第十二話 狂いし天使の蹂躙
周囲の人間全ての目が己に釘付けになっている様子に、慣れているながら満足そうな男。彼は一気に舌状の細胞から飛び降り、細胞の床に降り立った。
そしてようやく落下物が収まったのと時を同じくして――。カチャカチャカチャッ! とラチェットを一回転させて顎を突き出し、最初の一声を放った。
「“無知は恐怖を産み、
恐怖は憎しみを産み、
憎しみは暴力を産む。
これが方程式だ”
……全く以て名言だ……。オレはこう見えてあのティセっ子よりも哲学の造詣は深いんだが、昔の哲学者はとにかくイイ事云う。今現在の貴殿らの状況を云い切ってる。
この山脈に対する無知が、恐怖を増幅しきってる。そしてオレという存在を知ることで、恐怖は憎しみに転じ、暴力にも転ずるだろう。全ク、面白イ」
やや高めの、良く通る声だ。淀みなく、聞きやすい語りでもある。だがラウニィーは、すでにこの男の中に身震いするほどの邪悪を確実に感じていた。あの、フレア・イリーステスもかくやと云うほどの。毅然と胸を張り、睨みながら男に返す。
「私は、ハルメニア大陸調査旅団“レエティエム”の副指揮官が一人、魔導士のラウニィー・グレイブルク。貴殿の名を伺っても宜しいか? そもこのような場所に突然現れ我らを危険にさらしながら、初対面にて名も名乗らず、思わせぶりな言で煙に巻くは、著しく礼を失する行為と思われるが如何?」
男は最初からラウニィーを指揮官と見定めていたらしく、何の意外な反応もなく彼女を真っ直ぐ見た。そしてこちらでも共通であるらしい淑女への正式な礼を返すと、口を開いた。
「これは、失礼した……。オレはアケロン州王を拝命する、ヤン=ハトシュ・ゲドハイマーと申す拙き者。
“ケルビム”においては、能天使“エクスシア”の名を拝命している。きっともう――。
『貴殿らはすでにその名をお聞きなのではないかな』? ンン?」
ラウニィーは、背筋に氷水を掛けられたがごとく、戦慄した。
まさかとは、思ったが――。この場所では魔力を放出できない為測れなかったが――。
“アルケー”と同格かそれ以上の、敵の首魁クラスがよもやこんなにも早く、しかも単独で攻撃を仕掛けて来るとは。
「ええ――。そうね、ご高名はかねがね。幹部クラスであられるという“エクスシア”殿が、囚われの身のか弱い我らに、どのようなご用件で? 救助のお申し出というなら、喜んで受け入れるけど」
“エクスシア”――ヤン=ハトシュは上がった口角をさらに、上げた。
そして次の瞬間――目を疑う事態が、発生した!
ヤン=ハトシュの姿が、ノイズがかかったように一瞬ぶれたかと思うと――。
突然、彼が構えるラチェット・ソードというべき得物の先に――。
一人の貫かれた女性の姿が現れたからだ!
「が……はっ……!!!!」
「エ――」
「エイツェル!!!!! エイツェル!!!!! エイツェエエエエル!!!!!」
腹部を完全に貫かれて敵の武器にぶらさがるエイツェルは、自身も何が起きたのか全く理解できていないかのように呆然とした表情で、血を吐き痛みに涙を流した。
ラウニィーの声をかき消して大絶叫したアシュヴィンは、完全に考える前に身体が動いていた。
自身の“純戦闘種”としての力の全てを振り絞り、“神閃”による最大速度、最大出力の攻撃をヤン=ハトシュに向けて放った。そして時を同じくして、鬼神のごとき様相のガレンス師も逆方向から手刀による攻撃を仕掛けていた。
だが今度もまた――誰の目にも全く捉えられない動きで同じ場所から微動だにしないヤン=ハトシュを通り抜けて、アシュヴィンとガレンス師は別の方向に吹き飛ばされていた。それも、背中や腹部を深く斬り刻まれる反撃を受けて。
「がっああああ!! ――う!? ああ、ああああ……」
細胞壁に激突し床にずりおちたアシュヴィンは、背中の傷に手を当てながら、ヤン=ハトシュに向き直り、そこで――。衝撃の光景を見た。
ヤン=ハトシュは、左手でサイズの小さなラチェット・ソードを振り抜いた状態だった。全く見えなかったが、これ一本で敵はガレンス師と自分をあしらったのだろう。が、問題はそこではなかった。
大剣に貫かれた方のエイツェルの――頭部左半分が、こめかみの辺りから横に完全に切り裂かれていたのだ。
全く見えなかった。全く気づかなかったが――。この鮮やかな切り口は、紛れもなく。
“神閃”によるものだ。
ヤン=ハトシュが、難なく攻撃をかわせるのに、斬撃への盾にあえてした。それが見えなかったアシュヴィンが、渾身の斬撃を加えエイツェルの頭を斬った。
大量の血とともに――涙を流す彼女の眼球と脳髄が、傷口からこぼれ落ちている。
アシュヴィンは、貌を歪め――口元を歪めた。助けを求めるように、狂気の淵からすがるように。
「うああ――あああああ――あああ!!!!! あああああああっ!!!!! 違う!!! 僕じゃ……僕じゃあ……!! 許して!!! 許してエイツェル!! アアア!!!」
ヤン=ハトシュは眉一つ動かさず、左手のラチェット・ソードを収めた。そしてエイツェルの頭に手を伸ばす。
その手はやにわに――信じがたい行為に及んだ。
何と傷口に指を突っ込み――脳の一部をむしり取ったのだ!
そしてそれを迷いなく――口の中に放り込んだのだ。
「あああ!!! ああああああ!!!!」
「ぐうっ――!! うううええええ!!!!」
激痛と悍ましさに叫ぶエイツェル、耐えきれずに嘔吐するアシュヴィン。
その恐るべき地獄絵図の中――。
突如、何十条もの漆黒のしなる金属束が、中央のエイツェルの身体を避けながらヤン=ハトシュに襲い掛かる!
ヤン=ハトシュは残像を残して場から逃れようとしたが、それは彼の超スピードでも躱し切ることができずに、肩口や腿を切り裂き、血を流させた。
数m離れた場所で、エイツェルを串刺しにしたままのヤン=ハトシュは、血だらけの口で恐るべき愉悦の表情を浮かべた。そして――。
攻撃を向けてきた主である、ラウニィー・グレイブルク、そしてアシュヴィンに向けて云った。
「あのな、オレ達の目的はお前ら“マニトゥ”殲滅だと知ってるだろう?
が、お前凄いな、女魔導士……。これは意外に楽しめそうだなあ……。ラヴァナの野郎の云う事聞かなくて良かったぜ。
ケハハハハハハハハハ!!!!! ハッハハハハハハ!!!!! そう、お前ら最高だ! 愉快でたまんねえ!!!
小僧!! この雌はもしかしてお前の女か!? 物好きな趣味の野郎だ!!
この黒く薄汚ねえ家畜一族どもは、頭を吹っ飛ばしても再生しちまう連中なのは知ってんだろ? 菌みてえに低能な生物どもだ。オレは良くこいつらの肉を食ってる。人質になるってのは笑えるが、利用してやる。どうだ魔導士! さっきは上手くやったようだが、この雌を傷つけずにオレを攻撃できるのか? ンン!?」
本性を現した、忌むべき外道中の外道。“エクスシア”ヤン=ハトシュ。
おそらく肉体は凄まじい性能を誇る“純戦闘種”で、知能も高いのだろうが、その人間性はかつてのサタナエル将鬼ロブ=ハルスのごとき完全に唾棄すべき絶対悪だ。
一方無限に伸長、膨張可能な魔導義手“ハートリーフ”を手に、臨戦体勢のラウニィー。当然彼女もまた、同じ魔導義手使いであるルーミス同様の戦闘術を身に着け、いざという時に開放できるようにしていたのだ。これならば、ヌイーゼン山脈に気取られることなく存分に魔力を変換し力を発揮できる。エイツェルに自分の心配はしなくて良いといったのは、紛れもない事実だったのだ。
普段冷静かつ温厚なラウニィーの両眼は怒りに染め上げられていた。そして歯ぎしりした口の中から、低く低く言葉が発せられた。
「それ以上、口を開くな、外道……!! ただで、済むと思うな。
その子は、エイツェルは私の、皆の大事な家族。それを――そこまで……傷付け、尊厳を貶め、そして、そして……!!!
許さない!!! 亡き親友の名を冠した私の魔導の手で!! お前をズタズタにし殺してやる!!!」