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崩れかけたレンガ造りの塀から身を乗り出して、マジメは周囲を窺った。
足音のない黒丸を事前に発見するのは困難であるが、あいつらはなによりもその巨体が目立つ。そのため、周囲の状況にさえ気を配っていればいつの間にか背後にいた、なんてことは回避出来る。
本来なら、敷地を囲っていたであろうこのレンガの塀は見るも無残に崩れている。まるで数十年間雨風に晒されていたような劣化具合だ。触れただけでも崩れてしまうこの塀では、身を隠す壁にはならない。
せっかく見つけた遮蔽物ではあるが、耐久性に不安があるのなら使用は無理だ。
幸い、ビルが密集していたオフィス街と呼べる地域は抜けたようで、辺りには使えそうな遮蔽物が転がっている。
マジメが動くのをじっと待っているであろう、背後の二人の間には未だ奇妙な緊張感があった。
仲が良かった二人が言葉を交わさないとなると、自然に口数も少なくなる。正直、いますぐにでもこのピリピリとした空気をなんとかしたいのだが、今はまだそういうわけにもいかなかった。
この辺りは住宅街のようだ。先ほどまでと同じように広大な土地ではあるが、家が多いということで役に立ちそうなものがごろごろと転がっている。
潰れた自動車、折れた街路樹、穴の空いた塀など、利用出来るものは多い。
三人の体を隠すにはそれなりに大きな壁でないといけない。マジメが選んだのは、今背にしている塀よりも状態が良さそうなコンクリートのブロック塀だった。
辺りに黒丸がいないことを確認したマジメは、後ろの二人に手招きして動いた。
なるべく足音を立てないように歩き、すぐに到着した。
コンクリートブロックのざらついた表面に触れてみて、崩れそうではないことを確認したマジメは、その裏に体を隠した。運の良いことに、この敷地を囲む塀はほとんどが無事だった。内側にあるはずの建物は存在しないが、代わりに姿を隠すにはうってつけの場所である。
四方を壁で囲まれているおかげで、ようやく一休み出来そうだ。だが、こんな空気では気になって休むことままならないため、マジメは重い腰を上げてなんとかすることにした。
「いつまでそうしてるつもりなんですか?」
「え? えっと……」
「その微妙な空気ですよ。殺伐としてる、とまではいきませんけど、刺々しくてゆっくり休むことも出来ませんよ」
「そう、ですよね。ごめんなさい」
「……すいません」
それっきり、二人は黙り込んでしまった。
しまった。
頭を抱える。
鈍いマジメでもわかる。切り出し方を間違えた。
とはいえ、喧嘩の仲裁など小学生以来でほとんど覚えていない。どれだけ友人のいない生活を送って来たか再認識して、ちょっぴり切なくなった。ともあれ、二人のよそよそしさをなんとかしなければ、話し合うこともできないだろう。
「とにかく、そう黙っていてもお互いに辛いだけなんじゃないのかな?」
「小田原くんは……小田原くんは平気なんですか?」
「それは、どういう意味で?」
「だって私、鴨井さんの言葉だけで葉切ちゃんのこと疑ったんです。時間こそ短いですけど、鴨井さんよりも先に出会って、いっぱいお話して。それなのに私、葉切ちゃんのこと全然信じてなかったんです……」
最低ですよ。そう言って唇を噛み締めたヒイの表情は苦渋で満ちていた。
彼女は自分が許せないのだ。自分が許せないから、どんな顔をして疑った相手と話せばいいのかわからないのだ。
「やっぱりすごいよ、郡山さん」
マジメはそう言った。困惑の表情を浮かべてマジメを見つめたヒイに薄く笑顔を見せた。
「どうして……?」
「普通だったらそんなこと面と向かっていえませんよ。ましてや本人の前なんて、絶対」
「でも、それは、私……どうしていいかわからなくて」
「わからないからこそ、郡山さんは正直に打ち明けたんでしょう? 取り繕うことだって出来たはずだ。でまかせだって言えたはずだ。口だけで信頼してるって、そう隠せたはずですよ。でも郡山さん、そうしてないじゃないですか」
だから、と今度はハギリに向かって言う。
「俺も、はっきり言うよ。俺、葉切さんのことは信用出来ない」
「小田原くん!?」
言い切るとヒイが素っ頓狂な声を上げた。
「でもきみは、俺や郡山さんのことを色々と助けてくれた。信用することは出来ないけど、助けてくれた恩は必ず返すよ」
ハギリの目を真っ直ぐに見た。
もとより、マジメは奥手で友達が少ない。ゆえにこういったストレートなことしか思いつかなかった。
実際にハギリには助けられた。マジメではヒイと談笑なんて出来る自信がなかったし、ヒイが暴走しかけたときも止めてくれた。それは紛れもない恩だ。
「なんですか、それ」
俯いて黙り込んでいたハギリがようやく顔を上げた。
「どうして二人とも、あたしのことを怒らないんですか? 四季の言葉は本当です。あたし、先輩たちを騙そうとしていました。先輩だって、ずっと疑ってたじゃないですか! どうして責めないんです? どうして怒らないんですか?」
暗く沈んだ声だった。しかしどこか縋るような色が混ざっていることに、マジメたちは気づいた。
「俺はさっき言った通りだ。きみには助けられた覚えはあっても、騙された覚えはないよ。それが、今から騙すのだとしても、恩を返すまで変わらない」
「わ、私は……。ごめんなさい、葉切ちゃん。あなたのこと全然信じてなかったね。でも、だからこそ、私はいま、葉切ちゃんのことを信じたいです。もう一回チャンスをくれませんか?」
もう一度仲良くなりたいです。
その言葉に、ハギリの目は見開かれた。
うなだれていたハギリはふらりと立ち上がり、覚束ない足取りでマジメとヒイから離れると突然背を向けた。
「葉切……ちゃん?」
何故か離れて行ってしまうハギリを追いかけようとしたヒイの手が、ぴたりと止まった。
「あたし、やっぱり無理だよ……こんなに優しい人たち殺せないよ……」
「今、なんて……」
「ごめんなさい、お姉ちゃん……」
黒いはずの地面に、水滴の黒い跡が残った。




