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誰かが夢見るシロクロシティ  作者: 水島緑
レモン・カンガルー
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 走って走って、いつしかヒイは無心のままに走っていた。

 追っ手を確認することもなくなり、ただただ前に進むことだけを考えていた。

 だが、そんな状態が長く続くわけもなく、身体的な疲労から足を止めてしまうのはそれからすぐのことだった。

 無心で走っていたのはほんの十分ほどだ。

 足の疲労が限界になり、ふらふらと数歩よろめいてから廊下に膝を落として初めて、ヒイの意識は覚醒した。

 額に浮き出た汗のせいで長い前髪が張り付き、視界を遮っている。鬱陶しげにそれを払うと、こめかみから一筋の汗が流れて白磁の頬を伝った。

 両足の感覚がない。酷使しすぎたせいだろう。腕もほとんど痺れており、今でもあやを抱えていられることが不思議なくらいだ。

 震える腕であやを下ろすと、彼女は心配そうな目で見上げてきた。

 心配はかけまいとしてきたが、その虚勢もいよいよ張れなくなってしまっていた。

 なかなか呼吸が整わないのは疲れからか。しかしこんな廊下の真ん中でうずくまっていてはすぐに見つかっしまう。

 振り切ることは出来たのか、今のところ足音は聞こえない。だからといって安心できるわけではないのだ。幸いにも、すぐ隣には何らかの教室がある。あやの手を借りながら、最後の力を振り絞って教室に入った。

 なるべく音を立てないように引き戸を閉めるあやを尻目に、ヒイは未だ息を乱しながら手近な椅子に倒れこんだ。

 感触はスポンジそのものだ。パイプ椅子だろうか。贅沢を言える状況ではないよので、生徒たちが使うような木製の椅子でも構わなかったが、柔らかい椅子のほうがありがたい。

 扉を閉め切ったあやが小走りで駆け寄り、レモン色のワンピースの腹部にあるカンガルーのような半月状のポケットからハンカチを取りだすと、ヒイの汗を拭った。

「おねえちゃん、大丈夫? どこか怪我はしてない?」

「……怪我はしてないよ。ちょっと疲れただけだから大丈夫」

 辛うじてそれだけを返したヒイは瞼を閉じて体力の回復に努めた。これ以上話しかけるのは逆効果だと悟ったあやは、それ以上何も言うことなく、あやの隣にパイプ椅子をひきずって座った。

 ヒイの荒い呼吸音だけがしばらく続いたが、それもやがて落ち着きをみせた。

 ひゅーひゅーと、喘息じみた呼吸になっているがこれは気管支系を酷使したからだ。しばらくすれば自然と収まる。

「すぅ……もう大丈夫だよ。ごめんね」

「ううん。助けてくれてありがとう、おねえちゃん」

「え? ふふっ、どういたしまして」

 つい笑ってしまったヒイを不思議そうに見上げたあやを抱きしめると、優しく髪を梳いた。

 笑ってしまったのは別におかしなところがあったからではない。安心したのだ。完全にハギリたちから逃げられたわけではないが、こうして振り切り、身を隠すことが出来た。あやも五体満足で傍にいる。失敗ではないだろう。

 どれだけ時間が稼げるのかはわからない。少なくとも、体力を回復させることはできるはずだ。

 今は休む。ヒイはあやを抱いたまま密かに安堵のため息を漏らした。




「これからどうしましょうか」

 呟いて、ヒイはあやの髪を撫でた。

 撫でられるのが心地よいのか、あやはいつのまにかすやすやと寝息を立てていた。それも仕方ない。見た目は完全に子供だ。中身がどうかはわからないが、少なくともここにいるあやは子供だ。

 威圧感を与えないように、あやの前では意識して口調を変えていたヒイが漏らした言葉通り、これからどうしようかまるで決まっていなかった。

 もちろん、今は体を休めることが第一だが、それからどうするか。

 これからも見つからないという保証はないし、そもそもいつまでもこの高校にいては埒があかないのだ。

 マジメはどこかで生きている信じることにしたヒイは、東地高校から脱出した後は彼と合流したほうが良いと結論を出していた。

 学校から脱出した後のことは決まった。

 決まらないのは、今これからどうするか、ということだ。

 当然、この学校からは脱出する。しかしハギリたちは自分を探しているだろう。迂闊に動くことは避けたいが、いつまでも隠れてはいられないこともわかっている。

 できることなら、あやが穏やかに眠るこの時間を享受していたい。叶わぬ願いだとはわかっているが、過酷な現実から逃避するにはちょうどよかった。


 静かな時間が流れていく。


 部屋の真ん中に長机が置かれ、机の四方を囲うようにパイプ椅子があったが、あやがヒイの隣に座ったため一方は空いている。

 壁際に沿うようにしてぎっしりと詰められた棚には、なにやら紙の束や本のようなものが目一杯入れられている。その棚のせいで教室内がかなり狭く見えるのだが、この感覚をヒイはどこかで感じたことがある。

 せめてここがどこの教室なのか、それが分かれば喉元まで上ってきた答えが出るのだろうが、現実とは違いすぎて難しい。

 どこかで見覚えがある、としきりに首を傾げているが思い出すことはなかった。

 あやを撫でる手がいつの間にか止まっていたことに気づいて、再び動かそうとした。だが、弾かれるように目を覚ましたあやが、枕にしていたヒイの膝から勢い良く頭を起こしたことでヒイは驚いて手を止めた。

「ど、どうしたの?」

「しーっ! おねえちゃん喋っちゃダメ! あのお化けがくるの……」

 その言葉に息を詰まらせたヒイが、先ほどから扉を見つめるあやにつられるようにして同じように扉を見た。

 気が緩みかけたときに足音と叫び声が響いて、ヒイは密かに体をびくつかせた。

 聞くに堪えない懇願の声は、男のものだった。

「た、頼む! 助けてくれぇ! お、俺には家族がいるんだ! 娘もまだ小さくてっ、これからなんだ!」

「知らないよ、そんなこと。恨むんなら私じゃなくて、自分を恨むことだね」

「ひぃ! やめろ、やめてくれ!」

 男の悲鳴に思わず飛び出しかけたのヒイを押し留めたのはあやだった。

「だめ! だめだよおねえちゃん! あの人はもう助からないのっ」

 部屋の外に声が漏れないように小声ではあったが、いつにない必死さが声に混じっていた。

 自分の腰にしがみついたヒイに足を止めたヒイは、彼女を引き剥がそうとするが子供とは思えないほどの力で抱きつかれては引き剥がすこともできない。

「ど、どうして!? あの人、助けてって言ってるんだよ!? あやちゃんがさっき言った通りなら、黒丸がすぐそこに……っ!」

 そこまで言って、ヒイは男とは違う声があることにようやく気づいた。

 何かに押し込めたようなくぐもった声。壁越しのそれはかなり聞き取りづらいが、声色でわかった。

 ヤミコだ。黒丸を引き連れたヤミコがここまで、目の前まで来ているのだ。それも今、人を殺そうとしている。

 これ以上は見過ごせないと、力尽くであやを引き剥がしにかかったが、あやもそれだけはさせまいと粘る。

「どうして邪魔をするの!?」

「あの人を助けたらおねえちゃんが死んじゃうよ!」

 その言葉に、ヒイの体は硬直した。

 一度、明確な殺意を向けられたことで、ヒイは死ぬことの恐ろしさに敏感になっていた。その硬直さえなければ男を助けられたかもしれないが、あやの言う通りに死んでいただろう。

 一瞬の怯えがヒイを救ったのだ。

「や、やめっ……ぎゃあああ!」

 耳を塞ぎたくなるような骨折音が壁越しにも響いた。揃って顔を青くした二人が思わず後ずさった。

「両足が折れたくらいでそんな情けない声出さないでよ。せめてこの子たちに立ち向かう気概は見せてから死んでくれないかな」

 無茶だ。ヒイもあやも、外の男でさえもそう思った。

 あんな化け物に追いかけられてみろ、得体のしれないナニカに追われるのは恐怖しか感じない。むしろ、立ち向かうことが出来る人間のほうが稀なのだ。

 霧がかったような丸い体、何もない眼窩。みるからに異様な出で立ちと、その恐ろしいほどの腕力をみれば、戦おうという気概は根こそぎ消し飛ばされてしまう。

 それでもなお戦おうとするには、ある種の蛮勇が必要だ。竦む足を叱咤するにはそれしかない。

 男の足が折られたと同時に、ヒイの心は息を潜める方へシフトしていた。もっとも賢い方法だ。生き延びるためには他人に構っている暇なんてない。

 だが、完全に助ける気のなくなった自分に愕然としたヒイは、一切の血の気をなくしていた。

「お、おねえちゃん……」

 ヒイを行かせまいとして彼女の腰にしがみついていたあやは、いつの間にか体を震わせて抱きついていた。今ならば簡単に引き剥がせるであろうあやに、ヒイはされるがまま、息を潜めて佇んでいた。

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