第十六話 癒しと苦しみの記憶、そして生存
*
――そこは、幼い自分にとってこの世で最も心安らぐ場所だった。
アトモフィス自治領、伯爵居城。その中の――かつて“魔人”ヴェルが居室としていた場所を改装した、寝室。
自分の両親の寝室。乳幼児の頃はここで過ごしていたものの、9歳となった現在では厳しい父の方針もあって別の個室に移動した。その為寂しくなると母の元に甘えに行きたくて仕方なく、多忙な母の夜のほんの少しの合間を狙って、ここへやってくるのが常態化していた。それでも国主として忙殺される母に会えるのは、ほんの3回に1度程度。本当に貴重な時間だったのだ。
(しょうがない子ね、レミオン。お父さんに見つかっちゃうわ。さびしいのは分かるけど、気が済んだら早く自分のお部屋に戻るのよ?)
母レエテ・サタナエルは、そう云いつつも自分を巨大なベッドに座ってしっかりと抱き寄せて全く放す気配はなかった。彼女も息子の自分と居られるのが嬉しいのだ。そう感じて本当に幸福感に満たされていた。
「……わかった……。けどもう少しだけ、おはなししてくれる……?」
(もちろん。いいわよ……お話しましょう?)
「おれ……もっと小さいときからずっと……おとうさんやマルク、アニータ、ブリューゲルおばちゃん、ルーミスおじちゃん……ほかにもまわりの大人みんなにいわれてきた……。
レエテの、たった一人の子ども。このさきが、たのしみだ。さすがはレエテさまの子、さいのうがある……。そう、いって……」
(そうね。それは私もありがたいと思うし、あなたはそれにふさわしい子だと、いつも思ってるわ)
「けどね……みんながみんな、おれのことを、すごい子どもだって……ほめるばっかりで……。
……ほんとうはそれ……すごくくるしいんだ。
おれ、そんなに……そんなにすごい子どもじゃあ、ない。
みんながすきなのは、いつもおれじゃなくエイツェルねえちゃんだし……。エルスリードみたいに、あたまがよくもないしまどうも使えないし……。いつもてかげんばっかりのアシュヴィンのやつのほうが、ずっとスピードもパワーもあってつよい。
おれ、きっとなれないよ……。おかあさんみたいに、せかいでいちばんすごい人になんて……。
おとうさんみたいにだって、なれない。おれ……きっと才のうなんてぜんぜんない、ほんとにふつうのダメなやつなんだ……。ごめんね、おかあさん……。
ねえ……おかあさんから、大人のみんなにいって? もうおれのことを、すごいすごいって、楽しみにしないようにって。
みんな、おかあさんのいうことなら、ぜったいに聞くし……。おねがい、おねがいだよ……」
自分は心に抱えた苦しみをようやく話すことができた思いと裏腹に、どんどん胸が苦しくなって母の胸元に貌をうずめ、ドレスの裾を破れそうなほどに握りしめた。
母は、数十秒もの長い間、沈黙し硬直していた。
そしてその後、感じた。
抱き着いている柔らかな身体が、小刻みに震えているのを。そしてその後、ゆっくりとその両腕に力がこもり、苦しくなるほどに強く抱きしめられる感触が。
やがて母の震える涙声が、頭上から降りかかる。
(……ごめんなさい……レミオン……謝るのは、私のほうなのよ……本当にごめんなさい……。
私もお父さんも、あなたの事を本当に凄い子だと思ってる。あなたが自分の事を下げてしまっているのは確かだけど……。
あなたにそんな、重すぎる重圧をかけてしまっていたこと。まだ小さいあなたに、過剰な期待をかけすぎてしまっていたこと。それに気が付けず、長い間私自身が、あなたの重荷になって苦しめていたのだと……思うと本当に……本当に申し訳がなくて……。
もう『寿命』が迫ったこのときになって、ようやく知るだなんて。気づくだなんて。
でもまだ……今知れたなら、手遅れじゃない。
お母さんね、この後お父さんが帰ってきたらすぐにこの事を話して、託すわ。
安心して、レミオン。もう、あなたが苦しまないようにしてあげる。私がいなくなったその後――。より重圧がかかる世界でも、決して私自身があなたの重荷にならないように――)
――自分は、心から信じた。母の言葉を。
それは――その出来事は、まさに――。
母があの忌まわしい「吐血」をする、その前日の夜の事であった。
*
「――ミオン!! おい、起きろレミオン!!!」
鋭い、聞き覚えのある女性の声だ。すぐに入ってきた周囲の騒音と強振動に、瞬時にまどろみから目を覚ますレミオン。
「――っ痛!! ――あ――アキナスさん、無事だったんですね?」
頭痛と、頭から大量に出血していることに気づくも、一族の自分にとっては大事ない負傷とすぐ判断。目の前のリザードグライドから降りて駆け寄ってくる魔導士アキナス・ジルフィリアと魔工師レイザスター・ブライアムの姿を確認し、安全な状況を自覚すると、即座に――。
自分が抱きかかえているエルスリードの身体を仰向けにし、安全を確認し始める。
「おいエルスリード!!! 大丈夫か、エルスリード!!!」
叫びながら、彼女の身体を視認し、見えない箇所はこの際なので服の上から身体を触って確かめる。
意識を失いぐったりはしているが、レミオンが完全にその身体を包むように抱きかかえて崖から落下した事から――。血だらけのレミオンに比して、全く外傷なく、骨折などの内部の損傷もなかったのだった。
――それは意識してのことではなかったが、16年前ディベト山でレミオンの母レエテが、エルスリードの母ナユタに行った行為が再現されたかのように同一であったのだった。
「良かった――。
アキナスさん、レイザスターさん。敵は? 他の皆はどうなったんです? 見ちゃいないですか?」
魔工師レイザスターは彼に合わぬ苦渋の表情で、短髪を手で掴みながら云った。
「敵は――もう去った。あのラヴァナとかいうヒキガエル野郎が謀った、あの巨岩のバケモノ。
あれが山脈の大地を滅茶苦茶に引き裂いた。シェリーディア様達は必死に抵抗したが成すすべがなかった。大地の崩れに巻き込まれ、落ちていっちまった――。ルーミス様もネメアも、サッド様もシェリーディア様も、シエイエス様もだ。
あの方たちの事、そう簡単に死ぬとは思えねえが――。偵察班で空を飛んでた俺ら以外、他の連中は、もう――」
「…………そんな」
レミオンは絶句した。同胞ネメアやルーミス、崇拝するシエイエスが行方知れずとなったアキナスは、ショックで蒼い貌で震えている。
レミオン自身にとっても、家族にあたる人々が一気に安否不明となった事は衝撃であったが――。
過去の記憶、そして先ほどの衝突と屈辱の件を思い出し、見る見る苦い貌となった。
そこへ――。
小さく苦し気であったが、間違いなく聞き覚えのある声がレミオンの耳に響いてきたのだった。
「……勝手に、殺さないでくださいよお……レイザスターさん。
僕ら……元気ですよー? 弟は気絶しちゃいましたけど……ゲホゲホッ」
「……喋るな、馬鹿。お前らはボロボロの怪我人だ。黙って搬送されていろ」
「……拾ってくれたのが、陰気なお姉ちゃんだったのは幸い中の、不幸だよねえ……。
君だって人の事いえるほど、無事でもないだろ……ゲハッ!!」
それは――。
ノスティラスの“双星”ミネルバトンとフォリナーのフォーグウェン兄弟。そして彼ら二人を怪力で両肩に抱えて歩いてくる“神弓手”イシュタム・バルバリシアだった。
どちらも同じほどにあらゆる傷を全身に負い血塗れであった。が、強靭な体力と精神力を備えたイシュタムがどうにか二人を抱えてここまで歩いてきたのだ。
しかしさすがのイシュタムも、仲間やレミオンを見つけて安堵したのか、力尽きて地にがっくりと膝をついた。そしてフォーグウェン兄弟を荒っぽく地に放りだした。
「……うあ痛い! ……もうちょっと優しく……」
「無事だったのか、お前らあ!!!」
レイザスターが駆け寄ると、ミネルバトンは目を潤ませて力なく云った。
「……ええ。サッド様が……僕らに糸を付けて引っ張って、自分は犠牲になって……ね。
このイシュタムの方は、シェリーディア様が“魔熱風”のハンマーで衝いて吹き飛ばしてくれた、らしいですよ……。
英雄の方々が……僕らを、救ってくれたんですよ……」
「そう、だったのかよ……!」
絶句するレイザスターの後ろで、レミオンの腕に抱きかかえられたエルスリードはゆっくりと、両の瞼を上げつつあった。
「エルスリード!!! 目覚ましたか!! 良かった!!」
「う……レ……ミオン……? 一体、何が……」
側頭部を押さえつつ、ゆっくりと上体を起こす。そして霞む視界で、レミオンの背後に目をやったエルスリードの――。
両目が瞬時に、見開かれた。
そして恐怖に憑りつかれたかのような、甲高い悲鳴を上げたのだった。
「いっ――やあああああああああ!!!!」
エルスリードの只ならぬ様子に、その場の全員が一度に――。
彼女の視線の先を見、そして――凍り付いた。
「あれは――何――だよ。
冗談じゃ――ねえぞ……!」
うめき声を上げるアキナスの視線の先で――展開されていたそれは、神代の、光景だった。
大地が、文字通り――動き出して、いたのだ。