ナキガラビト
コウタが目を覚ますと、そこは辺り一面真っ白な世界だった。
雲も無ければ空も無いし、草も無ければ土も無い。ここがどこかの部屋かと言われれば、それにしてはあまりにも広すぎる。
どこまでもどこまでも、白い何かが続いているようで、その終わりにあるはずの地平線すら白くて見つからない。
コウタはこの場所に見覚えが無かった。
寝ぼけ眼をこすっていると、だんだんと頭がはっきりしてくる。それに合わせて、訳の分からないこの状況に不安が押し寄せてくる。
「おかーさん?」
その不安をかき消すようにして、小さな声で母親を呼んだ。
しかしその声が返ってくることはなく、白い空間に吸い込まれていった。
ついさっきまでコウタは、部屋の中で夏休みの宿題をしていたはずだった。部屋にはエアコンがかかっていたけれど、それでも暑くてたまらなくて、セミの鳴き声にうんざりしているはずだった。
でもここはとても静かで、風も吹いていないのに心なしか寒いような気がしてくる。
「おかあさーーーん!」
大きな声を出してみても、何かが変わることはなかった。誰かが来てくれる訳でもないし、これが夢か何かで、それが覚めることもない。
同じ場所にただ居るのが嫌になり、立ち上がって歩き出そうとする。その時ふと見た足の先には、靴の影すら映っていなかった。
どのぐらい歩いただろう。もしくは、始め居た場所からそう動いていないのかもしれない。
行けども行けども目に映るものは白い景色だけで、方角も距離さえも分からなくなる。
走り出したくなるような、立ち止まりたくなるような、そんなジリジリとした焦りを感じながらも、とにかく足を動かし続けた。
歩いて、歩いて、ひたすら歩いて、そこでようやくコウタは白以外の色を見つける。
と言っても、それはほぼ白に近かった。
初めその存在に気がついた時、ただ目にゴミでも入ったのかと思ったほどだった。けど近づいてみると、それは人の形をしていた。
この空間に溶け込むような白いワンピース。
腰まで流れるわずかに青みがかった白い髪。
後ろを向いているので顔は分からないけれど、それは恐らく少女のようだった。
「ねえ」
そう声をかけても、少女が振り向くことはない。それにめげることもなく、言葉を繋いでいく。
「ここ、どこ?」
「さあねぇ」
声が返ってきた。コウタはそれだけでとても嬉しく、どこかホッとする。
「ただ……」
少女が続ける。
「ろくでもない所だってのは、確かだねぇ」
彼女は上の方を見ているようだった。コウタも真似をして見てみたものの、当たり前のように白いだけで何も無かった。
しばらくお互い物も言わず、ぼんやりと一点を見つめていたその時、思いついたかのように切り出した。
「俺、コウタ! お前は?」
そう言われて少女は視線を下ろす。
「アタシかい?」
そのまま両手を少し開いて、スカートを膨らませながらくるりと体を回した。
ようやく見せたその顔は、鋭くまっすぐ見つめる青い瞳が怒っているようにも、わずかに緩んだ口元が微笑んでいるようにも見えた。
「アタシはユーリ」
ユーリは右手を上げて、人差し指の先をそっと自分の唇に運ぶ。
「あとは何が知りたいんだい。スリーサイズ? それとも、ファーストキスの相手?」
そしてはっきりと分かるように、いたずらっぽく笑ってみせた。
「なんだよそれー、興味ねーし」
「あら、そうかい」
ユーリは少し残念そうにしていたが、コウタは耳まで真っ赤になっていた。それを隠すようにして、少し荒っぽい口調で言う。
「お前、他のクラスの女子か?」
「クラス?」
「お前見たことねーし、そんな髪してたら知ってるはずだし」
「さぁねぇ」
そんな髪と言われたそれを指先でいじりながら、ユーリは少しだけコウタから目をそらした。そしてまた何もない場所を見上げながら、どこか寂しそうな顔をする。
「アタシも、アタシのことは良く知らないよ」
「なんだよそれー、変なやつー」
その時ユーリが急に視線を戻したので、コウタは「変なやつ」と言ったことが怒らせたのかと身構えた。
でもそうではないようで、ユーリは変わらずにゆっくりと語りかける。
「でも、アンタのことは知っているよ。アンタは、ナキガラビトだね」
「トリガラ……ギトギト?」
「ナキガラビト。知らないのかい」
「俺、そんな名前じゃねーし!」
「ナキガラビトは名前じゃないよ。存在……状態? アタシも人から聞いたから、詳しくは知らないんだけどね」
「お前、知らないばっかりだな!」
「…………」
今度はむっとした様子だった。
自分に向けられる気の強そうな目が、コウタは少しだけ苦手だった。クラスにもこういう目をする女子が居て、何かにつけ衝突ばかりしていたことを思い出す。
コウタはたじろぎながらも、なんとか言葉をひねり出した。
「あー、その……トリガラビトだっけ。お前の勘違いだと思うぞ、うん」
「違う」
「え、ああ、トリガラギトギトだっけ」
「そうじゃない。ここはナキガラビトしか来れないからね、間違いはないよ」
「ふーん。てか、なんでもいいや。それより俺もう、帰りたいんだけど」
「それは……できないよ」
ユーリはまた、コウタから目をそらす。
「ここへ来たら、ふたつにひとつ」
そしてまた視線を戻した時、その目は力強くもあり、今にも泣き出しそうなのをこらえているようでもあった。
「どちらを選んでも、帰ることはできないよ」
「……帰れないの?」
「そうだね」
「えーやだよ! なんで、なんでだよー!」
コウタはひとしきり叫んだ後、ぺたんと座り込んでしまう。
この真っ白な空間にただ居るだけでも不安なのに、帰れないと言われてそれが増してしまったのだ。「やだよ」と「なんで」を繰り返しつぶやいている。
そんなコウタの隣に、ユーリがそっと腰を下ろした。ふわっとした空気が、コウタの肌をなでる。
「コウタは何か、叶えたい願いは無いのかい?」
「……なんだよそれ」
「あるなら、それ以外で欲しいものを思い浮かべてごらん」
「欲しいもの……」
そう言われても、頭の中は「やだよ」と「なんで」でいっぱいで、これといって浮かぶものが無かった。でも、そういえば……と、ぼんやりと思いついたことがあった。
「うおっ!?」
その時だった。
コウタの足元がぽっこりと盛り上がって、白い砂のようにサラサラと流れながら形を変えていく。そして最後に残ったそれは、お腹を空かせたコウタの大好物なものだった。
「お菓子が出てきた! しかも、ちょっと……いいお菓子のやつ!」
突如現れたそのお菓子を拾い上げ、恐る恐る目の前に持ってくる。
普段出てくる安いお菓子じゃない、高級そうな缶に入った、年に数回しか食べられないあのクッキーだ。コウタは興奮を抑えきれなかった。
「あっ、うまい!」
食べて良いものなのか、聞こうとした覚えはあった。でも気がつけばクッキーは、コウタの口の中で踊っていた。
「なんだよこれー、すっげーすっげー!」
クッキーが出てきた。なら、他にも出てくるんじゃないか。そう考えたコウタは、次々と頭に思い描いていく。
その度に地面がぽこっぽこっと盛り上がって、サラサラと流れながら形を変えていった。
「カレー! ハンバーグ! オムライス! すっげー、いつもどれかひとつにしなさいってさ、なのに全部……うわー、すっげー!」
カレーを口に運んでから、更にハンバーグを頬張り、最後にはオムライスを押し込んだ。
「んほー、んむーい」
少し……いや、だいぶ元気になったコウタを見て、ユーリも少し頬を緩めた。
「ここはね、ナキガラ……コウタの思い浮かべたものが、実際に出てくるんだよ」
「すげーじゃん!」
「……米を飛ばすんじゃないよ。ただね、それはここの、大きな機能の一部に過ぎない」
「そうなの? てか、食べる?」
コウタは食べかけのカレーを差し出した。
「アタシはいいよ、一人で食べな」
「なんで? うまいよ! あ、口つけたから? お前も同じの出せばいいじゃん」
「アタシは食べれないし、出すこともできないよ」
「ふーん。やっぱお前、変なやつだなー。……ん? ちょっとー、カレー食べてる時に、出すとそういう話やめてもらえませんかー」
「……何の話をしているんだか」
コウタが口に含んだ米を豪快に飛ばしながら笑う。その米攻撃を迷惑そうに避けながら、ユーリも少しだけつられて笑った。
一通り食べ終わると、コウタは食後のデザートにアイスクリームとメロン、そしてプリンをチョコレートケーキを出していた。どれから食べようかと迷っている間に、ユーリはゆっくりと話し始める。
「いいかい、コウタ。これから大事な話をするよ」
「うん? うーん、やっぱメロンかな」
「……コウタは、何か叶えたい願いがあるね」
「うん? うーん」
「ナキガラビトは必ず、叶えたい願いを持ってここに来る。本人の意思とは、関係なくね」
「へー、あれ、アイス溶けないんだ」
「だからコウタ、アンタにもあるはずだよ。どうしても叶えたい、そんな願いが」
「…………」
「そしてここは、食べ物を出してくれる場所じゃない。コウタの願いを叶える場所だよ」
「願いを?」
「そう、どんな願いでも叶えてくれる。でも、その代わり……ふたつにひとつを選ばないといけない」
「ふたつに……」
「ひとつ。持ってきたそのどうしても叶えたい願いを、叶えるか、諦めるかだよ」
ユーリがおもむろに立ち上がる。自然とコウタは、ユーリの顔を見上げる形となった。
「そしてそのひとつを選んだ時、コウタは消えることになる」
コウタから、ユーリの表情は分からなかった。なんとなく視線を下ろして、目の前のデザートたちを見てみる。
ひとつを選ばないといけないらしい。メロンか、アイスか、プリンか、ケーキか。
「消えるって、どうなるの」
「……誰かが言っていたね。跡形もなく、この世から、居なくなるって」
「ふーん」
メロンかプリンか、ふたつにまで絞ってみた。でもそれ以上は進まない。
うーんとうなりながら考えていると、コウタはあることをひらめいた。
「じゃあさ、選ばなければいいじゃん」
コウタはメロンもプリンも取らずに立ち上がる。
「選ばなければ、消えないんじゃない。そしたらさ、ずっとここに居られるじゃん。ここって宿題も無いでしょ、うるさいお母さんも居ないでしょ、食べたいものはなんでも出て来るでしょ。それってつまり……天国じゃん!」
両手を広げながら、コウタは次々と食べ物を出していった。ユーリは小さな声で「そうだね」とだけつぶやいた。
天国じゃん、と思ったその場所は、あっという間に地獄に変わった。
と言っても、辺り一面が真っ赤になった訳ではないし、針の山が生えてきた訳でもない。鬼が襲って来たかというとそうでもなく、コウタの服には埃さえも付いていない。
むしろどれかひとつでも起こっていれば、コウタは怖がるどころか喜んでいたかもしれない。
そのくらいここは変わらず真っ白で、何もなく、つまりコウタは、退屈になったのだ。
「暇ー」
地面にお腹をぺたんとつけて、頬までこすりつけながら、全身で退屈さを訴えている。
まだ手を付けていない食べ物がいくつもあったけれど、コウタの胃袋の許容量はとっくに限界を超えていた。
「ひーまー!」
「うるさいねぇ」
どれだけ訴えを投げかけても、そんな答えしか返ってこない。コウタは足をばたつかせながら、唇を目一杯とがらせた。
その様子にさえ目もくれず、ユーリはずっと遠くの方を見つめている。何かあるのかなと同じ方を見ても、やっぱりそこには何もない。
「……変なやつー」
「ぶつよ」
「おー、こっわー」
怖いなどと口にしつつも、コウタの顔に怯えの色はなかった。
それどころか少し頬を染めながら、「さあ、こいつでどうやって遊ぼう」なんてことを考えて不敵な笑みすら浮かべている。
そうだ、こいつは敵だ。コウタの頭が戦闘態勢に入った。
敵をやっつけるには、まず敵を知ること。よく観察して、弱点を見つけることだ。
テレビで聞いたそれっぽいことを浮かべながら、コウタはユーリをまじまじと見つめる。
スカートから伸びる細い足。それが膝で折り曲げられて、地面にまっすぐ続いている。
膝を抱えている腕も細くて、それが短い袖に吸い込まれている。
その境目がぼやけるほど、ユーリの肌は白かった。
「ユーリって、子供だよなー」
思っていたことがそのまま口から出てきて、ぼそっとつぶやいてしまった。
「どういう意味だい」
それが功を奏したのか、敵がようやくコウタの方を向く。
「いやー、どう見ても俺と同じくらいだよなーって。五年生?」
「さぁねぇ」
「うーん。でもなんかユーリってさー……」
「なんだい?」
まっすぐ向けられる青い瞳に、コウタは思わず見とれそうになった。
なんだか恥ずかしくなってきて、それをごまかすようにもぞもぞと起き上がる。
そしてユーリと斜めに向き直して腰を下ろした。
「やー、なんて言うかさー」
「うん?」
頭をぼりぼりとかきながら、観念したかのようにコウタは言った。
「なんか、おばあちゃんみたいだよな」
「……そうかい?」
「それ! そー、ゆー、とこ! もっとさー、クラスの女子とかだとさー、わー! って」
コウタの大声に、ユーリは少しだけ驚いた。
これはいいぞと言わんばかりに、両手を挙げて襲いかかるようにして、さっきよりもうんと大きな声を出す。
「ぎゃーーー!! って」
でもユーリはきょとんとするだけで、それ以上の反応を見せなかった。
「……もっと騒ぐんだけどなー」
「そうかい」
「そーです」
おばあちゃんみたいだとからかっても、大きな声で驚かせてみても、拳のひとつさえ飛んでこない。
これじゃあ戦う相手にもならない、コウタはまた唇をとがらせた。
……まぶたが重くなってきた。
どんどん、どんどん、下がってくる。
それに抗う術を、コウタは持ち合わせていないようだった。
「ユーリ……枕になって」
「バカ言わないの」
「ちぇー」
お腹も膨れたことだし、ちょっとだけふざけてもみたし、何よりこの場所に慣れてきたことが大きい。
コウタはごろんと仰向けになって、両手両足をぐっと伸ばした。
「んんーっ、……ふはー」
「お腹出てるよ」
「やっぱ……おばあちゃんだ」
小さなため息が聞こえてくる。ユーリがどんな顔をしているのか、コウタはもう想像するしかなかった。
きっと変な顔をしているに違いない、そう思うと思わず鼻から息が漏れてしまう。
背中が地面に埋まっていくような、吸い込まれていくような、そんな感覚に襲われながらコウタはあることを思い出していた。
おばあちゃん、と何度か口にしてはいるものの、その顔をはっきりと浮かべることはできなかった。遠い所に住んでいて、これまでにも数回しか会ったことが無い。
その代わり、とても印象に残っていることがある。
よく抱きしめてくれたこと、とても優しかったこと、畳の部屋で一緒になって寝転がったこと。
その時も今のように一定のリズムを聞いていたら、あっという間に眠ってしまった。
「……コウタ」
名前を呼ぶ声がする。
もう少しで何か夢が見られそうだったのに、それを邪魔されて眉間にしわが寄る。
でも悪いことばかりじゃないようで、服の隙間を心地よい風が通っていった。
ああ、これでまた眠れそうだと、コウタの頬が緩んでいく。
「コウタ」
それでもまだ声がする。
「んんー、おかあさーん? もうちょっと……」
寝かせて、という所まで声が続かない。
「こんな大きな子、産んだ覚えはないよ。それより、これはなんだい」
ついに体まで揺すられて、コウタはしぶしぶと目を開けようとする。
でもすぐに閉じた。それも力いっぱい、目を守るようにして。
しばらく経ってから、今度はゆっくりと、恐る恐るまぶたを上げた。そして目に飛び込んでくる色を確かめた。
それは余りにもまぶしい青だった。
「えっ!?」
コウタは思わず跳ね上がる。
どこか遠くの方から吹いてくる風、手前に押し寄せては引いていく音。左右どこまでも続く水平線、綿あめのような雲に、その先には突き抜けるような空。そして足元には、踏めば形を変える柔らかい砂浜。
それはおばあちゃんの家で見たものと同じだった。
「海だ!」
「ウミ?」
「海だよ海! えーなんで、うわー、すっげすっげー!」
「へぇ、これが海」
「あれっ、ってことは、今までのは夢?」
「残念だけど、そうじゃないよ」
「げっ、ユーリだ」
「……ぶつよ」
「あっ、怒った! やーいやーい、へっへーん!」
二、三歩後ろ向きに下がりながら、舌を突き出して挑発する。今のコウタは無敵だった。
それからいそいそと靴を脱いで、靴下を引っ張りながら放り投げる。そしてむき出しになったその足を、ゆっくりと砂浜に突き刺していく。
「おおー……くすぐったい」
「何をしてるんだい?」
「何って……海に来たら、そんなの決まってるじゃん!」
ユーリをびしっと指差してから、コウタは勢い良くシャツを脱ぎ捨てた。そのままズボンも蹴るようにして飛ばし、最後にパンツに手をかけてから……ユーリをちらっと見てその手を離した。
「レッツ」
そう言いながら左足を前に出し、体を斜めに倒してから、握りしめた右手を突き出す。
そして、
「ゴー!」
の掛け声と共に、コウタは海に突っ込んで行ってしまった。
「うおおー! 冷たーい! きーんっ……もちいー!」
取り残されたユーリは、コウタのはしゃぎ声にただ耳を傾けるしかなかった。
ユーリには、遊ぶという概念が無い。だから今コウタが何をしているのか、それさえも分からないのだ。
ただコウタが余りにも嬉しそうだから、何か胸の奥がくすぐったくなるのを感じている。
――その時、ユーリの視界が一瞬歪んだ。
数回まばたきをして、目を落ち着かせようとする。
……特に変わった様子はない。
目の前には海があって、そこにはコウタが居る。
でも良く見ると、コウタは服を着ているし、その服はさっきまでと色が違った。
もうひとつ言うのなら、その隣に見知らぬ女性が立っていた。
「ちょっと来るのが遅かったかしら。でもほら、気持ちいいよ晃太」
その女性がコウタに声をかける。でもコウタは下を向いていて、返事すらしなかった。
あんなに嬉しそうにしていたのに、今はまるで別人のように思える。
「ねえ、ほら、晃太も足入れてみましょ」
促されるようにして、コウタは顔を少し上げると、首だけ動かして海を見つめる。
しばらくそうした後、体の向きを変えて一歩二歩と前に進んだ。
「冷たい」
「ねえー、気持ちいいよねー」
女性は目を細めて嬉しそうに言う。
でもコウタには、そんな表情が見られなかった。
「冷たいって、足が言ってる。……だから、何?」
……――。
また遠くを見つめている。コウタはユーリの様子に気がついて、「出た、変なやつ」とつぶやいた。
びっしょりと濡れた体に構う様子もなく、ずんずんとユーリの方に近づいていく。
「ユーリも来なって! 気持ちいいから!」
声をかけた時、ユーリは一瞬コウタを見て驚いた顔をした。
そんな些細なことは気にも留めずに、コウタはユーリを手を掴んで海の方へと引っ張っていく。
「……ちょっと、危ないよ」
急に加えられた男の子の力に、ユーリの足が追いつかない。
少しずつもつれていって、波打ち際に着く頃には大きくバランスを崩してしまった。
「わっ」
そしてそのまま海に向かって倒れ込む。
追い打ちをかけるようにして、波がユーリの体を撫でていった。
さすがのコウタもばつが悪いようで、これは怒る、うん、仕方がない、と、心の中で謝る準備のようなものをする。
ユーリは膝をつけて起き上がると、ぎゅっと髪をしぼり、顔についた砂や水を払いのけた。
「……コウタ」
「はいっ!」
そのまま海の水を両手ですくうと、それをコウタに向けて放り投げる。
「確かに、気持ちがいいね」
コウタの顔から反省の文字が消えていく。
そしてにかっと笑って、「だろっ!」と得意気に言った。
ところで……どうして海が?
その疑問が浮かんだのは、ひとしきり遊んだ後だった。
まずコウタはユーリに泳ぎ方を教えた。
と言っても足から盛大に水しぶきが上がるだけで、少しも前に進む気配がない。
それなのに水面から出てきたコウタの顔は、なぜか自信に満ちあふれていた。
「ふうっ。さ、やってみな!」
とコウタは言うが、
「……何をだい?」
とユーリは首をかしげるだけ。
そもそもユーリは、コウタのように服を脱ぐのを拒んでいた。だから足で波とじゃれ合うだけにして、それ以上奥には入ろうとしない。
「つまんねーのー。なんだよー、恥ずかしいのー?」
「さぁねぇ」
「なーんかユーリってさー、そういうの平気そうなのになー」
「どうしてだい」
「だーって、スリ……ファーストキスがどーのってさ、なんか偉そうに言ってたしー」
「あれは……同じくらいの男の子には、そうやって挨拶するって聞いたから」
「え、えぇー」
「……違うのかい?」
「さぁーねぇー?」
その次は単純な水のかけあいっこをすることにした。
そもそもコウタは、一方的に水をかけられたままだ。それを許しちゃあ男じゃないと、これでもかこれでもかと水を投げる。
その水は全てユーリの顔にかかっていた。
「……ユーリさん、避けてください」
「これ、避けるのかい」
「相変わらずリアクションうっすいなー。やっぱ、おばあちゃんだ」
「……いい加減にしな」
ユーリが反撃に出る。
「うおっ、いいぞ、やったなー!」
コウタの必殺、連射攻撃が華麗に決まる。
その水は全てユーリの顔にかかっていた。
「避けてください」
「……うまくいかないねぇ」
「もしかしてユーリって、どんくさい?」
「ぶつよ」
そう言いながら首を振って、髪についた水を払い除けている。
「そんな長い髪してるからー。邪魔なら切っちゃえばいいのに」
「そういう訳にはいかないねぇ」
「ふーん……あ、そうだ」
コウタはあることを思いついて、砂浜に落ちている服やらズボンやらに駆けていく。
そして目当てのものを見つけたようで、何かを振り回しながら戻ってきた。
「はい。これで縛ったら?」
それは赤いハンカチだった。
「……縛る?」
「あーもー、ほら後ろ向いて! こうでしょ、こう……あれ、こうかな。もういいや、こうだ!」
「痛いっ」
「ほら、できた!」
なんだかんだとあって、ユーリの髪が頭の後ろでひとつに結ばれる。
「いいじゃん、いいじゃん」
「……そうかい?」
自分では見えないものの、新しい髪型を触りながらユーリは少し満足気だった。
最後はスイカ割りだった。
「左?」
「左だなー、おっけー!」
「あ、違う……コウタから見て、右?」
「右だなー! よっしゃー!」
「それで……どうすればいいんだい?」
「スイカ! スイカはどこ!」
「スイカは……ここにあるよ」
「えっ?」
「……?」
「俺、何を割ろうとしてるの?」
「それを、聞いていたんだよ」
「えっ?」
「……?」
結局普通に見ながら割った。
「うん、うまい。ぬるいけど」
「よかったねぇ」
「ユーリも食べなって」
「アタシはいいよ、食べれないから」
「だーめ。スイカを割っただけじゃ、食べ物で遊んだことになるじゃん。食べるまでがスイカ割り!」
「……うう。食べないとだめかい?」
「だめー」
ユーリはため息をついてから、覚悟を決めて……でも恐る恐る口に運んだ。
「どお?」
「……甘いね」
「だろー、ぬるいけど」
「うん、ぬるいねぇ」
食べれないと言っていた割には、一度口にさえすればそこそこ食が進むようだった。
「ユーリ、めっちゃ食べるじゃん」
「おいしいからね」
「カレーも食べる?」
「……あとでね」
「なんだよー、さっきは食べないとか言ってたのにー」
「そうだね。食べれないと思ってた」
「変なやつー」
そして二人でスイカを食べ終わって一息ついた時、ようやくコウタがこの言葉を口にした。
「……なんで海に居るの?」
ユーリの説明によるとこうだった。
コウタが目を閉じてしばらく経った後、コウタの周りから波を打つようにして地面が盛り上がっていき、サラサラと砂のように流れながら本物の波になっていったと。
「ちょっとよく分かんない」
「……さっきコウタは、スイカを出したね。それとこの海が出てきたことは、同じことだよ。コウタが思い浮かべたから出てきたんだね」
「すっげー……なんか神様みたい」
「そうだね。海に着たかったのかい?」
「えー、どうだろー。半分寝てたし、覚えてないや」
コウタは足で砂をいじり始める。
気がつけば二人は、くっつくようにして座っていた。
「昔はさー、よく着たんだ、海。おばあちゃんの家のすぐそこにあってさ。あ、おばあちゃんのこと考えてたから出てきたのかな、これ。ほらユーリ、おばあちゃんみたいだし」
「ぶつよ?」
「あーでも、先週くらいかな? 久々に着たんだよなー」
「ふうん。その時も、いっぱい遊んだんだろうね」
「ううん、すぐ帰った」
コウタが砂を蹴飛ばした。
「いやなんかさー、もう暗かったしお腹すいてたし、遊ぶどころじゃないじゃん?」
「そなのかい」
「でも、ちょっと海に入ったかなー。ちょっとだけ」
「……気持ちよかった?」
「いんやー、やっぱりちょっと遅かったからさー。水が……痛いくらい冷たかった」
それからコウタの言葉は続かなくなり、ユーリも合せるようにして静かになった。
しばらく二人して、コウタがいじる砂だけを見つめている。
両足で砂をかき寄せて、一箇所に集めていく。そんな何気ない行いが、コウタにあることをひらめかせた。
「そうだ、山に行こう!」
言い終えるのを待たずして、世界は再び形を変え始めた。
標高千三百七十七メートル。
それをふもとから登るのは大変だけど、九合目までは車で行けてしまう気軽な山だった。
コウタも普段は車で連れてきてもらっていたので、むしろ九合目からの登山道しか知らない。
だからだろうか、「山に行こう」と思い浮かべて立っていた場所は、頂上まであと四十分程度という大きな駐車場の中だった。
「よーし、頂上まで競争な!」
そう言い残して駆け上がっていくコウタを、ユーリが歩いて追いかける。
その山は一面緑色で埋め尽くされていて、人の歩く所だけが土の道になっていた。
でも緑色だけかと思っていた山の斜面に近づくと、白色や黄色、小豆色や桃色など、表情豊かな花が咲いている。
ところどころで顔を出す白い岩も、二人の姿を興味深そうに見つめているようだった。
コウタはそれらに目もくれず走っていくけれど、ユーリはひとつひとつに足を止めて眺めていた。そのどれもが新鮮で、どこか懐かしい気がしていた。
「これは何ていう花だろうね」
ずっと先を走るコウタに向けた言葉なのか、それともただの独り言か、答えが返ってくるはずの無い言葉をぽつりとつぶやいた。
少し冷たい風が吹き抜けて、ユーリの結んだ髪を引っ張っていく。
――その風が運んできたかのように、返ってくるはずの無い答えが耳に届いた。
「……分かんない」
海で見た知らない女性の声も混ざっている。
「これはシモツケソウって言うのよ。ピンク色がきれいで、ちっちゃくてかわいいねー」
ユーリはその声がする方を見ずに、ただ黙って耳を傾けていた。
「ふーん」
「ねえ晃太、頂上までかけっこしよっか」
「……しない。お母さん一人で走れば」
「あらら……調子悪いのかしら?」
「違う。走れないんじゃない、走りたくないだけ」
「晃太……」
「こんな足、要らなかった」
……――。
「遅ーい!」
ユーリが頂上に着いた頃、コウタはすっかり待ちくたびれた様子だった。
「ここが一番上かい?」
そこからの景色はまた別物だった。
これまではどこかこの山だけを見ていた気がするけれど、もうこれ以上登る必要がなくなった途端、視界は更にその奥まで伸びるようになっていた。
自分の足元より低い位置にある他の山々。
遠くに見える町並み。
そして近くにまで着た気がする空と雲。
目にするものすべてが小さくて、その全てがとても大きかった。
「……すごいね」
「だろっ!」
コウタもユーリの隣に立って景色を眺めた。
「あれは海かい?」
「んー? 違うよ、あれは湖じゃん」
「へぇ」
「あ、そうだ。はい、これ」
「……これは?」
「おにぎり! 頂上で食べるとうまいんだ!」
「食べてばかりだねぇ、コウタは」
「走ったらお腹すくじゃん!」
「そうだね」
二人は近くにある岩に腰を下ろして、おにぎりにかじりついた。
空の向こうのそのまた向こうから直接運ばれてくる風が、二人の火照った体に染み渡っていく。
「そういえばさ」
コウタがおにぎりを頬張りながらぽつりと切り出した。
「さっきの海って、消えちゃったのかな」
「そうだね。同じ場所に、これだけ大きなものを出したからね」
「そっかー」
そして口の中を一度飲み込んでから、また話を続けた。
「じゃあ、この山も消えるの?」
「そうだね」
「この空も? あの町も?」
「そうだね」
「ユーリも?」
その問いかけに少し驚いた顔をしてから、ユーリは静かに首を振った。
「ううん。アタシは消えないよ」
「えー、なんで?」
「分からない。……アタシはずっと見てきたからね。色んな人がここに着て、皆が消えていくのを。それをずっと……ずっと」
「ふーん。なんでユーリだけ違うんだろ」
「……もしかしたら、アタシには魂が無いのかもしれないね」
「魂?」
ユーリがこくんと小さくうなずく。
「ナキガラビトはね、体から魂が離れた人のことを言うらしいよ。ここはその魂だけが来れる場所。コウタはその、離れた魂だね」
「えっ? 俺幽霊なの? 死んじゃったの?」
「さぁねぇ、そっちで何が起きたのかは分からないよ。心当たりは無いのかい?」
「うーん?」
コウタは何かを思い出そうとして、それを意図的に止めた。
「覚えてないや」
「そう。とにかくアタシも、そのナキガラビト……離れた魂かと思っていた。でも皆と違ってアタシは消えないし、お腹も空かないし、叶えたい願いも持っていない。だからアタシはきっと、それとは違う何かなんだろうね」
「じゃあ……何なの?」
「さぁねぇ、人かどうかも怪しいね」
「えーじゃあ、神様とか?」
「ただのプログラムかもしれないし、分からないよ」
コウタはふと、初め会った時にユーリが言っていた「アタシも、アタシのことは良く知らないよ」という言葉を思い出していた。
「……ユーリはさ、おばあちゃんみたいだよ」
「ぶつよ」
「あとはどんくさいし、どっか変なとこばっかり見てる変なやつだし」
「いい加減にしないと、本当にぶつよ?」
「意外と食いしん坊だし、海が好きし山も好きだし、ポニーテールも似合ってるし」
「…………」
「ほら、俺の方がよっぽどユーリを知ってるじゃん! ユーリがユーリのこと分からないなら、俺が教えてあげる!」
「……そうだね」
コウタはにかっと笑った。そしてそのまま、
「そっか。俺は離れた魂で、もうすぐそれが消えるのかー」
と言った。
願いを叶えるか、諦めるか、ふたつにひとつを選んだ時、コウタは消えることになる。
そのどちらかを決めたのか、ユーリはそれを聞こうとしたものの、言葉が詰まって出てこなかった。
「でも良かったー」
その分コウタが言葉を吐き出していく。
「ユーリが消えないのは、なんか嬉しいなー」
コウタは余っていたおにぎりを口に放り込むと、手についた米粒を服にこすりつけた。
「さーってと、次はグラウンドに行こう!」
ユーリは絞り出すようにして、たった一言だけこう返した。
「……分かった」
そこは山の緑ともまた違う、目にもまぶしい芝が広がっていた。
四角と丸の白線がいくつも引かれていて、その内のひとつにコウタが立っている。
「よーっし」
と口にしながら、白と黒のボールを踏みつけた。その視線の先には、これまた白くて四角いゴールが待ち構えている。
「これは何だい?」
「何って、サッカーじゃん。見てろよー、今からゴール決めるから!」
ユーリはどこか置いてけぼりだったけれど、コウタのやることを見守ることにした。
コウタは狙いを定めると、少し下がってから助走をつける。
そして思い切りボールを蹴った。
コウタの足から放たれたボールが、一直線に伸びていく。
ただ一直線は一直線でも、その軌道はゴールから逸れていた。
「ありゃ」
やがてボールはてんてんと弾みながら、ゴールの向こうの壁に当たって少しだけ跳ね返ってきた。
「……ゴール?」
「違うよー、やー失敗失敗」
失敗と言いながらも、コウタの顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。それどころか、
「俺ってやっぱ下手くそだなー」
とすら口にした。
その時ユーリの視界が歪み始めたものの、コウタの声がそれを遮る。
「卑怯って言われたからさー」
歪みはそのまま収まって、結局またユーリが何かを見て何かを聞くことは無かった。
その代わり目の前に居るコウタに声をかける。
「卑怯?」
「そーそー。マサキのやつがさー、俺の足は卑怯だって」
「マサキ?」
「俺の友達! 嫌なやつ!」
コウタは唇をとがらせた。
でもすぐにゆるめると、手を頭の後ろで組みながら歩き始める。
「これならもう、言わないっしょ」
そしてボールを拾い上げると、ぽんぽんと叩いてまた置いた。
「じゃあ、次行こっか!」
「ここはもういいのかい?」
「うん、もう大丈夫」
次に二人が訪れたのは、コウタの通う小学校だった。
コウタはユーリを案内するようにしながら、様々な場所に向かった。
「ここは職員室」
「職員室」
「うーん、ここはいいや」
次。
「ここはトイレ」
「トイレ」
「ユーリはそっち、俺はこっち!」
「そうなのかい」
次。
「ここは図書室」
「図書室」
「ユーリって、本読むの?」
「アタシかい? 読んだことはないねぇ」
「ふーん。ま、俺も漫画しか読まないけど!」
次。
「で、ここが俺のクラス」
「へぇ、これがクラスかい」
「ここが俺の席。ユーリはそこに座って」
「ここは何をするんだい」
「べーんーきょー。うわー、嫌なこと思い出したー、宿題全然やってないやー」
「宿題?」
「そー。ここはもういいやー、次行こうー」
外に向かう途中、コウタは振り返って見た。
クラスの中に居るユーリの姿を。
「ユーリも同じクラスなら良かったのに」
「……そうだね」
次は学校とは真逆の、遊ぶためだけの場所、コウタの好きな遊園地だった。
コウタはジェットコースターでユーリを怖がらせようとして、逆にコウタが震えてユーリはけろっとしていた。
お化け屋敷でも同じ結果で、何をしてもユーリを怖がらせることはできなかった。
他に誰も居ない中、確かに居る二人だけで精一杯遊んだ。
そして次へ、その次へ、次へ……。
最後にコウタが訪れたのは、一軒の家だった。
「うちだ」
そうつぶやいてからコウタは扉を開けて、ゆっくりと中に入っていく。ユーリもそれに付いていった。
玄関で靴を脱いで、階段に足をかける。その時手すりに捕まろうとして、すぐに手を離した。
一歩一歩踏みしめるようにして上がっていくと、ふたつの扉が見えてくる。
その内のひとつを引くと、コウタは小さくため息をついた。
「帰ってきたなー」
コウタに続いてユーリも部屋に入ると、様々な色が目に飛び込んできた。
赤いサッカーのユニフォームと、白と黒のボール。写真立てに飾られた海の青色と、山の緑色。そして折りたたまれた灰色の車椅子。
コウタはベッドに寝転がると、さっきよりも大きくため息をついた。
そしてユーリに顔を向けてにかっと笑う。
ユーリもコウタの顔を見ている。
「この後は何をしよっか」
その問いにユーリは答えなかった。
「ユーリ?」
ユーリの視線はコウタの顔から手に移っていた。コウタも同じ場所を見つめる。
「あれ?」
コウタの手が消えかかっていた。
「選んだんだね、コウタ」
「えー、ずっりー! まだ言ってないのに!」
コウタは唇をとがらせる。
「だってさー、きっと待ってると思うし」
「うん」
「やっぱり欲しいじゃん、これ」
コウタは消えかかった手で足をさすった。
「海に行ったなー」
「うん」
「山にも行ったし」
「うん」
「サッカーもしたし、他にも色々行った」
「うん」
「楽しかったなー」
「……そうだね」
「選ばなくてもいいかなーって思ってたけど、そうしたらずっとこんな楽しいことできないじゃん。だから俺、決めた」
コウタは笑ってそう言った。
「あ、でももうひとつ叶えたい願いができたんだけど、そっちはダメなのかな」
ユーリはうつむいて、小さく首を振る。
「叶うのは、ここに持ってきた願いだけだよ」
「ちぇー。じゃあさ、ユーリが俺の分まで」
その続きが聞こえてこないので、ユーリは不思議に思って顔を上げた。
そこにはもうコウタの姿は無かった。
「……最後まで言わないと、分からないよ」
世界がサラサラと砂のように崩れていく。
髪を縛っていたハンカチが消えて、ふわりと左右に広がった。
「そうだね、コウタ。海は気持ちよかったし、山も綺麗だったね。コウタの分まで、また行ってくるね」
白に戻っていく世界の中、ユーリはゆっくり手を重ねた。
「おやすみ、コウタ。あなたの叶えた願いが、いいものでありますように」
晃太は足の不自由なヒューマノイドだった。
足のパーツを取り替えても動かすことができず、AIの不具合が認められた。
生まれつき、という訳ではない。
それは事故によるものだった。
晃太の生活を支えるために、独立して動く足が用意される。
それから晃太の生活は一度元に戻った。
足は持ち主の感情を敏感に読み取り、晃太がしたいことをすべて行ってきた。
走ることもできたし、海に入れば冷たいと感じることもできた。
晃太が足に対してズレを感じ始めたのは、サッカーをしていたある日のことだった。
晃太の足は前より良く動き、ボールのコントロールも正確になっていた。
それを友達が「卑怯だ」と言ってきたのだ。
晃太は仲間はずれにされた。
それからというもの、足に嫌悪感を抱くようになっていった。
足が冷たいと言う信号を送ってくるのも、走りたくないのに走ろうとするのも、その全てが嫌いになっていた。
晃太はもう、はっきりこう感じていた。
これは俺の足じゃないと。
「元の足を返してよ」
それが晃太の願いだった。
「自分の足で海に入りたい」
「自分の足で走りたい」
「自分の足でサッカーをしたい」
毎晩うなされるようにして、そう願うようになっていた。
十一歳の誕生日を迎える頃、両親が貯めたお金でAIの手術を受けることになった。
それで根本から不具合を治し、自分の意思で足を動かせるようになるはずだった。
だがその手術にはあまり知られていない事実があった。
AIを治す過程で、一度電脳からAIのバックアップを取られる。そして新しい電脳に移し替えられる。不具合と思われる箇所を避けて、少しずつ慎重に。
手術を終えた後、そのバックアップはどうなるのか。
ヒューマノイドが普及した時代、同じ人格のAIを同時に存在させることは違法だった。
それ故に、バックアップは消去される。
バックアップという魂を一度失い、なおも生きながらえるヒューマノイドを、一部では密かにナキガラビトと呼んでいた。
晃太はナキガラビトになり、バックアップはコウタとなった。
コウタは消える運命にあった。
晃太とコウタの願いを持って白い世界へ飛んでいき、そこでふたつにひとつを選んだ。
そして晃太が目を覚ます。
手術は成功した。
晃太の日常は元に戻った。
「へったくそー」
晃太の足から放たれたボールが、一直線に伸びていく。
一直線は一直線でも、その軌道はゴールから逸れていた。
「えー、まっすぐ蹴ったのにー」
「晃太はへたくそだなー」
晃太の友達の正樹がからかう。
「でも、卑怯じゃないからいいや。一緒に練習しようぜ!」
「卑怯?」
晃太は願いに関する記憶を失っていた。
それはコウタが持って行って、叶えてしまったから。
そのせいか、晃太には少し不満があった。
「俺ってそんな足ついてたの?」
「おう。なんだよお前、覚えてないのかよ」
「うーん。ってかそんな足ついてたならさ、わざわざ普通の足にしなくていいのになー」
「贅沢言うなよ、それが普通だろ!」
「普通かー」
正樹と別れてからしばらくして、一軒の家に辿り着く。
「うちだ」
そうつぶやきながら扉を開けた。
玄関で靴を脱いで、階段に足をかける。
とんとんとんと軽快に登っていくと、ふたつの扉が見えてくる。
その内のひとつを引くと、晃太は小さくため息をついた。
その時晃太はある色を見た。
それは部屋に飾られている赤いサッカーのユニフォームでも、白と黒のボールでも無い。写真立てに飾られた海の青色でもないし、山の緑色でもない。
それはわずかに青みがかった白だった。
それが何なのかは分からないし、見えた気がしただけで部屋の中にそんなものはない。
でも晃太はふと思いついて、下に居る母親に声をかけていた。
「お母さん、俺、海に行きたい」