第十話 能天使の策謀
行軍するレエティエム本隊は、徐々にではあるが自分たちの身体で異変を感じ取っていた。
出立前に想定していた事ではあるが――山道を登り高度が上昇し、上空に分厚く流れる“気脈”に近づくにつれ遂に、彼ら自身の肉体に変調を来たし始めたのだ。すなわち、体内の魔力に。
自身の魔力に干渉される度合は魔力が高い者、加えて魔力が研ぎ澄まされている魔導士であるほど大きくなる。
レミオンと馬で並走してくれているエルスリードは、見た目にも明らかな不調を顔色に現し、うっすらと汗をかいていた。
「大丈夫か、エルスリード?」
馬車に手枷で繋がれながら、息も乱さず己の脚で馬以上の速度で疾走するレミオンは、彼女を気遣い声をかけた。
「……まだ、大丈夫よ。そんな状態のあなたに心配されるようじゃあ、私もどうしようもないわね。
息も苦しいし、身体に鉛が入って重さが2倍位になったみたいに辛いけれど……。
皆の足手まといになりたくない。耐えてみせるわ」
エルスリードは力なく微笑みながらレミオンに返す。
現在彼女の体内では、己の魔力が気脈の魔力に、云うなれば「押しつぶされる」現象が起きている。気脈の封印に成功した魔導士は、発生する瞬間的な巨大魔力の為失神させられるが、それが弱く継続的に負荷として掛かり続ける状態だ。魔導を発動しづらいだけでなく、このまま倒れ込みたいほどの悪心も続いていくのだ。やせ我慢であることは否めない。
レミオンは微笑み返した後、さらにエルスリードに話しかける。
「ナユタ陛下がな、あの航海決定の軍議の後に俺を捕まえて云ってた事があってな。
『あの子は、父親――ホルスに良く似てる所があるから心配だ。強い精神力。それは苦難を跳ね返せる力でもあるけど、身を危険にさらすほどにも苦しみに耐えちまう。ホルスはそれで命を落としちまったから――。
そのあたりは、あんたも近いものを持ってるから分かるだろ、レミオン。エルが危険からちゃんと逃げるように、よく見ててやってくれるかい?』てな。……本当にお前が可愛くて大事で、仕方ねえんだよな、あの人」
エルスリードは貌を赤らめ目を潤ませた。今まで散々反発してきたが別れの間際に和解できた、母ナユタ。改めてその確かな愛情を感じて胸が熱くなり、同時に思慕の情もこみ上げてきたのだ。
「……お母様……」
「俺からしたら羨ましい話だがな。まあ今はまさに、その言葉に素直に従うべき時だな。俺がお前を、必ず護ってやるからよ。無茶はするんじゃねえぞ」
エルスリードは今度は胸に痛みを覚えた。レミオンはまだまだ母親の愛情を欲する幼少期に、その存在を失っている。以前エイツェルに感じたのと同様、恵まれた自分を申し訳なく感じた。
それと同時に――。何か強い気恥ずかしさを感じた。レミオンが自分に云い寄ったり歯の浮くような台詞を云うのは過去何百回も繰り返されてきたこと。その度に苛立ち冷たく突き放してきたのに、なぜか今回は感じ方が、違った。
彼女は貌を赤らめたまま、小刻みに身体を動かしせわしなく髪をいじった。そして小声で返した。
「お――大きなお世話よ。あなたのようなお馬鹿さんに云われるまでもなく、私は自分の現状を心得てるわ――。み、見損なわないで」
様子のおかしなエルスリードを見て、女性の機微に敏感なレミオンは驚愕に目を丸くした。
そして真意を問いただそうと、口を開いた瞬間――。
「停止!!!!! 全軍、停止!!!!!」
シエイエスの覇気に満ちた停止命令により、一団は急停止した。油断していたレミオンは身体が一気に前につんのめり、馬車に激突しそうになったが辛うじて踏みとどまり耐えた。
そして何が起きたのかと、前方へ視線を送ると――。
停止の原因はすぐに分かった。
物理的に進路を妨害するものが、街路上に現れたという極めて直接的な理由であった。
レエティエムの前に立ちふさがったそれは、間違いなく「人間」であった。
距離は、約50mほどか。霧のようなガスが立ち込める中、はっきりと視認ができずぼんやりした影ながらも「3人」、それも男であろうことが見てとれた。
背丈体型は極度に異なり、おそらくは160cmにも満たないであろう小柄、恐ろしく痩せた2mを大きく越える長身、縦にも横にも極度に広がった巨岩のような肥満。不快な歪さを感じさせる3者3様の不揃いな取り合わせだった。
シエイエスは慎重に相手の動きを見極め、シェリーディア達戦闘者に、戦闘態勢を取りながらも先制を控えるよう手で指示を出した。
するとややあって、中央に位置していた肥満の男が前に進み出た。5mほど前に出ると、詳細な姿形がようやく明らかになった。
身長は210cmほど、体重は300kgに届くのではないかと思われる圧倒的な巨漢だ。
全身を、彼の身体に無理やり合わせあつらえたと思われる漆黒のボディスーツと軽装鎧に身を包んでいる。全てがとげとげしく、禍々しいデザイン。そしてその上に乗る、3重に至る脂肪の塊の顎、左右に伸びた邪悪な口、凹凸の激しい鷲鼻、彫り深く垂れ下がった目、一本の毛もない禿げ上がった頭。ぬめった獰猛な両眼はレエティエムの面々の貌をひとしきりにらみ、最後にシエイエスの目を正面から見据える。次に、男の巨大な口が開き、聞き苦しい低音の声が発された。
「おぬしが――シエイエスか……はああ! 船団を率い、ハルメニアよりの歓迎されぬ訪問者の首魁を努める、男……!
まずは名乗らせて頂こうか……ああ! ワシは、アケロン州王“エクスシア”補佐、ラヴァナ・ヴォルデングロウと申ス者」
すでにやや聞きなれてきた、レムゴール訛りでの名乗りを受け、シエイエスは静かに言葉を返した。
「いかにも、俺がシエイエス・フォルズ。このレエティエムの指揮官を努める者だ。
ラヴァナ、貴殿が我らの出自だけでなく俺の名までも知るのは――“アルケー”からの情報によるものか?」
ラヴァナは牛蛙のような不快な大息を吐き、下劣に笑い返した。
「ブッ!!! ぐああははははああ!! あの小娘が、今更どのツラを下げて我が主の下へ参れるというのか!! 否、遥かに高位な存在からのご情報であるとだけ、明かしておこうゾオ……!」
――“ドミニオン”、とやらか。配下だというあの忌まわしい“バハムート”か“カラミティウルフ”からの情報なのであろう。
予測はしていたものの、この様子では北の三大州全ての“ケルビム”勢力が自分たちレエティエムの情報を詳細に得てしまっていると見て間違いあるまい。
「なるほどな、相分かった。それで、その“エクスシア”とやらの手の者が、俺にどのような用だ。
我らの情報を既に得ているのであれば、目的についてもご承知のはずだ。ここで無益な戦いを望んでいないということも。
我らが今望むのは、情報と山脈の安全な通過だ。それ以外の御用なのであれば、即刻立ち去って頂きたいと申し上げておこう」
ラヴァナは不敵極まる笑みのまま、シエイエスの言葉を無視し歩みを進めてきた。その巨大な自重のため、一歩歩むごとに地面が沈み込むのが見てとれる。
「傲慢であり、かつ……白々しいの……お! 既に知っておろうが。ワシらとおぬしらの利害なぞ、決して! 永久に一致せんのだということガ……ア!」
「……知っている。だからこそ敢えて、そのように云った。警告するぞ。それ以上、近づくな。
今貴殿が目の前にしている戦力は、貴殿がどのような巨体怪物であろうと、塵も残さず現世から消滅させ得るほどのものだ。近づいてくるのなら、容赦はしない」
それが功を奏してか否か、ラヴァナはピタリと歩みを止めた。
そして、小刻みに、身体を震わせ始めた。間違いなく――笑っていた。
「グッ!! はははははああ!! 承知の上よ。曲がりにもダルダネスを急襲、勝利せしおぬしらの実力を侮ってはおらん。我ら3名のみで正面から挑む気なぞ無いわ。
おぬしらの相手は、『ワシらではない』。
ああ、ただし――。おぬしらの、山脈に囚われし仲間。あやつらに関しては、我が主自らが手を下してしまわれるかもしれんがのお……! ワシらの諫めなぞ、聞き入れるお方ではないゆえにナア……!」
――ラウニィー達の、ことか? 即座に問いただそうとしたシエイエスだったが、異変は即座に、現れた。
地が、うねっている。生物の表皮のように。すでにラウニィーらは遭遇している現象だったが、一団には初めての怪異現象だ。
「くっ!! こ、こいつは一体……!!」
シェリーディアが貌を青ざめさせて呻く。他の面々も、この異常すぎる自然現象に対し、対処する術をもたない。もはや揺れは立っていられないほどになり、海上でも経験できない地平の傾きに、強者揃いのレエティエムの面々も、地に伏せ耐えるのがやっとだ。
ラヴァナは追い打ちをかけるように、高らかに笑い云った。
「ヴアハハハハ!! おぬしらは強いが、『強すぎる』のだ。
かつてない強さの魔力の襲来に、元より“監視者”は異常な反応を示しておる。
そこで、『あれ』を極めて理解するワシらであれば、おぬしらを殲滅する兵器に活用することは、可能。
……受けるが良い。無力なる身に。大いなる『神罰』というものをのおオオ!!! ヴアハハハハ!!!!」
刮目する、シエイエス。
異変は、次の段階に移行していた。
突然、影を落とし暗くなる周囲。
上空を見上げた一団の視界に、信じ難しいものが映った。
後方左右から、まるで超巨大な『手』のように伸びる、岩石の塊。
二本あるそれは、高さ100m、『腕』の長さ500m、『手』の面積1平方キロメートルに及ぶと思われた。
「何……だ…………ありゃあ…………」
兵士の一人が、停止した脳で、恐怖と絶望の呟きを発する。
シェリーディアは必死の形相で、周囲を見た。
左右は不可能、前方はプレッシャーをかける未知の敵。隙は後方にしかない。
喉が爆ぜんばかりに、彼女は叫んだ。
「後方!!!! 後方に退避!!!!!
余力のある奴は、できる限りあのクソ岩を打っ飛ばせ!!!! 残る者は、全力で後方へ退避!!!!!」
エルスリードは――。
瞬時にレミオンを、見た。
そして即座に行動を起こした。
馬を降りて、レミオンに近づく。そして減退した魔力を振り絞り、彼のオリハルコン製の手枷に絶対破壊魔導を集約させる。
アダマンタイン以外のあらゆる物質を原子の単位で分解消滅させる、負の魔導。それを受けた手枷はひとたまりもなく欠け、レミオンの腕を抜ける。
慌てて放った影響で鋭利な部分が残った手枷で切られ血が流れるのも構わず、レミオンは即座にエルスリードの身体を抱きかかえ、少しでも安全と思われる方角に全力疾走し、そして――。
「――!!! 歯くいしばってろ!! 舌噛むな!!!」
それだけ叫ぶと一気に、跳躍した。
後方でおそらくシェリーディアが巨岩を砕く音、残された者が上げる悲鳴、断末魔を耳に感じながら――。
上方から迫りくる脅威の影を抜けるべく、レミオンは己の一族の筋力を限界以上に発揮し、数十mの距離を一気に跳んだのだった――。