第二十一話 蠱惑の香
ティセ=ファルのその発言に、アシュヴィンは目を見開いた。
「もう……やめろ。
それは流石に、罠以外の何物でも、ない。
自分への憐れみも計算し、自分が助かりたいだけの出鱈目だ……」
「そう思うのも、無理はなかろう……。ゆえに、選び取るそなたら次第だ……。この通り、今のわらわは放っておけば勝手に死を迎える身……。
だが根拠なき申し出でない事、そなたにはもう理解できておろうな、アシュヴィン?
我ら“ケルビム”の結束の脆さは理解しておろうし、感知した限りすでにそなたはあの悪魔のケダモノと相対したのだろう? ならば感ずるところはあるはずだ。
その上にわらわがアケロンの王家に連なる者、と聞けば、どうだ……? あのダルダネスの戦いの折の、わらわとディーネの会話も聞いておロウ……」
アシュヴィンは歯を噛みしめた。そう、ディーネは確かにティセ=ファルを“アケロンの輝姫”と呼んだ。聞く中では“ケルビム”には、それまでの人生を捨てて力を手にし邪悪の道を進んだと思われる者が多い。彼女が旧王家を滅ぼされ、ヤン=ハトシュに私怨を抱く存在である可能性は十分にある。
そして仮に一時的にでもティセ=ファルが自分に力を貸してくれるとしたら――。
正直な所、これほど心強い味方はいない。
幹部として敵の事情を知り尽くし、何よりも異次元の実力を持つ大魔導士。この女の協力一つで、すでに自分の目的達成は盤石な気すらしてくる。
道義からすれば、本来取るべき道ではないかもしれない。だが会話で見せられた、ティセ=ファルの思いのほか人間的な側面は、それに対するアシュヴィンの心の中の少なくない免罪符となった。
何よりヤン=ハトシュからエイツェルとラウニィーを取り戻し、その中で仇敵への仇討ちも狙いたい、と同時にその壁の高さに絶望していたアシュヴィンにとっては――。
その悲願への最短距離を行ける巨大な誘惑は、とても振り払えそうになかった。
「アシュヴィン……受けよう、そいつの申し出を。
おれはそれが、最善の道だと、思う……」
ヨシュアも完全に同じ思いと見え、アシュヴィンに云った。
それが最後に背中を、押した。彼に最終的に誰も頼らないとうそぶいたが、アシュヴィンこそが本当は誰かに頼りたくてたまらなかったのだ。
(今だけ……今だけだ。この女を、利用する。ただそれだけだ……。大切な人の為……!
申し訳ありません、モーロック様、メリュジーヌ様……。お二人の思いを今だけは裏切ることお許しください……。どうか……いずれ、必ず……!!)
噛みしめすぎた歯茎から血を滴らせながら、アシュヴィンは言葉を押し出し、同時に両手の剣を腰に差し戻した。
「わかった……!
お前と手を組もう、ティセ=ファル。
これは、好きに使え。その代わり約束を、違えるな……!」
そして懐の止血膏の容器を取り出し、ティセ=ファルに放った。
ベッドの己の脇に落ちたそれを、息を荒げながら死に物狂いで手に取るティセ=ファル。
その惨めな姿には、かつての王者の貫禄は欠片もなかった。
ティセ=ファルは真っ先に己の汚れたドレスの裾を捲り上げ、傷を露出させた。
凄惨な傷と同時に、眩しいほどに整いくびれた腰と乳房の下半分が露わになり、その場に居た初な少年三人は貌を真っ赤にして慌てて視線を逸らした。
おそらくは“バハムート”の攻撃でえぐられ損傷し、感染し壊死していた大腸と胃。そこに大量に塗布した止血膏は清らかな光を放ち、瞬く間に細胞分裂を異常活性させ、患部を猛烈な勢いで治癒させていく。
ルーミスの強大な法力は、傷再生に続けて血液の増加、栄養分の補給も一定量行ったと見え――。
ものの30分も経った時点で、それまで黒味のかかった紫色であったティセ=ファルの貌色は、肌色に近い血色まで回復してきたのだった。
健康な状態のティセ=ファルを知らないヨシュアとエトルシャンは、回復によって更なる神々しさを放つ彼女の美しさに、ただただ見とれるばかりであった。
致命傷を回復したティセ=ファルは、大きく息を吐くと自力で起き上がり、ベッドに腰かけた。
そして包帯をほどきながら、他の傷に止血膏を塗布していく。
その様子は美しいだけではなく極めて艶めかしく、少年三人はまるで大人の女性の部屋で私生活を覗き見ているような背徳的な感覚に、心臓を脈立たせた。そして待たされている立場であるにも関わらず、時間を忘れてその様子を凝視し続けてしまったのだった。
そして一通りの処置を終えたティセ=ファルは、背後のエトルシャンに向けて涼やかに云った。
「エトルシャン。傷が治った途端、急に空腹になってしまった。
いつものあのスープを所望する。今までは余り食が進まなんだが、今は鍋一杯食したい気分でな。頼ムゾ」
「はっ――ははははははは、はい!!!! ただいま用意しますデス!!!」
貌を真っ赤にして調理場へ走るエトルシャン。ティセ=ファルはそれを見送ることなく、今度はアシュヴィンに向けて両手を差し出した。
「アシュヴィン。すぐに、ここへ来てたモレ」
訝しむも云う通りに彼女に近づき、その手をとったアシュヴィンに対し――。
ティセ=ファルはその手を強く握りしめ、引き寄せながら立ち上がって思い切りアシュヴィンに抱き付いてきた!
「なっ……!!??」
一瞬警戒したアシュヴィンだったが、次の彼女の行動に、完全に身体が弛緩した。
何とティセ=ファルは、躊躇うことなくアシュヴィンの唇に己の唇を重ねてきたのだ。
「……!!! ……!!!」
動揺するアシュヴィンだったが、ティセ=ファルは唇を放さないばかりか、より強く自分の身体を密着させ、唇を吸ってくる。ヨシュアと、調理場で異変に気づいたエトルシャンが呆然とする中、ティセ=ファルはようやく唇を放し、恍惚の表情で呟きながら、続けざまにアシュヴィンの頬や耳や鼻に口づけをしてきた。
「ああ……可愛い……近くで見ると、本当に可愛い……。
嬉しい……助けてくれた上、本当にわらわの物になってくれるとは、嬉しいぞ、アシュヴィン……嬉しい……。あれからそなたの事ばかり、考えておったゆえ……。
もうそなたは、わらわのもの……可愛イゾ……アシュヴィン……」
余りの異常事態に、アシュヴィンはどうして良いか分からずひたすら貌を耳まで真紅にして硬直していた。だがティセ=ファルの手が自分の髪を撫でまわした後肩に下がり、口づけが首筋に至った時点で、慌てて彼女の肩を押して身体を放した。
「はあ、はあ、はああ……や……やめ……」
背中を上下させてようやくそれだけ云ったアシュヴィンに対し、ティセ=ファルは若干の不満をにじませやや頬を膨らませた。
「何だ……つれないのう……。わらわに反抗する時のそなたはあの母親と魔力の相がそっくりになるゆえ、できればやめてもらいたいのだがの……。
もうわらわは、あの恐ろしい化け物女とは金輪際、絶対に戦いたくないほどなのデナ」
なぜ、シェリーディアが自分の母親だと分かったのか――。と考えたがすぐに、この女なら魔力を見ただけで血縁関係など全てお見通しなのだとすぐに理解した。
「それに誤解しておるかもしれぬが、わらわはまだ齢22。
まあそなたよりは年上でも、婚姻しても不思議でないほどには違わなかろう? それほど拒む理由はあるまい。
とにかく……本当にわらわは嬉しい。この先は宜しく頼ムゾ……アシュヴィン……フフフ……」
この女は一体何者なのか。元々このような一面を真実として持っていたのか、演技なのか? だが、ダルダネスでの姿との途轍もないギャップに、戸惑わされる。ロザリオンも別の意味で二面性を持っていた。自分はそのような女性と浅からぬ縁があるのだろうか?
だが目を潤ませ笑みが止められず、どうやら本当に言葉どおりに自分を好いているらしい――それは一人の男性というよりは愛玩動物に近いものかもしれないが――自由で危険きわまりない女性との冒険行。それがもたらす波乱が、自分にとって未知の困難をもたらす予感を、すでにアシュヴィンは抱いていたのだった――。