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誰かが夢見るシロクロシティ  作者: 水島緑
レモン・カンガルー
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「う、嘘……そんな、こんなの……こんなのっ」

 ヒイがスケッチブックを地面に叩きつけたことも納得出来るほど、凄惨な絵だった。

 構図的には、子供が描かれていた二枚目とまったく同じだ。しかし背景だった教室の壁には大きな穴が空いており、穴の下には壁の残骸と思しき瓦礫が重なっていた。

「やだ……やだよ。なんで、なんでこんなっこんな未来しか見えないの!?」

 頭を抱えて蹲ってしまったヒイの泣き声に胸がひどく痛んだ。無理もないとマジメも思う。

 彼はヒイが投げたスケッチブックを拾うと、三枚目のページを開いた。

 直視するには、勇気が必要だった。

 教室の壁に空いた穴から、黒丸がぬっと体を出していた。片足を引き抜こうとしていて、体の大部分は既に穴の外、つまり教室の外にあった。

 二枚目に描かれていた子供は、頭から黒丸に喰われていた。

 正確には、捕食している最中だった。

 子供の片腕は噛みちぎられたらしく、切断面が見えたまま廊下に転がっていた。残った腕もちぎれかけており、噛みつかれているように見える腹部は一文字に裂けて、黒丸の口の隙間から内臓がこぼれていた。

 頭から腹部の辺りまで黒丸の口の中に収められた子供の絵。一言でいえばそれだった。

 細部まで見ることは出来なかった。精緻すぎるが故に、耐えられないのだ。

 喉元にせり上がってくる胃液を飲み下して、マジメはスケッチブックを閉じた。喉が痛んだが気にならない。

 ヒイの泣き声は、もはや泣き叫んでいるも同然だった。だが、マジメにはそれを咎めることはしなかった。出来なかった。

「惨すぎる……」

 生々しい絵が今も脳裏に繰り返し明滅している。腕の断面、腹圧に押し出された内臓、白黒で構成された絵でもっとも異質な赤色。

 吐き気が収まらない。

 彼女は何度もこんな惨憺たるモノを見てきたのか。こんなもの、もはや拷問ではないか。

 ただ他人から与えられただけならまだ救いがあったかもしれない。だがこの絵は、正真正銘ヒイの予知能力が生み出した未来予知なのだ。この絵の内容がそのまま起こる。あまりにも惨い話だ。

 脱力したように地面に腰を下ろしたマジメは、思わず空を仰ぎ見た。

 変わらない黒い空。それはまるで救えないことを暗示しているかのようで、つい睨みつけてしまった。

 多少は落ち着いたのか、啜り泣く声を漏らすヒイは必死で眦を拭っていた。

 病院で話してくれたときのように、彼女はまた責任を感じてしまうだろう。そして、絵の子供を救えなかったらヒイは挫けてしまうかもしれない。ただでさえ精神的に不安定な今なのに、そんなことが重なってしまえばヒイは完全に潰れてしまう。

 ならばどうすればいい。ヒイが責任を感じないようにするためには、何をすればいい。

 閉じたスケッチブックの表紙を眺める。

 この中には、マジメが死んでしまう未来予知があった。だがマジメは今もヒイの隣で生きている。そのおかげで、マジメが生きているおかげでヒイの負担は少なからず軽減されたはずなのだ。だったら、方法は一つしかない。

「郡山さん」

「ひぐっ……」

「そのままでいいから聞いてください」

 嗚咽を堪えながらマジメを見上げたヒイに苦笑を向けると、マジメは意を決して口を開いた。

「この子、未来予知に出てきたこの子供を助けにいこう」

 郡山さんだって、そう思っているはずだ。

 マジメの提案に、心底驚いた表情を浮かべたヒイは、驚きのあまり涙が引っ込んだらしい。

 涙目のまま、マジメを呆然と見上げるヒイに頷くと、マジメは静かに拳を握った。

「郡山さんは、助けたくないんですか?」

「そんなっ……そんなわけありません! わたし、助けたいです! でも、だけど、わたし……」

 俯いてしまったヒイに、喉から出かかった言葉が霧散してしまう。

 その不安げな顔を見れば誰だってわかる。

 怖いのだ。あの子供を助けられなかったらと思うと、恐ろしくて仕方がないのだ。

 しかしそれは当然のことだ。

 いくらマジメを助けても、予知を覆したとしても、それ以前に助けられなかった人々の記憶は消えない。偶々、偶然に成功したのがマジメの場合だった、と言われたらヒイはきっと信じてしまう。それだけ彼女の過去は暗く、後悔に満ちていた。

 それを思えば、何をうじうじしてるんだ、なんて言えなくなる。

 だから、これはマジメにしか出来ないことだった。

 他の誰にだって出来ない、ヒイに助けられたマジメだけが、彼女に伝えられることだった。

「ねえ郡山さん。俺、死んでますか?」

「え……?」

「俺、死んでますか?」

 意図のわからない質問に、涙の残滓を拭いながら眉を寄せたヒイに、マジメは繰り返した。

「俺、郡山さんが描いたようになってますか?」

 未来予知のように、死んでいますか?

 マジメは繰り返しそう聞いているのだ。

「俺は確かにここにいます。手も足もちゃんと動きます。影もあります。体のどこも欠けてません。心臓だって、今も音を鳴らしてます。俺は生きてます。生きているんですよ」

 他の誰でもない、貴方が言ったことなんだ。

 小田原真面目は生きている。死の未来を回避して、今ここで息をしている。

「あのとき、郡山さんが俺に予知のことを打ち明けてくれたとき、言ってましたよね? 郡山さんが言ったんです。『わたしが見る未来は絶対じゃない』って。郡山さんが言ったんだ。それを思い出してください」

「それはっ……それは確かに言いました! でもっ、だけど、今度も助けられるなんて限らないですっ!」

 涙を浮かべながら真っ直ぐマジメを睨んだヒイに、睨み返した。

「でも、助けることは不可能だって決まったわけじゃない。それは郡山さんが一番知っているはずだ。何もしてないのに諦めるんですか? 俺を助けてくれたときだって、諦め切れなかったきみが、何もしないまま諦めるんですか?」

 挑発するような言葉に、ヒイが立ち上がってマジメの肩を掴んだ。

「怖いんですっ! 小田原くんは助けることが出来ました。でも、わたしはそれまで誰も助けられなかったんです。小田原くんを助けられたのは偶然って、奇跡だって、どうしても考えちゃうんです……」

 わかる、とは言えない。口が裂けても言えなかった。共感出来るわけがない。これはヒイにしかわからない問題なのだ。

「それでも、郡山さんは諦めなかった。そうでしょう? 俺がここにいることがその証明だ。だから、諦めなきゃいいんですよ。今まではダメだったかもしれません。でも、これからは、俺を助けてくれた今だったら、絶対大丈夫ですよ。予知はあくまで可能性の一つだ。それを、他ならぬきみが証明したんだから」

「本当に、出来ると思っているんですか……? 助けられるって、本当に……」

 頬を伝う涙をそのままに、嗚咽混じりの声でヒイがマジメにしがみついた。

 白状してしまえば、マジメにもわからない。この世に絶対が存在しない以上、マジメの言葉はその場凌ぎでしかない。

 だが、今必要なのはそんなモノではないのだ。

 弱気になってしまったヒイを立ち上がらせる言葉、それが必要だ。

「絶対に、大丈夫だ。郡山さんは一人じゃない。俺も手伝うよ。だから、大丈夫。必ず助けられる」

 一人じゃないと伝えること。

 今まで、予知で見てきた人間を救うことができなかったときとは決定的に違うこと。それは、一人じゃないということだ。

 一人じゃダメなら二人で。まるで子供の考え方のようだが、笑う奴はどこにもいない。

 だからマジメは胸を張って言うのだ。

「郡山さんはもう一人じゃないんだ。だから、救えるよ」

 きみが助けてくれた俺が、一緒にいるよ。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、ヒイはマジメの瞳を真っ直ぐに見つめた。

 ぼやけてにじむ視界でも、マジメの瞳だけはしっかりと見えた。

 喉が震えてしまって上手く言葉にできない。何度も口を開閉させてようやく、言葉が音になった。

「わたしに出来るって、本当に思っているんですか……? 助けられなかった人の数のほうが多いんですよ?」

「これは俺の予想ですけどね、多分、郡山さんしか助けられないんじゃないんですか?」

「……え?」

「だってそうだろ? 他の人間には未来なんて見えないんだ。だから死んでしまう未来はわかりようもないし、回避しようもない」

「で、でも、もしかしたら自分で……」

「自分で助かることも出来る、なんて馬鹿なこと言わないでくださいよ。自分で助かることが不可能なのは、郡山さんがよく知っているはずだ」

 ここまでマジメが言っても、ヒイはまだ否定しようとしている。

 自信がないのだろう。助けられる、と断言できないのだ。だが、そんなことはマジメも同じだ。『絶対』だの『必ず』だの、マジメも信じてはいない。だが、それらの言葉を使う必要があるのだ。『もしかしたら』なんて、今のヒイに言えるはずがない。

 絵の子供を助けること。それが今後のヒイを左右すると、無意識のうちでマジメは理解しているのだ。だからこそ、こうして言い募っている。

 その熱意が伝わったのか、ヒイは鼻を啜りながら考え込んでいる様子だった。

 いまここで諦めて、これからも予知を無視して過ごすことだって選択肢の一つだ。だがそれを選んでしまえば、ヒイの中で何かが壊れてしまうのではないかとマジメは感覚として感じていた。いままで予知で見てきた人たちを助けようとした努力が、すべて水の泡になってしまう。そうしてしまえば本当に誰もヒイの頑張りを肯定できなくなってしまう。

「決まりましたか?」

 急かすつもりはない。じっくりと考えて、納得できるまで咀嚼する必要がある。急いで出した結論など、正しいのか定かではない。

 本当の意味で、彼女の意思で選び、決める必要があるのだ。

 そのためならば、マジメは何日でも待つつもりでいた。

 俯いて黙考していたヒイがふと顔を上げた。そうしてマジメの顔をじっと見つめると、彼女は未だ涙で潤んだ瞳で、マジメの目を真っ直ぐに見た。

 視線の中に渦巻いている感情は複雑で読み取ることができない。それでもきっと、彼女は真摯に考えているのだろう。マジメ自身かそれを一番知っている。

 出来ることなら、ヒイには諦めてほしくなかった。もし彼女が絵の子供を助けに行くと決めれば命を懸けて協力するつもりだ。

 こればで積み上げてきた努力が無駄になるとか、命を救われた恩義に報いるだとか、そんな話ではなくて、もっと心の奥の、純粋は部分が諦めてほしくないと囁いているのだ。言ってしまえばそれはただのわがままだ。もちろん、彼女の選択を尊重するつもりでいる。押し付ける気は毛頭ない。だがどうしても、すべてを諦めて俯いてしまうヒイの姿は見たくない。

 それこそ、わがままを貫いても。

 風の吹かないこの世界は、ただただ静かだ。沈黙は未だ破られず、マジメとヒイの二人は見つめ合ったまま動かない。

 先に口火を切ったのはヒイだった。

「あの、小田原くん。わたし、助けに行きます。やっぱり、知っているのに何もしないなんて、そんなことできません。でも、その……一人はちょっと怖くて、あの、だから……お手伝いしてくれませんか?」

 その決断に、どれだけの勇気が必要だったのだろう。不安げな眼差しでマジメを見るヒイに、彼は待ってましたとばかりに大きく頷いた。

「喜んで。きみに救われた命だ。こき使ってくれよ」

 その言葉に、心底安堵したとヒイは淡い笑顔を浮かべて吐息を漏らした。

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