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ひとしきりヒイが笑って、ようやく落ち着き始めた頃にマジメの紅潮も落ち着いてきた。ずいぶんと恥ずかしい思いをしたものだが、聞かれたのがヒイだけだったことはむしろ幸運だったのかもしれない。
あまりにも恥ずかしいのでヒイの方は見れず、逃げるように空を見上げたマジメはコンクリートの塀に背中を預けた。
硬く、ざらついたブロックが後頭部に触れるが、その無機質な感触だけは現実と変わらない。膝元の砂にも触れてみるが、こちらも現実と変わらない。
何故、色だけが違うのだろうか。ただの変色で済むような話ではない。炭を敷き詰めたように黒く、それでいて手触りはまるで変わらない。
果たしてこの黒色に意味はあるのか。空の青はどこにも見えず、どこまでも黒が広がる空には清廉さの欠片もない。
荒廃した町も真っ黒に染まった色も、見様によっては誰かの心象風景のようだった。
「あの、小田原くん。少し話してもいいですか? 少しだけ、苦しくて……」
突然静かになったヒイが小さく言った。笑いの残滓はとうに消えたのか、何かを堪えるような表情をマジメに向けた。
そんな顔を見せられては聞かないわけにはいかなかった。それに、仕方なく、というよりも、吐き出してほしいと思う。
「聞くよ。最後まで全部聞く」
「……ありがとう」
泣き笑いの表情でそう言って、ヒイは深呼吸をした。
「懺悔、とは違うと思います。頭の中、整理したいのかな。わたしね、本当は葉切ちゃんがこの世界に長くいることを知っていたんです」
「知っていた……? 見分ける方法とか、あるんですか?」
「はい。あ、でもこれもわたしがそうじゃないかなって思っているだけで、本当に判別出来るのかはわからないんですけど……」
あくまでも、経験則からくる分析だ、というヒイに頷いてみせた。
「この世界で目覚めるとき、小田原くんはいつもわたしより後に起きていませんでしたか?」
「確かに」
「夢の世界に長くいればいるほど、目覚める時間が早くなるんです。それで、葉切ちゃんはわたしよりも早く起きていて……。だから、あの子はわたしよりも長くここにいるんだと思います」
「なるほど。その理屈で考えると確かに葉切さんは俺よりも先に起きていたな。来たばっかりっていうのは、嘘だったのか」
思い返してみれば確かにハギリはマジメよりも先に起きてイタズラに励んでいた。信憑性はそれほど高くないが、手軽な見分け方としてなら十分に使えるだろう。
「黙っててごめんなさい……。こんなんじゃわたし、小田原くんのことも信じてないってことになるね……」
沈痛な面持ちで俯いてしまったヒイだったが、当のマジメはあっけらかんとしていた。
「それは仕方ないですよ。俺たち、出会ってからほんの数日しか経ってないんですよ? 信用出来る相手なのか見極めることだって大切で、現実よりも慎重にならないといけない。だからそう落ち込まないでくださいよ」
信用出来なくとも、助け合うことは出来たのだ。協力し合っていた、と思い込んでいて、利用されていたとしてもマジメは今も生きている。
どうにも負の連鎖に陥ってしまっているヒイに、マジメはのんびりと緩い口調で答えた。
「……ありがとう。わたし、いつも小田原くんに助けられてばかりだね」
「そんなことないですよ。お互い様です」
「ううん、やっぱりそんなことあります。わたし、全然小田原くんを助けられていませんよ。だから、これからはわたし、小田原くんを助けられるようにがんばりますね」
そういって、ヒイはぎこちなく笑ってみせた。
またしても赤くなってしまった瞳でマジメを見ると、彼女は胸に抱えたスケッチブックを抱きしめた。
こんな世界だからこそ、普段はうやむやで目に見えない信頼というものが大切になるのだろう。言葉に出さなければ伝わらないように、それぞれの胸の中に隠れている信頼は伝わりにくいものだ。行動や仕草、言動、それらの中に見え隠れする信頼は、ひどく曖昧だ。
すんすんと鼻を鳴らすヒイを見て思う。彼女のように言葉に出来る人間はきっと少ない。今までの関係が崩れてしまうかもしれないのだ。誰だって、信頼されているか不安に思っていても、それを口に出すこと出来ずにいる。
マジメが今までヒイに見出していた強さとはまた違うが、これもまた、ヒイだからこそなのだろう。
彼女はきっと、言葉の重要性を知っている。知っているからこと、嫌われることを覚悟で話したのだろう。今回のような経験が以前にもあったのかもしれない。
それから二人はぽつりぽつりと言葉を交わしながら、珍しく穏やかな時間を過ごした。
しばらくはヒイが固いままでぎこちなかったが、変わらず接するマジメに安心したのだろう、時間が経つとともに固さはほぐれていった。
この世界に来て、一番穏やかな時間だった。
「そういえば郡山さん、あれから予知は起きたりしたんですか?」
うつらうつらとしていたマジメが、ぼんやりとスケッチブックを見ながら言った。
「いいえ、今のところは小田原くんのことが最後で、現実世界でも起こりませんよ?」
「結構不規則なんですね。俺はてっきり、一週間に一回とか、三日に一回とか、決まってるのかと思ってました」
「最初の頃は毎日見てましたよ。慣れてなかったんでしょうね。それからだんだん間隔が開いて……き、て」
突然黙り込んだかと思うと、ヒイは唐突にスケッチブックを捲り始めた。
驚くマジメを尻目に、ヒイはページを捲り続けてマジメの絵が描かれたページも越えると、真っ白な紙に指を当てた。
「ちょ、ちょっと郡山さん? 急にどうした……まさか、予知……か?」
脈絡のない行動と、意思の感じられない瞳を見て思い当たったマジメは、ひとまず様子を見ることにした。危ないことをしたら全力で止めるつもりだ。
しかし今、ヒイは鉛筆や筆といった道具を持っていない。いったいどうやって絵を描くつもりなのだろうか。
白紙の画用紙に指を当てたまま動かなくなったヒイが、ふと思い出したように動き出した。
「冗談だろ……」
マジメが見たのは、まさに超常の力だった。
紙に当てた指先をなぞるように動かすと、それだけで鉛筆で描いたような線が生まれた。
爪の間に何かを仕込んでいるわけでもなく、正真正銘指先だけで絵を描いていた。
なぞるたびに曲線が形を成していき、ものの数分で一枚の絵が完成した。
それで予知は終わりかと思ったが、描き終わると同時にヒイはまたページを捲り、先ほどと同じように描き始めた。
マジメの位置からでは覗き込んでも描いている絵は見えなかった。おとなしく待つことにしたが、虚ろなヒイの姿が不安だった。
二枚目も描き終わったようで、ヒイはぴたりと動きを止めた。ヒイを揺さぶろうとしたマジメの手が肩に届く前に、またしてもヒイはスケッチブックを捲った。
ほんの十数分程度で三枚もの絵を描き上げてしまったヒイは、今度こそ動きを止めた。その拍子に膝に置いたスケッチブックが道路に落ちてしまうが、マジメがそれを拾い、ヒイの肩を揺さぶった。
「郡山さん? おーい、大丈夫ですか?」
無心に絵を描いてる姿に特に悪いものは見えなかったため、マジメもそこまで心配はしていないが万が一ということもある。本人の口から状態を聞こうとした。
肩を揺さぶって呼び掛けてもしばらく反応がなかったが、弾かれたようにびくりと体を震わせてまばたきをした瞬間、彼女の強張りが解けた。
「大丈夫?」
「え? あ……もしかしてわたし……絵を描いてましたか?」
「うん。急に反応なくなったから驚いたよ。体は平気ですか?」
「はい、慣れていますから。でもどうしてこんなタイミングで……」
魂が抜けたかのような姿は、そのまま意識がなかった証明になっているようだ。
それにしても、とマジメも思う。ちょうど予知能力の話題を切り出したときだった。まるで狙っていたかのようなタイミングは、作為的なものすら感じてしまう。
言霊、なんてものが発動したなんて考えたくはない。
「とにかく、絵を見てみませんか? 郡山さんの予知能力が誰かの死に様を描いているとしたら危ないかもしれない」
「あっ、そうですね。出来れば、明日のおかずが描いてあってほしいです……」
希望とは裏腹に、やや諦め気味に呟いたヒイがスケッチブックを開いた。
新しく描かれたページまで捲る。
「お、おいおい……これ、東地高校か?」
まるで、絵本のようなファンシーなタッチで描かれた東地高校が、真っ白に染まっていた。
毎日通っているのだ。正門から真っ直ぐ校舎まで描かれた絵を見間違えるはずはない。
現実の東地高校は校舎も屋根も白くはない。つまりこの絵はこの世界での高校になる。
見惚れるほど精巧であっても、見知った場所が予知の舞台となるのはあまり気持ちの良いものではない。とはいえ、特に思い出もないのでマジメは先を促した。
「次は……女の子、ですか? この子に見覚えはありませんか?」
二枚目の絵は人物画だった。こちらもため息が漏れるほど精緻だ。外見年齢は十歳前後だろう。髪の長さはセミロング程度、小学生くらいの容姿は幼いながらも将来性を感じさせるほど整っており、どこかで見たことがある気がしたが、知り合いにはいない。
どこかの教室を背にしており、子供は東地高校の中にいるようだった。
「俺は知らないです。郡山さんは……知らないですよね。でもどうしてこんな小さな子が。もしかして……」
マジメの言わんことを敏感に感じとったのか、ヒイが思わずといった様子でマジメを睨んだ。しかしそれも束の間のこと、自分がマジメを睨みつけていることに気がついたヒイは慌てて頭を下げた。
「ご、こめんなさいっ! わ、わたし、つい……」
「あ、ああ。いや、俺の方こそ無神経でした。すみません」
ヒイが見せた激情に面食らったマジメは、驚きつつも素直に謝った。ヒイが散々苦しめられてきた予知能力なのだ。それほど過敏になっていてもおかしくはない。温厚なヒイがあれだけ怒りを剥き出しにしたのだ。彼女の重荷の一端を知っただけのマジメが、軽々しく触れていいわけがない。
気まずくなってしまった空気を変えるように、ヒイが最後のページを捲った。




