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分厚く黒いカーテンが閉められた教室に入ったヒイとあやの二人は、激しく息を乱しながらもなんとか扉を閉めた。
学校では珍しい開き戸を閉めると途端に教室は薄暗くなって、繋いだあやの手が強張った。
薄暗いといっても腕の先くらいまで見える。規則正しく並べられた机を手探りで避けて窓に近寄ると、ヒイはカーテンを捲った。
「この中に隠れていてね」
「おねえちゃんは?」
「わたしもすぐに入るから大丈夫」
不安げに見上げるあやに笑顔で告げると、ヒイは一人でカーテンから出た。
あやを隠したカーテンの隣を開けると、教室内がわずかに明るくなった。外の光が入ってきたのだ。おかけでこの教室がどこなのか判明した。
ここは視聴覚室だ。ヒイも一度だけ入ったことがある。
となると黒いカーテンは元々の色ということになる。いくらこの世界では万物が黒く染まるとはいえ、部屋の中がこれほどまでに暗くなるわけがない。太陽も電気もないが、昼間と同程度には見えるはずで、ただのカーテンであればこの視聴覚室の中もはっきりと見えていただろう。
窓から離れたために教室の中がやや見えなくなるが問題ない。次は扉に近づいた。
ほんの少しだけ扉を開けて廊下を見る。まだ追いつかれていないようで、あの巨体はなかった。じっと耳を澄ませるが、足音も聞こえない。付近が安全だとわかると、ヒイは一度視聴覚室から出て教室の周りを確認した。
どうやら近くにはいないらしい。
そこまで警戒してようやく安心出来たヒイは、ため息と共に肩の力を抜きながらあやの隠れている窓際に向かった。
「しばらくは大丈夫みたい。少し休みましょう?」
「うん……」
おそるおそるといった様子でカーテンから顔を出したあやに笑顔で言うと、きょろきょろと辺りを見回した後、ヒイに抱きついた。
ヒイのお腹にぐりぐりと顔を押し付けるあやを撫でているとようやく落ち着いたのか、彼女はおもむろに座り込んだ。
カーテンの裏という息苦しい空間だが、あやにとっては秘密基地に見えるらしく、怯えのなくなった今、楽しそうにしていた。
その様子を見て、もう大丈夫だと判断したヒイは、今の今まで聞くタイミングを逃していた話を聞くことにした。
「ね、あやちゃん。少しお話ししない?」
「うん、いいよ! わたしもお話ししたいこといっぱいあったんだ!」
にこにこと機嫌が良さそうなあやを見ているだけで癒されるようだ。
休憩を兼ねて色々と聞くことを選んだのは正解だった。
「それじゃあまず最初に、どうしてわたしのことを知っていたの?」
「んーとねー……どうしてだったのかな? 確か、どこかでおねえちゃんを見たことがあるからだよ」
「どこか……? わたしは病院にばかりいるから、そのときなのかな」
ひとまずそれはおいて、次の質問だ。
「あやちゃんはどうして…………っ!」
どうしてここにいるの?
どうしてこんなに幼い子供がここにいるの?
何気なく聞いたつもりだ。
しかし、息が詰まるほどの衝撃だった。今になってようやく、子供がここにいる異質さに気がついたのだ。
だってここは生き残るほうが難しいような世界だ。それなのに、こんな年端もいかない子供が今まで無事でいたのだ。
それに加えて、あやはこの状況に怯えていない。お化け、と呼んだ黒丸には怖がったが、この世界の有り様には恐怖していないのだ。あやほどの年の子供であれば、泣き叫んで母を求めてもおかしくない。にもかかわらず、彼女は当たり前のような顔をしてここにいる。
何もかも異常だ。おかしすぎて、今の今まで気がつかなかった。いくら助けることに夢中だったとはいえ、この違和感は絶対に拭えないものだ。
「どうして、ここにいるの? どうやってここに来たのかわかる?」
「わたし、ずっとここにいるからわからないよ」
「ずっと? ずっとってどれくらい?」
怪訝な表情を浮かべたヒイに首を傾げながらも、あやは言った。
「ずっとはずっとだよ? わたし、ここで生まれたんだもん」
「ここで、生まれ……た……?」
思わず頭を抱えたヒイを不思議そうに見てから、あやは続けた。
「あのね、そのことでお話ししなくちゃいけないことがあるの。わたしね、本当のわたしじゃないんだ」
「本当の自分じゃない……?」
「うん。本当のわたしと、もう一人のわたしがいるんだ」
頭痛を堪えるように額を押さえたヒイの気持ちはわからなくもない。子供の言うことだ、と切り捨てることは簡単だが、こんな世界に子供はまずいない。何かを知っている風なのでそれだけでも聞く価値はあるし、あやにはふざけている様子もなく至って真剣だ。
「おねえちゃんも、この世界がおかしいことは知ってるでしょ? どうしておかしいのかっていうと、ここは『本当のわたしが自分では気づかないうちに』作っちゃった世界だからなんだよ」
「作った? この世界は作られたものなの!?」
ある程度の仮説を立てていたマジメとは違って、ヒイには目を剥くような言葉だった。
「そうだよ。でも本当のわたしはそれを知らないから、おねえちゃんやおにいちゃんをここに連れてきちゃったんだ」
いよいよこの世界の核心に迫る事実を聞くにあたって、ヒイの表情はこれまでにないほど真剣だった。
「詳しく聞かせてくれる? まず、わたしたちがここに来てしまった理由は?」
「本当のわたしが気に入ったからだよ。おねえちゃんもおにいちゃんも、本当のわたしとどこかで会ってるんだよ」
「……それだけなの? そんな理由だけで……?」
「うん。本当のわたしはこの世界のことを知らないから、こんな理由しかないんだよ。おねえちゃんたちは気に入られたから、ってだけだけど、他の人の理由は色々あるの」
他の人間というと、真っ先に思い浮かんだのはセガワだった。次いでハギリ。この二人の印象は強く、決して忘れることは出来ない。
「それじゃあ、わたしたちはこの世界から出られるの?」
口にして、にわかに緊張した。この答えは自分の今後を左右するものだ。どうしたって前のめりになる。
唾を飲み込んで待つヒイに、あやはあっけらかんと言い放った。
「出られるよ?」
「本当に!?」
その答えに満面喜色となったヒイだったが、あやが続けた言葉に沈黙した。
「でも、すこし大変なんだよ。本当のわたしはこの世界のことを知らないから、気づかせてあげないといけないの。そうすればおねえちゃんたちはみんなこの世界から出られるよ」
「じゃ、じゃあ、本当のあやちゃんにこのことを教えれば……」
「うん!」
全身の力が抜けて、ヒイは座り込んでしまった。
今までの苦労がため息となってゆっくりと吐き出されていく。
この暗い世界から脱出できる。何よりも聞きたかった言葉が、ようやく聞けた。
涙が溢れるほどの安堵と共に、ちくりとした痛みが胸に刺さった。
このことを、小田原くんは……。
「おねえちゃんどうしたの? どこか痛いの? 泣かないでよぉ」
そんなあやの涙混じりの声に顔を上げると、泣き出したヒイにつられてしまったのか、あやまで泣いていた。そんな彼女を見て、ヒイは一つ思い出した。
「ぐすっ……ねえ、あやちゃん。さっき小田原くんが生きているっていってたけど、それは本当なの?」
一縷の望みにかけて、しかし決して期待はしなかった。そもそも、どうしてあやがマジメの生死を知っているのかわからない。嘘という可能性も十分にあった。
そんなヒイの考えを、あやはあっさりと砕いた。
「ひっく……おにいちゃん? おにいちゃんは生きてるよ? おにいちゃんは強いもん。あんなお化けなんかやっつけちゃうんだから。ふぇっ……」
嗚咽混じりにそう言って、あやはヒイに抱きついた。
「本当に、本当に小田原くんは生きているの? 無事でいるの……?」
「うん。おにいちゃんは生きてるよ」
「そっか……そうだよね。生きて、生きてるよね」
良かった、良かったと繰り返して、また涙を流したヒイの肩が、少しだけ軽くなった。




