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ここからは、誰にも見つからないことが大前提となる。
その前提が崩れてしまえば陽動は無駄になってしまうので、より慎重に、より警戒しながら階段へ向かう。
幸い、三階から二階への階段は手洗い場から近い。
身を乗り出して階下に視線を向けて、誰もいないことを確認してから、ヒイはあやを抱き上げたまま階段を下りた。
問題はここからだ。
どこから黒い化け物が、あるいは黒いヘルメットに黒いライディングウェアの不審者であるヤミコ、活発少女のハギリに遭遇するかわからない。
出来るだけ視野は広く、耳は立てて進んでいきたい。
そのためにあやを抱き上げたのだが、これは間違っていなかった。
手を繋いで歩く、という選択はヒイの身体的疲労を軽減する代わりに、精神的疲労が増加する。どうしても傍らのあやを気にかける必要があるからだ。
逆に、あやを抱えて歩く、という選択はメリットデメリットが入れ替わっていて、短期決戦が望ましい今の状況ではもってこいの選択である。
どうあっても長居は出来ないのだ。シンクから水が溢れる前に、一階に到着しなければならない。
二階の踊り場には、誰の気配もなかった。
足音は聞こえず、どこからか声が響いてくることもない。どうやらこの校舎にヤミコたちはいないようだ。
もしかしたら諦めたのかもしれない。そう考えたが直後にそれはないと否定した。
彼女たちはこの世界の情報が漏れるのを嫌っていたようだし、そのせいでヒイは危うく殺されるところだったのだ。この世界の真実に近づきつつあるヒイをやすやすと諦めるとは思えない。
おそらく、別校舎を探しているのだろう。もしそうであればチャンスは今だ。
一気に一階まで降りて外へ出てしまえばいい。
もちろん、それで終わりだとは思っていない。これからも、むしろより一層過酷になるかもしれないが、それは異世界の真実に近づいているからだとわかる今なら、大抵のことは乗り越えていけそうだ。
二階から一階へと、当初の目的を果たしたヒイは正門へと繋がる玄関に向かう。
ここにもヤミコたちの姿はない。
ほっと一息ついて、玄関の隅で体を休めることにしたヒイはあやを下ろし、シンクに水が貯まるのを待つことにした。
「ね、おねえちゃん。あの黒い服の人と一緒にいた人はお友達なの?」
黒い服、つまりヤミコのことで、そしてハギリのことだろう。
意図的に避けていた話題だが、怒鳴り散らしてしまうわけにもいかない。
「そう……だね。友達だよ、友達だったよ」
友達だった。
自分で言って、胸がひどく痛んだ。
もう友達じゃないのか、もう仲直りすることはできないのか。そう考えてしまうから、ハギリの話は避けてきた。
だが、いつまでも逃げているわけにはいかないのだ。ハギリはあのとき、明確に自分を殺そうとした。それが何よりの証拠だ。もはや関係を修復することはできないだろうし、彼女もきっと応じない。
既に断絶してしまったのだ。一度糸が切れてしまえば、無理やり結んで修復するか、二度と戻らないかのどちらかしかない。綺麗に直る、なんてことはないのだ。どうしてもわだかまりが残って、以前と同じような関係にはなれない。
彼女は敵だ。ハギリ自身がそれを示したではないか。
しかし、いざというときにハギリと戦うことが出来るかはわからなかった。いや、おそらく怖気付いてしまう。仲直りを望んでいるヒイではきっと、立ち向かうことだって出来ない。
ここまで一度しかハギリに会わなかったのは不幸中の幸いだった。何度も顔を合わせてしまえばそれだけで情が湧いてしまう。
子供は空気に敏感だ。だからあやはヒイの様子に気づいたのかもしれない。あるいは、決断させるため。
決別を決断させるために、あえて話題を持ち込んだのかもしれない。ときおり子供とは思えない雰囲気を纏うあやには、それができるかもしれない。
いや流石にそれは考えすぎだ。ヒイは苦笑を浮かべてあやを撫でた。
「けんかしちゃったの? おねえちゃん、あの人見るとすごく悲しそうな顔するもん」
「喧嘩……そうだね。喧嘩なのかなぁ」
「仲直りしないの? ごめんなさいって二人ですれば、また仲良くなれるよ!」
「ふふっ……そうだといいね」
言って、心のどこか冷めた部分で自らの言葉を否定した。
他愛のない話をすることはもうない。眠るマジメの頬を突いて遊ぶことも、隣に立つこともない。
向かい合って戦うことしか、もう出来ない。
友情を重んじて生き残れるほど、この世界は甘くないのだ。恐怖を押さえつけ、震える足を叱咤して、吹き消されそうになる命の炎をどうにかして守って。
もう一度なんて都合の良いこと、この世界では起こらない。
無邪気な笑顔を向けてくるあやに、そんなことを言えるはずもなく、密かにため息を漏らした。
からーん、と何かが落ちる音がした。
反射的に身構えたヒイが周囲を見渡すが何もない。そもそも、近くの音ではなかった。いったい何があったのか、と考えて、ヒイはようやく陽動を思い出した。
シンクに溢れるほどの水が貯まり、縁に触れていたトイレットペーパーが水で千切れてその先に結んだバケツが落下したのだ。
あやにもその落下音が聞こえたようで、どこか不安げな表情を浮かべている。
陽動はもう始まった。後はこの扉を抜けて、正門をくぐるだけだ。
あやを抱えて立ち上がり、ヒイはゆっくりと玄関口から頭を覗かせた。
目の前に広がるロータリーには誰の人影もない。これなら大丈夫だ。
一歩足を前に出し、東地高校の校舎から出る。
足音は聞こえない。気配も姿も感じない。
そうわかっていても、痛いくらいに心臓が跳ねる。
また一歩足を前に進めて、ヒイは走り出した。
痛い、痛い、痛い!
走り出して間も無く、ヒイの体は悲鳴をあげた。
大した距離を走っていないのに、もう息が切れてしまった。それでも足を止めないから、肺がひどく痛む。心臓だってそうだ。今までにないほど、ヒイは緊張している。
もし仮に見つかってしまえばその時点でおしまいなのだ。
正門へと続くロータリーには何もない。身を隠す場所がないのである。
校舎の窓から見下ろせば、一発でヒイの姿は見つかるだろう。黒づくめの服ならいざ知らず、ヒイのワンピースは純白だ。
鼓動の加速が止まらない。むしろ増す一方だ。
極度の緊張のせいで息は切れ、変に強張る体のせいで体力が凄まじい勢いで削られていく。
全身が痛い。痛くないところなんてないくらいだ。
それに遠い。正門までが遠すぎる。走って近づいているのではなく、逃げている正門を追いかけている気分だ。
必死の形相で走るヒイに、あやは黙って抱きついていた。きつく抱き寄せられた背中が痛むが、邪魔することは出来ない。
走り続けるヒイを見る者はいない。ヤミコたちは陽動に引っかかっているのだ。
中庭に落ちたバケツを、ヒイたちだと勘違いして今も周囲を探っている。
しかしそれを知らないヒイは泣き出しかねないほど切羽詰まっていた。
凄まじい強迫観念に押しつぶされてしまいそうだった。
一秒も早く高校から脱出することだけを考えていた。
もう何キロも走ったような気分だった。
足はふらつき、膝が震える。それでも彼女はほんの数メートル先の正門を目指して走る。
手に門が届く位置に来てようやく、ヒイの体感速度は元通りになる。
抱きかかえたあやすら見えないほど視野狭窄に陥っていた視界が唐突に開けた。
正門に届いて強迫観念が解消されたのだ。
視界の急激な変化によろめいたヒイは、あやを落とすまいと腕に力を入れ、夢中で片手を突き出した。
手の平に小石がいくつも食い込んだが転倒することは避けられた。あやもしっかりと抱きついており、双方ともに無事である。
地面に跪く格好で転倒を回避したヒイの頭上を、黒い影が通り過ぎていった。
直後、耳障りな金属音が鼓膜に響いた。まるで銅鑼を叩いたような音だった。
慌てて顔を上げたヒイは、自分を見下ろす影に気づいて急いで後退した。
ずんぐりとした丸っこいフォルム、肥大化したように太い腕、霧で構成されたかのような体。まごうことなく黒丸だ。
黒丸の姿を確認すると同時に、何かが宙を舞っていることに気がついた。
それはちょうど、ヒイと黒丸の間に落下するような形でまたしても鈍い金属音を轟かせた。
飛んできたのは門だ。黒丸がヒイ目掛けて振るった腕を空振りし、近くにあった門を吹き飛ばしたのだ。
持ち上げたわけではない。弾いたのだ。にもかかわらず、金属の塊は宙に浮かんだ。その剛力には戦慄するしかない。
「うそ……どうして!? ハギリちゃんたちはまだ校舎の中なのに……」
「違うよおねえちゃん。あのお化け、外から来たみたい」
震えながら言うあやに目を見開いたヒイは臍を噛んだ。
中にいる二人に目を向けるあまり、外をまったく警戒していなかった。
白い建物は安全。そんな考えが未だにあったのだろう。ハギリたちの手引きか、黒丸が中にいたにもかかわらず、だ。そのせいで、本来外にいるはずの黒丸のことも忘れていた。
奴らの主戦場は外だ。黒一色に染まる町の中がテリトリーだ。当然、黒い場所ならどこにでも現れる。
ロータリーのアスファルトを砕いて地面に突き立った門を見て、ヒイはみるみるうちに顔を青ざめさせた。




