第六話 細胞
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「――ユタさま! ナユタさまああ!!」
――ここは――アトモフィス自治領、レエティエムの――伯爵居城だ。
あたしは、庭園で一人紅茶をすすってたナユタ様を見つけ、かけよっていた。
たしかこの時――会いにきた大親友のレエテ母さんに仕事があって、待っているんだって聞いて走っていったんだっけ。ナユタ様が飲めるはずない、母さん用のワインがテーブルに用意してあるから間違いない。――あたしは、 8歳ぐらいだったかな、この時。
「ん……? おー、エイツェルじゃないか! 久しぶりだねえ。元気かい? いつもエルスリードと遊んでくれて、ありがとうねえ」
「うん!! あたしたち、なかよしだもん!!
ナユタさまにあえて、あたしうれしい!!」
「可愛いこと云ってくれるじゃない。あー……でももう抱っこはできないねえ。あんたたくましく大っきくなったし。赤ちゃんの時に泣かれてやあっとあたしに懐いてくれたと思ったら……寂しいねえ」
「だいじょうぶ! あたしナユタさまをきらいになったりなんてしないから!」
当時のあたしが、ナユタ様を好きだった理由の一つ。それを早速、おねだりした。
「ねえナユタさま! いつものあれ、みせてみせて!!」
「しょうがないねえ……。ちょっと待ってな。今日は何にしようかねえ……そうだ、こいつはどうだい?」
云うとナユタ様は両手を拡げ、庭園の空に――大きな虹と、それを取り巻く蒼い炎でできた幻想的な雲を作って見せてくれた。色んな魔導を使えるナユタ様はこうやって他にも氷で作った動物とか、もうため息しか出ないほど美しくて楽しいものをたくさん見せてくれたから、来てくれる度にお願いしてたな。
「すごい!! すごーーい!!! きれい、きれえええ!!!」
「そうだろ、そうだろ? これはこの間レジーナに教えてもらった電磁魔導で作った虹さ。使えるとは思ってたがこりゃあ見事にはまったねえ」
「ほんとにすごい!! ねえ、これってあたしにも、できるかなあ!?
やってみたい! おしえて、おしえてナユタさまあ!」
「え……うーん。あんたに魔導なんて教えていいかどうかは、あんたの母さんと父さんに聞いてみないと……あたしが怒られちゃうかもしれないからなー。ま、ちょっとならいいか。
それじゃ、一番簡単なおまじないだけ教えてやるよ。あたしも一番最初に習ったやつさ」
そう云うとナユタ様は椅子を立ってあたしに近づき、目線を合わせてくれた。
「両手の拳を握って、掌を上に向けな。そんでそれを胸の前に近づける……ああ違う違う、もうちょっと上。そうそう。
心臓の近くがね、一番魔力の『脈』を集めやすい。そんで握り拳は、指先の魔力を掌に集めるためさ。
それで、心を手に集中して、思い浮かべてみな。火でも雷でも、何でもいい。自分の手から出る、て想像を強くするんだ。
あんたにもし才能があったら、ちっちゃな火とかが一瞬、吹き出るはずさ。ちなみにあたしは、初っ端から1mぐらいの炎がいきなり出ちまったけどねえ、ふふふ」
あたしはナユタ様に教わったとおり、必死で自分の手に思い浮かべてみた。火を。
1分ぐらい目をつむって頑張ったかな。そうしたら――。
いきなり――怖いぐらいの勢いで黒っぽい炎が、あたしの両手を覆いつくすほどの大きさで放射状に噴き出してきた!
それを目にしたナユタ様に――ものすごく急激な変化が、現れた。
貌色が、変わった。それこそ青い色に。口も目も、見開かれた。ことにその目が、凄かった。
最初は――あたしが想像よりも凄い魔導を出してしまったので驚いたか、何かやってはいけないことをしてしまって、怒っているのかと思った。けど、そうじゃなかった。
なんていえば良いんだろう。それは恐怖、そしてそれ以上の――「嫌悪」。
「い――やあああ!!!」
あの優しいナユタ様が、そう、まるで蛇を目にしたレエテ母さんのように――。恐怖と「嫌悪感」を貼り付けた目で、叫びながらあたしの肩を思い切り強く押してきた!
あたしは強い力でなすすべなく、地面に倒れてしまった。
手の魔導が消えると同時に、あたしは痛みとナユタ様にされたことのショックで泣き叫んでいた。
「う――うわああああああん!!! あああああん!!! おかあさあああん!!!」
「――ナ――ナユタ!
何を…………。何を、しているの……あなたは一体……!
わ、私の……娘に、エイツェルに、何を…………!!」
あたしの見上げた先には――。
ちょうど仕事を終えてきてこの様子を見てしまったレエテ母さんが、青い貌でわなわなと震えながら立っていた。
あたしは無我夢中で、母さんの胸に飛び込んでいった。
「うわあああん!!! おかあさあああああん!!!」
振り返るとナユタ様は――頭をかかえ脂汗をかきながらの尋常でない表情で、地面を見つめ震えていた。
けどすぐに我に返ったのか、青いまますがるような表情になって、母さんと私を見た。
そして急に両手を地面について、頭を深々と下げた。
「ゆ――許して、エイツェル、レエテ!!
違う……きっとあたしの、思い違いだ……。そんなこと、そんな馬鹿な事、あるわけがないんだ……!
ごめんね、エイツェル……! 怖かったろ……? あたしがほんとに、悪かった。あんたの事が嫌いでこんなことした訳じゃない。もう2度とこんなこと、しないから。絶対に。
レエテ、あんたがあたしを許せないんだったら……今すぐここを、出て行くから……お願い、許して……」
*
その後すぐ、ナユタ様はレエテ母さんと二人でじっくりと話合い、幸いすぐに仲直りしてくれた。
あたしに対しても、お詫びの印にとっても美味しいケーキをくれたりして、元の優しいナユタ様に戻ってくれた。
あれから10年近く。ナユタ様のことはずっと好きだし尊敬しているけれど――。
未だにやっぱり、忘れられない。
たった一瞬。一瞬のことだけれど、あたしに向けたあの目。
まるで、あの人たちのような。あたしのことを「穢れの魔女」、そう呼ぶ人たちのような、恐怖と嫌悪感に満ちた、あの目のことを――――。
*
「――ツェル!! エイツェル!!
大丈夫!? 返事をして! お願い!!」
エイツェルは――自分を呼ぶ必死の、遠くから聞こえる声で、目を覚ました。
「う――」
途端に、身体に痛みが襲う。背中と腕の打撲痛、腿と腰に何か鋭利な破片が刺さったかのような鋭い痛みを感じるものの、身体は起き上がる。サタナエル一族である自分には軽傷のレべルなようだ。
「良かった! 気づいたのね! 私が分かる? ラウニィーよ」
自分を覗き込むラウニィーに対して、エイツェルは笑顔を返した。
「……大丈夫よ、ラウニィー様。あたしは、大丈夫……」
「ほっほっほっ!!! 気丈な嬢よのお! 感心、感心!!
しからばお言葉に甘えて、一族のお前さんはすまんが自力で再生していてくれんかのう?
ワシは他のケガ人を治してやらなあいかんでなあ!」
と、ラウニィーの隣でエイツェルを覗き込んでいた老人が、闊達な大声を残して踵を返し、他の負傷者のもとへと歩んでいった。
シュメール・マーナの祖、ガレンス・マイリージアス師。御歳は、70歳。当然ながらレエティエム中最年長の人物である。
浅黒い肌で鈍く光る、丸々禿げ上がった頭。そして真っ白な伸ばし放題の髪と髭。皺が刻まれた貌に黒目勝ちな瞳、欠け抜けた歯は云い難い愛嬌を感じさせる好々爺だ。
しかしその身に付けた青と白の威厳ある法衣が示すとおり――。現在の大陸でルーミスに次ぐとも云われる強大な法力使いでもある。また同じ法力使いでもハーミアの徒であるオリガー司教とは、当然ながら完全なる犬猿の仲で知られていた。
「ありがとう、ガレンス師。お願いするわ」
「ラウニィー様、ここは、一体……。あたし達、どうなったの……?」
エイツェルがかすれ声で聞くと、ラウニィーは表情を引き締めて言葉を返した。
「ここは――ヌイーゼン山脈の地下、よ。地下という云い方は、もはや適切ではないと思うけれど」
困惑を含んだ目で、ラウニィーは周囲を見渡した。
「見てのとおり、上から光が差しているでしょう? ここは地下ではあるけれど、『谷』のような状態になっている。深さ50mはある、ね」
エイツェルが痛む首を動かして周囲を見ると――。
至る所に馬車が粉々に砕けた部品の破片があり、多数の馬の死骸もあった。
しかしながら兵士は傷を追いながらも生きている者だけで死体は見当たらず、彼らは仲間や馬の救出や物資の確保に動いていた。
「あなたが気を失う前に遭遇したように、突如街道の地面は揺れ、そして谷となって我々を奈落に落とした。
私は咄嗟に風魔導で皆の救助を試みたけれど――人間を護るのがやっとで、馬車は残念ながらほぼ失ってしまった」
「そんな――」
「そして、生き残ったからといっても、まだ事態は好転していないのよ。
あそこを見て、エイツェル」
ラウニィーが指さした先。それを見たエイツェルの貌が――見る見る驚愕と嫌悪感に歪んでいったのだった。
「な、何……あれ……あれってまさか……ショウジョウ……!?」
そう――。
「谷底」というべき底部の壁。そこは何やら半透明の厚い膜のようなもので構成された、何ともいえぬ不気味なものだった。
よく見ると――赤黒かったり薄青かったりといった生体組織、のようにも見える。
そしてその一部から――。
何かが蠢きながら膜から飛び出し、形態を取ろうとしている最中かのような状態があったのだ。
羊膜に包まれた胎児のような状態のそれは、不完全な形ながら――。
レエティエムに敵として襲い掛かってきた、体長2mの兵卒型ショウジョウ、に他ならなかったのだ。
「この場所は――。
馬鹿げた大きさだけれど、『細胞』によって、構成されている。そうしてこのショウジョウども。通常の生物ではなかったこの連中を、一体一体生み出している。身体の一部として。
信じがたいことだけれど――。
どういう訳かこの山は、生きている。
今まで私達が遭遇してきた攻撃は――。一個の生物が細菌を駆逐するような、自己防衛の一部だったのよ――」