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全身の血液が凍ってしまったのではないかと思えるほど、ヒイの体は冷たくなっていた。
ぎゅっとしがみつくあやの小さな手もまた、色を失うほどに冷たくなっている。
二人を見下ろす黒丸の背後で、ハギリとヤミコが何やら言葉を交わしているがもうそれも遠く聞こえる。
そり立つ壁のような黒丸が目の前で、ヒイは逃げられないことを悟った。
多分、自分はここで死ぬのだろう。ヤミコが言っていたように、知り過ぎたせいだ。
聞き過ぎた故に、今も死の淵に立たされている。
知り過ぎた、というのはこの世界のことなのだろう。ハギリたちに不都合があるとは思えないが、心当たりはそれしかない。
ヒイの腕の中には、糾弾できる相手がいた。
なんてことを聞かせてくれたんだ、こいつのせいだ、なんて責めるのは簡単だ。理不尽だとは思うが、感情を抑えられるわけではない。
それでも、ヒイはあやを責めるつもりは微塵もなかった。
この世界の仕組みを聞いたことに後悔はない。せめて、後に続けてもらいたいが今はマジメも傍にはいない。
のっそりと起き上がった黒丸が、ぼんやりとヒイたちを見た。
目の前にいながらも襲ってこないというのはいささか不気味で、またしてもあやが泣き出してしまった。声だけは漏らさないようにしているのか、必死に唇を引き結んでいるが堪えきれない嗚咽が漏れてしまっていた。
よくもそう気丈でいられるものだ。泣き喚いてもおかしくないのに、あやは声を漏らさない。そんな姿に、勇気をもらった。
ややぎこちなく腕を振り上げた黒丸に、ヒイは思い切り後方へ飛び退いた。直後、盛大な破壊音とともに床材が砕け散り、体勢を崩して背中から転がったヒイの体に降りかかった。
黒丸の操作に慣れていないせいか、たどたどしい動きが目立つ。しかしそのおかげでヒイは立ち上がることが出来た。
転倒を恐れているのか、黒丸が走ってくることはなかった。これ幸いにと黒丸から距離をとったヒイは、一か八かの行動に打って出た。
黒丸を迂回して、この視聴覚室を出る。
ハギリとヤミコの二人は直接手を下すつもりはないらしく、黒丸を操るだけで近づいてくる様子がない。ならばそれを利用するだけだ。
黒丸の接近を待つ。
操作するヤミコが慎重になっているのか、じりじりと距離を詰めてくる。少々焦れったいが、ここで飛び出してしまうのは良くない。
ひたすらに待つ。ヤミコとハギリの二人に、足が竦んで動けないように見せかけることができればなお良いが、あまり期待しないほうがいいだろう。
目の前まで迫る黒丸が、またしても腕を振り上げた。
操作の勘を取り戻したのか、流れるような動作に淀みはない。お手本を見せる、と言った言葉に嘘はないようだ。
わずか二度、同じ動きをしただけですっかり操作感覚を思い出してしまったらしいヤミコに面食らいながらも、ヒイは振り下ろされる腕にあわせて真横へ跳んだ。
今度は着地に失敗することなく、ヒイは黒丸の腕を避けることに成功した。間髪入れずに走り出したヒイに気づいたヤミコが、あっと声を上げるがもう遅い。
少しだけ開いた視聴覚室の扉に肩からぶつかって、勢いのまま扉を開けるとそのまま走り去ろうとした。
しかし、それはできなかった。
開いた扉の向こうには、見上げるほどの黒い影が佇んでいたのだ。
学校を徘徊していた黒丸だ。
ヒイはヤミコたちが操っていた黒丸と同一視していたが、それは間違いだったのだ。
学校を徘徊していた黒丸は、おそらく元からいたのだろう。イレギュラーなのは、ヤミコたちのほうだ。彼女たちはヒイがあやから話を聞いたことで慌てて駆けつけたのだろう。だからスケッチブックには描かれていなかったのだ。
ヒイが予知した未来には、あやと黒丸しか映っていなかった。つまり、ハギリとヤミコは本来ならここにくることはなかったのだ。それが覆されたのはヒイがこの世界のことを聞いてから。原因はそれしかない。
血色の戻ったヒイが、一瞬で青ざめた。
ヤミコたちが操っている黒丸よりも目の前の黒丸のほうが圧倒的に脅威だ。
ぎこちなさもたどたどしさもない黒丸に、真正面からぶつかるのは無謀だ。
しかし、黒丸のほうも突然扉が開くとは思わなかったのだろう。別段雰囲気は変わらないが、驚いたのか動かない。
迷っている暇はないと言い聞かせて、ヒイは黒丸の股下に滑り込んだ。
今度は着地に失敗することなく、ヒイは黒丸の腕を避けることに成功した。間髪入れずに走り出したヒイに気づいたヤミコが、あっと声を上げるがもう遅い。
盛大に砕けた床を飛び越え、少しだけ開いた視聴覚室の扉に肩からぶつかって、勢いのまま扉を開けるとそのまま走り去ろうとした。
しかし、それはできなかった。
開いた扉の向こうには、見上げるほどの黒い影が佇んでいたのだ。
学校を徘徊していた黒丸だ。
ヒイはヤミコたちが操っていた黒丸と同一視していたが、それは間違いだったのだ。
学校を徘徊していた黒丸は、おそらく元からいたのだろう。イレギュラーなのは、ヤミコたちのほうだ。彼女たちはヒイがあやから話を聞いたことで慌てて駆けつけたのだろう。だからスケッチブックには描かれていなかったのだ。
ヒイが予知した未来には、あやと黒丸しか映っていなかった。つまり、ハギリとヤミコは本来ならここにくることはなかったのだ。それが覆されたのはヒイがこの世界のことを聞いてから。原因はそれしかない。
血色の戻ったヒイが、一瞬で青ざめた。
ヤミコたちが操っている黒丸よりも目の前の黒丸のほうが圧倒的に脅威だ。
ぎこちなさもたどたどしさもない黒丸に、真正面からぶつかるのは無謀だ。
しかし、黒丸のほうも突然扉が開くとは思わなかったのだろう。別段雰囲気は変わらないが、驚いたのか動かない。
迷っている暇はないと言い聞かせて、ヒイは黒丸の股下に滑り込んだ。
咄嗟の反応が出来たヒイに対して、黒丸は出来なかった。その差がヒイの明暗を分けた。
勢いのまま黒丸の股下を滑り抜けたヒイは、強くしがみつくあやから一度腕を離して立ち上がった。幸い、あやが自重を支えられるほど強く抱きついていたおかけで彼女が落ちることはなく、立ち上がったヒイがあやを抱え直して一目散に駆けていった。
「あ……姉さん! 逃げられちゃってるじゃんか! なにがお手本なのまったく。こうなったらあたしがやるから!」
叫んで、新しく現れた黒丸に手をかざしたハギリの操作で、改めて黒丸が動き出した。同時にヤミコが気を取り直して黒丸を動かし、ヒイは二体の黒丸と姉妹に追われることになった。
幸運なのは、ハギリたちの操作は自らが黒丸を視界に入れていないと作用しないことだった。これによって、ハギリたちも走る羽目になった。しかし、それは消耗戦になったということでもあった。子供を一人抱えたヒイはより体力的に、黒丸を操作する必要があるヤミコたちはより精神的に消耗するのだ。
運よく視聴覚室から抜け出すことが出来たヒイは涙を流すまいとしているあやを強く抱きしめながら走っていた。
どこかに隠れる場所はないか、と忙しなく周囲を見回すのだが、背後からはハギリたちが追いかけてきている。まずは振り切らなければ隠れることすらままならない。
黒丸を先に行かせ、操縦者がその後を追いかけているのだが、徐々に黒丸が距離を詰めてきている。
少しずつ、しかし確実に。
息を乱しながら廊下を駆けるヒイの精神をじわりじわりと侵食していく。
腕の一振りで命を掻き消す。まるで恐怖の権化かなにかのような黒丸が、背後を追い掛けているという事実はヒイの心を圧迫した。
泣き叫びたいほどに怖い。
事実、彼女の眦には涙が浮かんでいた。時折それが色を失くした頬を伝って流れ落ちる始末だ。堪えることはもうできない。
心臓の鼓動は今も痛いほどに早まっている。直接鷲掴みにされたような痛みだ。黒丸の姿が視界の端に映るたび、悪寒が全身を撫でていく。かじかんでしまうのではないかと思うほど指先は冷たいのに、汗が止まらない。
きっと、今の自分はひどい顔をしているだろう。恐怖に引きつった頬が泣き笑いの表情に見えるかもしれない。
なにもかもを砕いてしまうあの腕が怖い。何を考えているかわからないヘルメットの女が恐ろしい。
何よりも、ハギリが敵として追い掛けてくることに怯えていた。
ついに追いついた一体の黒丸が、走りながらに腕を振り上げた。
ぎゅうっとあやを抱きしめて、タイミングを見計らうヒイは、黒丸の腕が振り下ろされると同時に左へ重心を傾けた。
腕を振り下ろす際のわずかな硬直に合わせたのだ。結果、ヒイはレーンを変えるように左へと逸れ、黒丸の腕は廊下の真ん中を叩いた。
廊下に腕を叩きつけたせいで足を止めた黒丸を置き去りにして階段へ向かった。
なにやら背後からヤミコの声が響いてくる。どうやら、先ほど攻撃してきた黒丸はヤミコが操作していたようだ。
ヤミコが黒丸共々脱落したおかげで、背後からのプレッシャーが幾分が軽減した。しかし、ヒイが追い掛けているのはハギリだ。
引きつるような痛みを訴える肺に鞭打ちながら、ヒイはワンピースを翻して階段を飛び降りた。
駆け下りたのではない。踊り場まで飛び降りたのである。
強烈な浮遊感とともに正面から壁が迫ってきた。
走る勢いのまま飛んだせいだ。あわや激突する、といったところでヒイの体が落下し、壁に少々の勢いを伴ってぶつかるだけで済んだ。
むしろ、ダメージを受けたのは足のほうだ。
突き刺さるような激痛が膝下まで響いたが幸いにも痺れはなく、ふらつくものの再び駆け出すことが出来た。
勢いが失せたため折り返しは流石に飛ぶことはできなかったが、それでも半ば跳ぶように階段を下りていく。
ハギリも階段を下りているのか、なにやら衝突音が背後から聞こえてきた。ちらりと横目で窺うと、制御しきれなかったのか、黒丸が踊り場の壁に激突していた。
チャンスだ。今のうちに距離をとってしまえば身を隠すことができる。
疲労と痛みにがたがたと震える両足を叱咤して、ヒイは再び走った。
実は先ほどから、あやが腕の中で声をあげているのだ。
「おねえちゃん、わたしを下ろしてよぅ! ダメだよ……おねえちゃんまで死んじゃうよぉ!」
そんな悲痛な叫びを意図的に無視している。
当然のように、あやを置いていくという選択肢はなかった。置いていってしまえば、この東地高校にきた意味がなくなってしまう。それはつまり、マジメの行動も無駄になってしまうということになるのだ。
だから、絶対に置いていかない。




