた。
ハルマーに帰還した当初はモーロックとロザリオンを共に目の前で失ったショックから、不眠と著しい体調不良が続き、寝込んでいたほどだった。
だが今の彼女は血色もよく、表情にも気力が戻っていた。
それと同時に現れてきていたのは――。“怨讐”の炎だった。
モーロックを殺した、“アルケー”ティセ=ファル。
ロザリオンを殺した、“カラミティウルフ”フィカシューと“バハムート”フェリス。
これら不倶戴天の敵を、決して生かしてはおかぬ。
夕焼けに照らされる、遥か彼方にある山脈、ヌイーゼン山脈。
この向こうに必ずいる仇敵に殺意を向け続けていたのだ。
ムウルがジャーヴァルスに許可を得られしだい、二人で山脈を越え、シエイエスやアシュヴィンらの居るレエティエム本隊に合流する心づもりだった。
睨みつける山脈から、一陣の突風が吹いた。
そしてその風に揺られた、一枚の枯葉がメリュジーヌの目の前を漂う。
枯葉を何気なく追っていたメリュジーヌだが――その表情が見る見る凍り付いていく。
枯葉から、急速に膨張する魔力。
0であった場所から、魔力が発生するなど、有り得ないこと。
それは膨張するにつれて、呼応するように枯葉から伸びた糸――糸が紡ぐ繭――と物質化をともない、急速に大きくなり続ける。
繭はどす黒い色で徐々にぬめりを形勢し、瞬く間に5m大の大きさにまで成長する。
「あ……あ……あ……」
やがて繭の中から、巨大な触手が十数本、突き出る。
触手は絡まって極太の枝になり、中央に毒々しい花、を形成する。
後ずさっていたメリュジーヌの目前にまでその花は迫り、花はやがて咲くように開き――。
「い――やああああ、ああああああーー!!!!!」
百戦錬磨の戦士、メリュジーヌが少女のような金切声で、叫んだ。
その有り得ない存在と、自分が虫けらにしか思えない、神魔の強大な魔力に対して。
花が開いた中から姿を現した、粘液でずぶ濡れの、全裸の絶世の美少女。
「それ」が浮かべるぞっとする無表情な口。そこから発される不気味な不協和音を、メリュジーヌは確かに聞いたのだった。
「ガ――ハア――は――――るめ――にあ――。
――ノ――レラ――コロ――ス――。
――ンメツ――スベシ! ハハあああああアア――!!!」