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泣きじゃくるハギリをぎゅうと抱きしめて、優しく頭を撫でるアヤたちから、マジメはそっと目を逸らした。
目の前の二人は、自分には決して手に入れることが出来ない家族そのもので、あまりにも眩しすぎた。いっそ、目を潰してしまおうかと刹那的に考えて、脱力した。
寂しいとか、羨ましいとか、久しぶりの感情だった。あまりにも懐かしすぎて、どう処理すればいいのかわからないくらいに。
ハギリが泣き止むまでずっと、マジメは俯いていた。
「ぐすっ、ご、ごめんなさい……」
「……いや、羨ましいよ。とにかく、もう大丈夫なのか?」
「は、はい」
「恥ずかしいところを見せてしまったね」
「いや、構わないさ。それで、話の続きど。あの世界が消せないのなら、俺たちはずっとこのままなのか?」
「いいや、ヤミコ……私の分身、負の感情そのものの彼女を消すことが出来れば、もうハジメくんたちが夜な夜なサバイバルする必要はなくなるよ」
「分身、ね。それはわかったけど、ヤミコは消してもいいものなのか? あの世界は常盤の精神で、ヤミコもそこに住んでいるんだろう?」
「ああ、それは平気だよ。あくまでも元は私だ。ヤミコはそうだな、いわばストレスの管理人みたいなものだよ。彼女がストレスの蓄積を見て、その日の行動を決めるんだ。でも、もう彼女はその役割を放棄している。いや、そうではないな」
悲しげな表情を浮かべたアヤが、小さく言った。
「歪んでしまったのだろうな。あれだけのストレスに晒されて、正気でいられるとは思えない。ましてや彼女はずっとひとりだったようだからね」
「歪んだ、ね」
もし本当にそうなら、同情される存在だろう。言わずもがな、ヒイ辺りは同情して躊躇ってしまうだろう。しかし、マジメとしてみれば散々苦しめられた敵でしかなく、そこにハギリとシキの絆が崩壊したことを鑑みると、同情の余地はなかった。我ながら冷徹だとは思うが、最善でもある。
「ヤミコを倒せば、いや倒せるのか?」
「んー、倒すと言うよりは、私と一体化させるといったほうが正しいね」
「それは大丈夫なのか? 悪影響が出そうなもんだが……」
「それは平気さ。歪んだとはいえ、元は私の一部だ。もともと歪みやすかった私の一面を、もとに戻すだけなんだからね」
「いやだから、悪影響はないのかと」
「ないね。断言するよ。ヤミコは私の歪みやすい部分だ。でもそれは、精神世界でずっと一人だったせいで歪んだんだ。でも、現実の私は一人じゃないからね。歪みようがないんだ」
言いながら、アヤは隣のハギリに微笑んだ。
「なるほどね」
確かにそれはあるだろう。誰か一人でも、アヤのそばにいれば彼女が歪むことはきっとない。
「さて、一通り話し終えたことだし、残りは笑い話にしようか。準備は……必要なのかい?」
「ううん、大丈夫だよ」
「そうか。ではハジメくん、いいかな?」
「ああ」
「よし、それじゃ……」
唐突な眠気。抗えないそれはよく覚えている。半ば慣れたように身を委ねようとすると、アヤが慌てていることに気づいた。
「まさか……! 引きずりこまれてる!」
「お前じゃないのか!?」
「ああ、私じゃない! これは、ヤミコ、の……」
「あ……お姉……ちゃ」
常盤姉妹が眠りに落ちて、マジメも呆気なくテーブルに突っ伏した。
眠りはほんの一瞬だった。
ただ、マジメたちをこの世界へと誘うためだけに眠らせただけのようで、マジメたち三人はほぼ同時に目を覚ました。
真っ先に目覚めたらしいハギリがアヤを揺さぶり、すぐに彼女は瞼を開いた。それをぼんやりと眺めていたマジメは周囲を見渡して、息を呑んだ。
世界が、壊れかけていた。
黒い空には無数のひびが広がって、足元はクレーターだらけだ。ところどころに、空のひびと同じような、違う次元に存在しているような傷痕が現れており、いまにも崩壊してしまいそうだった。
それを見たマジメが、思わすアヤを見つめてしまう。ここがアヤの精神世界であるというのだ、かなりマズイ状態なのではないだろうか。
しかし、当の本人はけろっとしていて、周囲を見回しては呑気に驚いていた。
「これ、どうなってんだ? いままでこんなのなかったはずだが……」
世界のひび、とでも呼ぶのだろうか。それに触れてみようと手を伸ばしたが、触れることは出来ずにすり抜けてしまった。
「この世界が壊れる、いや、生まれ変わる直前なんだろうね。だから私たちは触れない。例えるなら、卵から孵っているようなものだよ」
「そりゃまたわかりやすいな」
姉にくっついて離れないハギリを苦笑しながらも受け入れるアヤを眺めていると、背後からかすかな声が聞こえてきた。
振り返り、目を凝らす。あんまり遠いものだから声も不明瞭で、姿が見えるまで誰だかわからなかった。
白いワンピースの裾が揺れて、はっきりとマジメを呼ぶ声が聞こえた。
「小田原くーんっ!」
「……郡山さん?」
よく見れば、その後ろにはシキもいるではないか。どこで合流したのか、腹を抱えたセガワに肩を貸している。いくらなんでも成人男性に肩を貸すのは大変だろう。慌ててマジメは駆け寄り、シキと交代した。
「生きてたな」
「どっちかっていうと、死に損なってるってほうが正しいな」
「それにしても、郡山さんたちまでここに来たのか。眠ったのはほんの一瞬じゃなかったか?」
「その言い方だと、小田原さんも同じみたいですね。まだ時間ではないのに眠くなるなんて初めてです。……それに、この世界、もしかして小田原さん」
「ああ、見つけたよ」
頷いたマジメに、ヒイは感嘆の声を漏らした。
「でも、どうしてわたしたちはここに……?」
「それは、私が説明しよう」
くぐもった声。いつの間にあらわれたのか、黒丸と黒馬を従わせたヤミコが姿をみせた。
「まったく、趣味が悪いな。もっと可愛らしい服もあっただろう?」
己の分身たるヤミコの、不審者ルックを呆れながら見遣ったアヤにたじろいだが、すぐに持ち直すとヘルメット越しからでもわかるほど鋭い視線をアヤに向けた。
しかし何も言うことはなく、マジメたち全員を見回したあと、満足そうに頷いてぱちん、と指を鳴らした。
「ここに呼んだ理由は一つさ。全員、死んでもらうよ」
「頷くとでも?」
「もちろん思わないさ。だから……」
いつかのように黒いきりが渦巻いて、黒丸が形成されていく。
「なるほど、ああやって生まれるのか」
呑気なアヤが言っている間にも、黒丸の数は爆発的に増えている。既に周囲は囲まれて、俯瞰すれば巨大なドーナツ状に黒いもやが形作られていることだろう。
「……くそったれ」
「これ、どうするんです?」
シキが呟いて、ハギリがちらと視線を向けた。
「ああ、別にきみたちは動かなくてもいいよ」
「どういう……?」
「もう、全部理解したからね」
アヤの言葉に理解を浮かべる者は誰もいなかった。しかし彼女は獰猛な笑みを浮かべると、ヤミコがやったようにぱちん、と指を鳴らした。
ヤミコがやったように、霧は生まれなかった。しかし、マジメたちは一様に目を見張った。
黒丸たちが、マジメたちを守るように振り返ったのだ。ドーナツ状の囲いが一瞬にして、堅牢な壁へと変化したのである。それを成し遂げたアヤは余裕の表情で、対するヤミコは全身で驚きを露わにしていた。
「ど、どうしてこんなことが……!」
「私にしてはずいぶんと頭が悪いじゃないか。簡単に説明してあげるよ。本物は、私だ」
「違う! ちがうちがうちがうちがうっ! 本物は私だ! 私が本物になるんだ! 貴様を殺しても成り代わり、現実を生きる!」
「なるほど、それが目的だったのか。確かに私だな。でも、」
ゆっくりと持ち上げた腕でヤミコを指すと、アヤはいつもと同じ調子で言い放った。
「私は一人しかいないんだよ。君は歪みきってもはや別人なんだ。私でもないのに成り代わることは不可能だよ」
「あああああああああっ!」
絶叫するヤミコに、黒丸たちが殺到した。いち早く接近した黒馬の角がヤミコを貫いたのと同時に、マジメたちは一斉に倒れた。




