第十七話 監視者
一同の前には、開けた視界に展開する広大な山脈があった。峠を越え渡り切ったヌイーゼン山脈。それをダルダネスの反対側から見ている状況だ。
登る段階では数十m先の視界すら怪しかった砂煙は、いつの間にか完全に晴れて視野を開かせていた。空は快晴にほど遠い曇天の上、上空には気脈により生じる歪みがあったが、そこにある自然の全てが一望できる状態だった。壮大なパノラマで地平線沿いに広がる山脈は、1000~1500m級と思われる比較的低い、樹一本生えない赤茶けた山々で構成される。
そのような――異様ではあるが大自然の一つにしか過ぎない光景の、激変。
先刻、敵の謀略によって引き起こされたと思しき攻撃と地震。それが現在、おそらくは目に見える5~6km先の山脈最高峰らしき山を中心に広範囲で引き起こされている。
地震の原因は――。この光景を目にしている者ならば全てが、火を見るよりも明確に理解していた。
山々の内部、かそれとも山々そのもの、なのか――。
中心部からそれは姿を現していた。
末端の山々の山頂を突き破って現れる、途方もなく巨大に過ぎる「触腕」とでもいうべきもの。
無数の関節をもつ人間の腕と表現されるべきそれは、岩盤を表皮に、多数剥きだされた悍ましい細胞を赤赤とぬめらせ、そこから生み出されるショウジョウを無数に払い落しながら曇天へ上昇する。
腕、は手前の山で判断する限り、「左右」に6本展開。それぞれの腕は枝分かれをしつつも直径20~50m、総合的な長さは5~10kmに及ぶのではないかと思われた。
信じられない轟音を立て、想像しうる天変地異のレベルを越えた山脈の崩壊を伴いながら、蠢き地上に出ようとしているのだ。
やがて――現れた。その触腕が伸びる大元、「本体」、いや「頭部」、が。
はるか先に見える、1500mを越える最高峰の山を崩壊させながら、現れた、この途方もない怪物の「貌」と呼ぶべきもの。それは、今や雲を衝くような高さにまで上がり全貌を見せる。
口――と呼ぶべきだろうか。それはかなり凹凸の激しい形状を描きながら、左右に長く展開し裂ける。遠目に予想するしかないが――おそらくその薄く開かれた口、だけでも長さ300mには達するだろう。
鼻、はない。その代わり、目は――5つ、あった。赤黒く濁り、瞳はなく、蠢きはするが焦点の定まらぬ直径50mは超える目が、想像もできぬ面積の貌に、無作為に散らばる。頭部全体の形状は不揃いな三角形のようで、それ自体が――。もはや一個の山と云って良い、500mに届く横幅と300m以上の縦幅を持っていることが読み取れる。
山脈に埋まっている胴体、と云って良い部位などを含めれば――。もはや大きさは想像を絶する。
ハルメニア人のレエティエムにとっては、途方もない巨大な怪物という意味で初見ではないものの――。
2~3kmレベルの体躯を持つリヴァイアサンやクラーケンと比較してさえ、さらに巨大にすぎるスケールの怪物――いや、神そのものと呼んで良い存在。
しかも――。それぞれドラゴンやウミガメ、軟体動物という、サイズを度外視すれば近しい生物が現存する海の怪異と違い――。「これ」の外見は、人間に近いようでありそれでいて歪な、生理的嫌悪感の極致のような悪魔のものでしかなかった。
これに、相違なかった。これこそがダルダネスの情報にあった、“監視者”の全貌。
レエティエムの彼らは、最初に悲鳴を上げたエルスリードのみならず全員が絶句し、恐怖していた。
あくまで単なる巨大生物に過ぎなかったクラーケンらの洗礼を得ていても、何の効力もなかった。
人智を超えた異形、脅威の極限を、彼らは見た。
「はあ、はあ、はああ! はあ――ハアハア―ハッハッ―ハアア――!!!」
エルスリードは恥も外聞もなくレミオンにしがみつき、狂気に陥りそうな己を必死で抑えた。が、過呼吸状態に加え、下手をすれば失禁しかねない己の制御不能を、どうにか防ぐことも難しくなりそうな有様だった。
そして“監視者”は、遠い場所で遠近感の狂う超巨大な口、を薄く開き、発した。
人間で云うならば声、にあたる、それを。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!」
高い、のか低いのかは分からない。しかし人間の耳には確実に音として認識できない帯域の波でありながら、おそるべき規格外のエネルギーである、それ。
周囲を確実に振動させ地に波を立てながら迫るそれを前に、アキナスは全員に裂帛の声で指示を出した。
「耳を!!!!! 耳と目を塞げ全員!!!!! 早く!!!!!」
自身も恐怖に支配されながらの必死の声に、全員が指示に従う。
その僅か1秒後――。場の全員の全身と脳に、これまでに経験したことのない強烈で周波の大きい振動が突き抜けた。
「ううああああああ!!!!」
「ひいやあああああ!!!!」
「きゃあああああああ!!!!!」
それぞれが恐怖と嫌悪に満ちた悲鳴を上げつつも、どうにか誰一人聴力や感覚を失うことなく持ちこたえることができた。
そして、全員がすぐに、“監視者”に向き直る。
彼らの関心は――いや、彼らでなかったとしても一つだ。この途方もない悪魔がこれから、どのような所作、行為に出るのか、だ。触腕一本を振ってさえ大災害をもたらすことが可能なこの生物が、これから北の人類に対し敵対するのか。いや――そうではない。そのような人道的正義感などという崇高な感情からの思いでは決して、ない。
彼らはただ、恐れているのだ。この生物を「起こした」のは、ラヴァナという男の言を信ずるならば、彼らレエティエムの戦闘者たち自身。彼らが発する、史上稀に強大な魔力に刺激を受けたことで“監視者”は極度の敵対行動に出た。ならばそれが次に殺戮にかかるのは、自分たちなのではないか。そのような極めて利己的、そして根源的な恐怖にひたすら、支配されていたのだ。
誰かが、生唾を飲み込む大きな音が響く。
“死海”を越え、ダルダネスという“ケルビム”の牙城の一つを陥落させた英雄達が、ただ子羊のように震えて動けずにいたのだ。
その時――ひとり、声を発する者がいた。
普段であれば極端に寡黙な、女性。イシュタム・バルバリシアだった。
「あ――あれ――。
誰か――が、あのバケモノの身体を登っていってる。とんでもないスピードで。
信じ――られない。馬だ、黒い馬に乗ってる。
乗ってるのも――黒い服を着た――たぶん、男だ」
指先を“監視者”の頭部、山脈の最高峰に向けてとぎれとぎれに訴えるイシュタム。
その見た目の特徴を聞いたレミオンの表情が変わり、最高峰付近に目を向けてにらみつける。
遠すぎて彼の目では残念ながら捉えられないが、イシュタムは違う。射手の天才として魔工裸眼視力11.0を誇る目を持つ彼女が見たというのならば、間違いはない。
そして、彼女が訴える「男」の特徴には、ありすぎる程の覚えがレミオンにはあった。
つい先日、ハルマーとダルダネスの中間の森林地帯で遭遇し、自身らの危機を救った謎の男。
レミオンに勝利の原動力となる再生力とパワーを与えた、その男。
「“不死者”ドラガン…………。
てめえ……なのか……?」
*
“不死者”ドラガンは、愛馬を駆り、登っていた。
“監視者”の長大な触腕を。そしてそこから胴体部分へ。
通常の物理法則を無視したかのような縦横無尽の動き、蹄に爪でも着いているのではないかと疑うほどに“監視者”の身体に吸いつく黒馬は、驚異的なことに天地が逆転してさえ落ちることなく走り続ける。
騎乗するドラガンも、どのような体勢だろうと微動だにせず、片手で手綱を緩く持ちもう片方の手で葉巻を咥えるいつもの飄々たるスタイル。
全く現実味を伴わないこの人馬が猛烈なスピードで向かった先、胴体から伸びた「触手」――。とはいっても、高さ100m、太さ15m以上はある馬鹿げたサイズだが――。の先端に辿り着く。
そこからは――。視界に入りきらぬ人外の化身、“監視者”の姿が眼前に展開されていた。
不揃いで不気味極まる5つの眼光も、この距離で見ると自らを飲み込む地獄の口にしか思えぬ巨大さ。
だがドラガンは一切、汗をかくことも眉を動かすこともはやることもなく――。
葉巻を口から放し、一つ煙を吐いて低く口を開いた。
「――――よお――。
久しぶりだなあ、おたく。前会ったのはいつだったか――。『一族』の騒動が起きたあの時以来、だったから、まあそれはそれは前の話だよナア」
ドラガンの言葉を認識してなのか否か、“監視者”は明らかな反応を示した。
5つの眼光が、点に等しい対象を捉え、それまで急激であった動きを止めた。
「――――!!!」
先ほどの咆哮に比べれば桁違いに小さいが、“監視者”は「声」を発した。
至近距離での強大な音波に、ドラガンの帽子と髪がビリビリと震えたが、本人の不敵な表情には微かにも変化はなかった。
「――どうやら俺を覚えててくれてたようで、嬉しいぜ。
なら、今からおたくがどうすりゃあ良いのか、それも分かるよなあ。
あの時と、同じニヨ!!!」
最後鋭い声を発したドラガンは右手を前方に伸ばした。瞬間、凄まじい変化が右手に訪れる。
手袋も袖も突き破り、赤黒い細胞の塊が、急激に膨張を始める。
ルーミスの魔導義手も及ばないようなスピードと物量で前方へ伸長する右手は、100m近くは遠方に位置する“監視者”の頭部にすぐさま到達する。
細胞は見る見る“監視者”に浸食を始め、そして反応をもたらした。
「負」の反応を。
彼、は明らかに気勢を削がれ、活力を失い、まるで眠りにつこうとする動物のように弛緩していったのだった。
「―――― ―――― ―――― …………」
巨大だが収束に向かう、沈み込むような轟音を背後に聞き――。徐々に山脈そのものである身体を沈み込ませる“監視者”を眼下に、ドラガンは優し気にすら聞こえる声音で云った。
「休んでて良いんだよ、おたくは……。反応したのは、『本来おたくが止めるべき』相手じゃあねえ。強すぎる魔力のせいで起こされちまったことは、俺の貌に免じて許してやってくれや。
ゆっくり、休みな……許す時間の果てまデナ……」
そして沈みこむ巨体とともに、その黒い点のような姿を砂嵐の中に消していったのだった。
*
――山麓の、レエティエム一団。
目前で沈み込んでいく“監視者”の現実離れした光景を見、それに伴う振動を身体に感じ続けるレミオンは――。イシュタムの説明で一連の状況を知り、まだ小鳥のように震えるエルスリードの肩をしっかりと抱きながら、歯噛みした。
(海にも、この大陸にも――。
想像すらできねえような、本当にやべえバケモノが、居た。
血を分けてもらった俺だから、只者じゃねえことは分かっちゃいたが……。ドラガン、てめえは悪魔の使いみてえなバケモノどもと、同列の存在だって、そう云うのか。
この先も――敵か味方かもわからねえてめえの云うことに、どうやら従うしかねえようだな。北へ、向かう。そして再び会って、その正体ってやつを引っ張り出す。それがきっと、俺たちの目的にも繋がることを――今回のことで確信したからな……)
そうしてしばらくは、背後からやってきた「ある一団」の存在にも、気づかないほどに――。
想念にふけってしまっていたのだった。