君の名は?
「コンニチハ、私ウララ」
自分を見下ろす竜に対し、片言で返事をし、頭を下げる暖。
『ウララ?』
「ハイ」
暖は、ニッコリ笑った。
――――実は、この会話は、十回めだったりする。
堂々とした体躯の威厳さえ漂う巨大竜。
この竜が、本日一番に暖がお世話をする相手だった。
「ギオル、元気?」
『わしを知っておるのか? どこかで会ったか?』
長い首を不思議そうに捻る竜は、恐ろしい外見とは裏腹に、どこかボーっとして見える。
暖は、ほぼ毎日と言っていいほど、この竜――――ギオルと会っていた。
ギオルは認知症の竜で、なかなか暖の名前を覚えてくれないのだ。
認知症の主な症状には、ものが覚えられない記憶障害と今いる場所や時間がわからなくなる見当識障害があるのだが、ギオルは、記憶障害がひどかった。
(見当識障害は、ないみたいなんだけど……)
もっともこの大きな竜が、見当識障害になって徘徊でもするようになっては、たいへんだ。 被害は計り知れなくなるだろう。
「ギオル、私、ウロコ、洗ウ」
竜のいる場所の隅にある小さな小屋から、デッキブラシみたいなものを採り出して、暖はそれをかついぐ。
このブラシで竜の体を洗うのが、彼女の仕事だ。
とはいえ巨大な竜の体を一度に洗うのはとても無理で、昨日は右手、その前は左手という風に進んで、今日は頭の日なのだった。
「アタマ、コッチ」
暖は、自分の近くの草地をデッキブラシの柄でトントンと叩く。
グラッと揺れた竜の大きな頭が、そのまま彼女の方に向かって倒れてきて、ドオォォ~ン! と地面にぶつかった。
ゴツゴツのウロコに覆われた頭の上部に二本の角のような鋭い突起のついた、象くらいの大きさの頭が、目の前に迫る。
猫の目みたいに縦に金のスリットの入った黒曜石の瞳が、ぼんやりと暖に向けられた。
暖などひと呑みにできるだろう長く大きな口には、鋭い牙がびっしりと生えている。
ヨイショとデッキブラシを持ち上げ、暖はギオルに近づいた。
ゴシゴシと目を閉じた竜の頭にデッキブラシをかける。
最初の頃は、恐る恐るそっとブラシをかけていた暖だが、それでは何の汚れも取れないとわかって、最近は遠慮なく擦るようになっていた。
力いっぱい暖にブラシでこすられて、竜は気持ち良さそうにグルグルと喉を鳴らす。
「痒イトコ、ナイ?」
『耳の後ろを』
耳ってどこ? と思いながら、それらしい部分をこする。
その後も要望に従い、頑張った。
仕上げに、大きなタオルで水分を拭いていく。
「ピカピカ、ツヤツヤ、キレイ」
暖は、歌うように節をつけながら喋った。
歌だけではなく、作業の間中、暖は竜と会話する。
とはいえ、暖は片言。竜は認知症だ。
会話は、普通の人が聞けばかなりおかしなとんちんかんなモノだろう。
だからこそ、暖は遠慮なく話せた。
お天気のこと。
見つけた花や草木のこと。
今日は何を食べたとか、ケータイ無くても案外平気だったわ。
とか――――
覚えたての言葉と、かなり怪しい文法で暖は喋りまくる。
竜は、暖が話す練習に、ちょうど良い相手だった。
(間違えても怒られないのがありがたいわよね)
アルディア相手では出来ない気安さだ。
モチロン、その代わりと言ってはなんだが、暖は竜のちょっとおかしな、辻褄の合わない話も熱心に拝聴した。
主に昔話が多くて、そのたびに暖は見も知らないスゥェンだのヒーラだのという名前の人物に間違えられるのだが……
『…… その時、わしは燃え盛るマグマに飛び込んだ!…… 飛び込んだはずだ。…… そうだったな、スウェン?』
「ゴメンナサイ。私、すうぇんナイ。ワカラナイ」
『ウゥム。…… そうか? まあ、いい。そうして、わしが氷山を砕いたその途端――――」
燃え盛るマグマが、いつの間に氷山になったのか? さっぱりわからなかったが、それくらいどうってこともないことだ。
竜の話は、本当の事とは到底思えないモノだが、聞いていて楽しかった。
めちゃくちゃな竜の話に、片言の返事をしながら、竜のウロコに仕上げのオイルをすりこんでいく。
植物から採ったオイルは、擦れば擦るほど良い香りがした。
前任者からはそこまでしなくても良いと言われているが、この香りが気に入った暖は進んでするようにしている。
(この巨体じゃ、お風呂に入れないもの)
温泉大好きな暖にとって、お風呂に入れないことほど切ないことはない。
その分しっかり手入れをしてあげたいと思った。
「ヨシ! オワリ」
一生懸命働いて額に浮いた汗をぬぐう暖。
『あぁ …… 良い気分だ。ありがとう ……ウララ』
この時、ギオルは、暖が世話をするようになって、はじめてハッキリと暖の名前を呼んだ。
「エッ、エッ? 今、ナンテ?」
ビックリして、暖は聞き返す。
その時、遠くから暖を呼ぶ声が聞こえた。
「ウララ! 直ぐ来てくれ!」
暖は、慌てて竜から離れ、声のした方に振り返る。
呼んでいるのはサーバスだった。
この時間帯に彼が呼びに来るのなら、その理由は十中八九、次に暖が向かう先の住人のことだろう。
「何かあったの? たいへん!」
暖は、あたふたと後片づけをした。
「ギオル、マタ明日クル!」
別れの挨拶もそこそこに、暖はサーバスの元へと駆けていく。
『また明日。―――― ウララ』
ハッキリと呼ばれた自分の名を、残念なことに暖は聞き損ねた。