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家に帰ったマジメはやけくそ気味に弁当を平らげると、ふて寝した。
感情の収まりがつかないのである。
憤慨やるかたない、というやつだ。
そのせいでふて寝した。起きていると何かに当たり散らしてしまいそうだ、ということもあった。
とにかくマジメは目を瞑って眠ることに集中した。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
目が覚めるとそこは、地獄だった。
というのは嘘で、しかしマジメたちにとってはまさしく地獄に違いない黒い空が広がっていた。
夢に起きたマジメはそのまま惚けたように空を眺めた。
雲も星も何も見えない。もしかしたら雨雲が一面を覆っていて黒く染まっているのかもしれないが、天候は晴れたままだ。
そういえば、この世界には気候や天気の変化がない。雨は降らないし、気温は一定らしく汗もかかなければ肌寒くも感じない。
代わりに太陽や陽光というものが損なわれているが、どういう理由か暗くはないので特に問題はない。
硬いアスファルトの地面から体を起こしたマジメは周囲を見回した。
変わらない荒れた景色と、すぐ傍にはいつもと同じようにヒイが……いない。
見慣れた彼女の姿はどこにもなかった。
慌てて立ち上がったマジメが一瞬で冴え渡った頭で辺りを見回すが、ヒイはどこにもいなかった。
「な、なんで……」
両親が妹を連れて家を出た記憶が脳裏を過ぎり、マジメは振り払うように頭を振った。
大丈夫だ。最初から、いつかは別れるときが来ると思っていた。驚きはしたが受け止められる。もう子供じゃないんだ。大丈夫。
割り切った頭とは裏腹に、言い聞かせるような内心に戸惑う。
絡まり合った糸のような、複雑怪奇に渦巻く感情に翻弄されながらも、必死で心の昂りを落ち着けようとした。
この形容し難い感情には覚えがある。あまり覚えていたくはなかったが、確かに記憶に残っていた。
心拍数が上がるくらいの緊張と、額に汗が浮かぶほどの焦り。呼吸は無意識のうちに浅く短くなっていき、足元から這い上がってくるような怖気は今も鮮明に覚えている。そんな風に混ざった感情の大部分を占めるのは寂寥感だった。
いや、小さな感情すべてが、寂寥感から滲み出してきているのだ。
「いやいや、この年で寂しいとか……。相手は女の子なんだぞ? 年齢はわからないけど、俺よりも小さい女の子相手に寂しいなんて」
あり得ない。口ではそう言うが、完全には否定し切れずにいた。
まやかしだ。勘違いだ。
頭を振って否定して、マジメは深く息を吐いた。
「とりあえず、近くを探してみようか」
普段ならこんな独り言も呟かない。
塀の中にヒイの姿はないので、マジメは塀から出た。そのまま周囲を見渡してみるが、彼女の姿はない。
近辺にいてもいなくても無事でいるように祈りながら、マジメはひとまず道なりに歩いてみることにした。堀から見て、道路は左右に分かれているのだが、右手の道は瓦礫が積み重なっていて通れそうもないので、そちらは放っておく。ヒイくらい小柄な人物なら通れるかもしれないが、マジメは通れないので右の道は諦めた。
荒廃した、と呼ぶに相応しい荒れ果てた道を歩いていくと、広々とした三叉路に出た。丁字路のそこは軽トラックが二台ほど横転してもまだ余裕があるほどだ。そんな広い道路に面している敷地も相当に広々としていて、現実だったらここは高級住宅街だということが一目でわかるだろう。
野球場一つは軽々と入ってしまいそうな敷地の数々は、当然の如く建物がない。そんな敷地の中にある、土のない花壇にぽつんと座っているヒイを自らの目で確認したマジメは、深々と安堵のため息を漏らした。
手のひらに浮かんだ汗がすっと消えたようだった。動悸も元に戻り、奇妙な焦りも綺麗になくなった。
すぐに駆け寄ろうとしたマジメだったが、どこか上の空なヒイの姿を見て足を止めた。
ぼんやりと遠くを見つめる瞳に焦点は合っていない。おそらく無心でいるのだろう。手にはスケッチブックを持っているが力は込められておらず、花壇に腰掛ける姿に覇気がない。
虚ろにも見えるヒイの姿に、声を掛けることを躊躇ったマジメだったが、こうしていても埒があかないと意を決して彼女に近づいた。
「ここにいたのか、郡山さん」
「え……あ、小田原くん」
ぼんやりとした目でマジメを見上げること数秒、ようやく意識がはっきりとしたのか目の焦点が合い、光が戻った。
「どこにもいないから探しましたよ。無事で良かった」
「……心配かけてごめんなさい。でも、ちょっとだけ一人になりたくて」
考えなくてもわかる。ハギリのことだろう。元気のない姿をみれば一目瞭然だ。自分の行動に慙愧の念が堪えないのだろう。
だが、マジメはヒイのせいだとは思っていない。遅かれ早かれどちらにしても、ハギリは二人の目の前からいなくなっていただろう。ハギリは二人を殺すために同行していて、その結末には二通りしかなかった。
すなわち、今のようにハギリが姿を消すか、マジメたちが殺されるか。
和解することはきっとなかったはずだ。悪くない関係を、ハギリからしてみれば取り入った関係だが、喧嘩することもなく、良好な間柄ではあったが、和解という選択肢はなかった。だからハギリはいなくなったのだ。彼女の言う『姉』に、ハギリが縛られているのか、どうしても離れられない理由があるのかはわからないが、どちらにしてもこの結果になっただろう。
殺せない、と泣いたハギリの言葉は、きっと本心だった。不思議と、そう思えた。
「これから、どうしますか?」
「どう、しましょうか……」
膝に載せられたスケッチブックの上で、小さな手がきゅっと握られた。
「もう、どうしたらいいのかわからないんです。どこに行けばいいのかとか、誰を助けたらいいのかとか、わたし、全然……」
くしゃり、と表情を歪めたヒイはそのまま顔を手で覆ってしまった。
小刻みに震える肩を見て、ヒイが精神的に追い込まれていること悟った。
マジメもそうだったが、彼は心のパンクを回避する方法を無意識ながらに活用した。それは過去の経験から学んだことだ。彼女の様子を見る限りではヒイは知らないようだ。知らないのであれば、きっと今、ヒイは心が折れてしまう寸前なのだろう。そうでなくとも、ここ数日のめまぐるしい出来事の数々に心はすり減り、疲れてしまっている。それはマジメも同じで、多分、この世界にいる人間はみんな同じなのだ。
「俺も、俺もわかりません。脱出する方法も見つからず、ほんの少しのヒントだってどこにもない。そのくせ、黒い奴らはどこにでも現れてくる。ホント、もうどうしたらいいんだか」
傷心の女の子を慰めるために肩を抱く、なんてことは出来そうになかった。それでもせめて傍にいることだけはわかってもらおうと、マジメは静かにヒイの隣に座った。
黒い花壇に手をおいて、マジメは強張っていた肩から力を抜いた。空を見上げて、続けた。
「少し、休みましょうか。肩の力を抜いて、今みたいにどこかに座って、ゆっくり休みましょう。ここには親も教師もいないんだからのんびりしたって怒られませんよ」
そんな能天気なマジメの提案に、ヒイは思わずといった様子で顔を上げた。しゃくりあげ、眦から零れる涙の拭うヒイに苦笑を浮かべると、マジメは伸ばした袖で濡れた頬を撫でた。
「誰に咎められることもないんだからさ。休み休み、少しずつでもいいから前に進んでいこう。根を詰めてもいいことないってわかったんだ。自分たちのペースでいこうよ」
どれだけ焦っても、どれだけ急かしてもすぐに結果が出るわけではない。むしろ急いだ分だけ、焦れた分だけ疲れてしまうのだ。それなら無理のない範囲でやっていくのが一番いいのだ。どうせ、毎日毎日この世界に来る羽目になるんだ。現実と同じように、少しずつ進めばいい。
「だから、このへんで休もう。あれだよ、戦士たちの休息ってやつ。俺たちは現実の大人よりも忙しいかもしれないんだ。だから休んだって平気だよ」
まるで論理立っていない言葉だということは自覚している。それでも、口下手な自分にしてはよくやったと思う。
マジメの想いが伝わったのか、いつの間にかヒイは泣き止んでいた。
長い前髪の奥で赤い目元を緩ませて、小さく笑ったヒイは頷いてくれた。
「そうですね。もうずっと走っていました。こんなに息切れしちゃってたら倒れちゃうもんね。はい。少し休みましょうか」
今の二人に必要なのは、傷を癒せるだけの休息だ。理由は違えど疲れた二人はそれぞれのことだけを慮って、この辺りでブレーキを掛けることにした。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
それから、二人は昨日見つけた安全性の高い塀の中に戻った。完全に気を抜くことは出来ないが、四方を囲まれているので体を休めることはできるはずだ。しばらくここで足を止めることにして、二人は塀に背中を預けて座った。
元は砂地だったようで、座るならまだしも寝転がるには適さない地形ではあったが、幸いにもマジメもヒイも上着を羽織っている。それをシート代わりにすれば横になることも可能だ。
上着といえば、今の今までマジメは気づかなかったが、どうやら先ほど目が覚めたときからいつの間にかパーカーを取り戻していたらしい。上着を着ている方が自然過ぎて、ヒイの涙を拭うまで気がつかなかったが、助かった。黒色もさることながら、破れない上着というのはかなり使い勝手が良い。使いようによっては武器にもなるし、シートにも掛け布団代わりにもなる。
どうやら、一度現実に戻るとその時点でリセットされるらしい。リセットされる範囲こそわからないが、服が元に戻るのは素直にありがたかった。
服が戻るついでに怪我も治ってほしいのだが、そんなことが起きたらこの世界で死ぬ人間はいなくなる。例え夢の中だとしても、一度死んでしまえばそれっきり、というのは非常にシビアで、現実に沿っている。
ふと口から出そうになったが、あまりにもくだらないので押し留めた。
非常に非情。
箸が転がっても笑う年頃の女子でも笑わないだろう。
そんな益体もないことを考えていると、突然ヒイが笑い出した。
「非常に非情……ふ、んふっ、んふふっ」
無意識のうちに漏らしてしまったようだった。ヒイの笑い声から逃げるように、マジメは真っ赤な顔を膝に隠してうつむいた。
いやしかし、まさか女子にうけるとは。そうは思うがそれよりも、くだらないダジャレを聞かれたことのほうがよっぽど致命的だった。




