第三話 砂塵の進軍
ヌイーゼン山脈から北へ、50km地点。
山脈を出発したレエティエム本隊残存部隊は、指揮官アキナスの指示で北上を続けていた。
“監視者”の災厄後、アシュヴィンらと袂を分かって以来――。
ダルダネス、アルセウス城内ティセ=ファルの書庫から発見された地図のみを頼りに、ひたすら歩みを進めていた。
レイザスターとイシュタムが率いるリザードグライドは先行させてはいるものの、こちらは大きな問題に直面していた。
リザードグライドは本来ダルダネスのような森林地帯に生息する生物であり、生存に多量の水が必要で――巨体を支える栄養分、つまり給餌量も膨大であった。書庫の予備知識から知ってはいたが、想定以上に彼らの衰弱は激しかった。
馬車の大半を失ったレエティエムにとって、人間が生存するのに必要なラインを超えるのは時間の問題。あと10km水場を発見できなければ、彼らを手放す、つまりは屠殺し食糧物資に変えざるを得なくなる。
重苦しい雰囲気漂う一行で、エルスリードは隊の後方で砂上を歩いていた。
隣には同じく殿を務めるフォーグウェン兄弟が何やら話しこんでいるが、エルスリードの目は前方をガレンス師と並んで歩くレミオンの逞しい背中に固定されていた。
そして、数年前に彼と交わした会話が脳裏に浮かんできていたのだった。
*
年に数度母ナユタに連れられ、本国ボルドウィンから出生地アトモフィスを訪れるエルスリード。
戻った時は、時間を惜しんで遊び合ったり語り合ったりする3人の幼馴染との再会が、最大の楽しみであった。
しかしそんな中でも、ただ一つ疎ましい状況があった。
当然、自分に一方的好意を寄せるレミオンからの、執拗なアプローチに他ならなかった。
(いいだろ、エルスリード……。一度でいいからさ。俺と二人で行こうぜ?
街でも、お前の所のヴェヌスブルグでもいいからさ。一度一緒に食事、だけでもいい。頼むよ)
(あなたみたいなお馬鹿さんには云っても無駄なのは分かっているけど、何度でも云うわ。
私は軽薄で、とっかえひっかえ近づく女性に手を出し続けるようなろくでしには一切、男性としての興味は感じないの。未来永劫、あなたの誘いを受けることはないわ、以上よ)
(だからさ……それは自分に嘘のつけねえ俺の、単なる一面にしかすぎねえんだって云ってるじゃんか。
俺はお前のことをこの世で一番大切に思ってる。本心からな。お前を護れるならいつだって、どんな時でも命をかけられると思ってるんだ)
(誰にでも同じ事を、息をするように繰り返すのはご苦労様としかいいようがないわ。その理性と節操のなさが、問題だっていうこともわからないのね)
(それは違うぜ。一番大切に思ってるなんて、お前以外の女に云ったことは誓ってただの一度だってねえ。
俺には、根拠はねえが凄く強え予感があるんだ……。将来、凄え大人達がいねえ中で――。必ずお前には命に関わる危機が、それも俺だけがお前を護れる状況の中で、訪れるって予感が。
その時、お前を何があっても護り抜くって覚悟を、俺は何年もの間常に、新たにし続けてるんだ。
そういう、思いだけは――。俺はお前に、解ってもらいてえ)
*
その当時は嫌悪感をもって受け止めるだけの言葉だったが――。
時が経った現在において、レミオンが「予感した」と云った通りの状況は、このレムゴールという異邦の地で実際に訪れた。それも、2度も。
そして2度とも彼は宣言どおりに、自分の命を失う危険と苦痛に直面しながら、死に物狂いでエルスリードの命を救った。彼女に大怪我ひとつさせることなく。レミオン・サタナエルの強い信念、さらには彼の全ての言葉は本物であるという事が証明された。
その事実を受けて確実に、エルスリードがレミオンを見る目は、変化していた。
彼に対する態度が変わったのも自覚はあるし――。何より目がつねに、自然に彼の方へ引き寄せられる。
数日の間、エルスリードはその己の変化に戸惑いを隠せなかったのだ。
「…………スリード。エルスリード。ねえ、エルスリード!」
遠くから呼ばれたような自分を呼ぶ声。それが一気に大音量になって、エルスリードはビクッと身を震わせて自分を呼ぶ相手を見た。
「な……な、何、ミネルバトン。何か、用……?」
冷静なエルスリードに似つかわしくない驚きと若干の怯えを伴った、表情。それを見たミネルバトン・フォーグウェンは、軽薄な彼にこれまた似つかわしくない、目を少し大きく開けて頬を赤らめた表情で返した。
「い、いや……。な、なんかさ、ずっとボーっとしてレミオンの方を見てるから、どうしたのか声をかけたら、何も反応がなかったからさ。急に大っきな声だして、ごめんよ……。
そ、それはともかく! 僕ら3人が並んで砂の上を歩いているこの状況、かつての探索任務を思い出すなあ、って話をしてたんだよ、ねえ、フォリナー?」
話を振られた双子の弟フォリナー・フォーグウェンは、兄と対称的な鉄面皮の中に、わずかな微笑みをたたえて応えた。
「今、そんな思い出話に浸ってる状況ではないけれど……。懐かしいのは確かだ。
2年前だったか? ガリオンヌ統侯領沿岸の砂丘で、ミナァン卿に率いられて僕らは気脈の乱れに向かっていた。その道中で――」
「“砂虫”の群れの襲撃を受けて、私達がチームであいつらを撃退したのよね。
よく、覚えているわよ」
エルスリードも目を細めて笑みを浮かべながら、これに応えた。
「私達、“許伝”になってから初陣だったのに、興奮で我を忘れて怖い物知らずで……。
今でもどうやって出来たか分からないけど凄いチームワークで、あなた達が光魔導の乱反射で追い立てた“砂虫”どもを、私が作った絶対破壊魔導の穴に追い込み一掃できた。
あの時の気持ちよさ、達成感、未だに忘れられないわよ」
「そうだろそうだろ!? 僕もただのお調子者だって云われてた汚名を返上できたし、エルスリードもフォリナーも、天才と云われた評価を不動のものにできた。そんな状況と同じ場に、今こうして僕ら3人が揃ったっていうのも、何かハーミアの手が働いている気がしないかい?」
彼ら魔導士が信仰するはずもない神の名をしらじらしく挙げながら、ミネルバトンはこっそりエルスリードの肩を抱こうとしてゆっくりと手を伸ばす。
「けど……兄さん。忘れちゃいけないよ。そのあとに地中から現れた“主”――100mはある怪物が、浮かれる僕らの前に現れた事を。
絶望に怯える僕らの前にミナァン様が現れ、氷雪魔導奥義で奴を倒し事なきを得たけど。
僕らの油断に、そのあとミナァン様からのきついお灸据えがあったって事をね」
ミネルバトンは苦い貌をして、エルスリードに伸ばそうとした手を止めた。
そしてむくれながら言葉を返す。
「ちぇ……! 分かってるよ。天は存外に、人の心象を見ているものだ。真の危機というものはどういうわけか、心の警戒を解いた時にこそ現れる……だったよな――」
そのミネルバトンの言葉を遮るかのように――。
突如、アキナスの叫びが彼らの耳を打った!
「全隊、止まれ!!!!
前方に……敵勢力あり!!!!」
ハッと3人が前方に目をやる。
そして、そこにある事態を理解するのとほぼ時を同じくして――。
彼ら3人の全身を、暴力的な魔力が貫いていった!
「ううあああ!!!」
「くっ!!」
「きゃっ!!!」
それぞれ苦悶の叫びを上げながら、目前の状況を確認する。
先頭を歩くアキナスの前方30mほどの位置に、「彼ら」はいた。
砂塵の中に浮かび上がっていた。
馬……ではない。ティセ=ファルの資料で見た。似てはいるが遥かに巨大で、背中に3つもの瘤を有する独特のフォルムをしている動物、ラクダ。4頭ものこれら家畜に引かせる巨大なソリ型輿の上に、3名の人間が腰かけていた。
一人は、緑がかったざんばら髪をすりきれた皮のハットに収め、黒眼鏡をかけた無頼の男。身に着けた皮のコートには無数の武器が取りつけられている。
今一人は、城仕えのメイド風の黒衣に身を包んだ、ボブカット黒髪の美少女。
胸に大切そうに抱きかかえられた紫の巨大な蜥蜴が、不気味な両眼をこちらに向けている。
そして最後の一人は、斑な金髪をツインテールにした、細身の極めて美しい女性。が、その容姿は原色をけばけばしく使った皮、網の派手にすぎる衣装と、厚化粧の下にゆがめられた狂気的な笑みで相殺されてしまっている。背負われた巨大な円月輪はその戦士としての技量を誇示するかのように陽光を反射し、銀に輝いている。
容姿そのものは、同じくティセ=ファルの資料で確認している。
抑えていたものを、敵と遭遇したことで開放したであろう暴力的魔力も相まって、確信をもっていえる。
敵の名は、“ケルビム”幹部エクスシア麾下、精鋭部隊“騎士”。
ドゥン・ハンター。
ガリーシェル・ガーフィールド。
アンヴァー・マクライアン。
この3名である、ということが。
狂気に満ちた両目を更に開き、舌なめずりをしながら輿を降りてくるアンヴァー・マクライアン。
その禍々しい姿を目の前にして、エルスリードは心でなく身体で悟った。
それこそは、かつて戒められた、「真の危機」そのもの――いや、それ以上の、災厄であるのだということを。